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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第2章 小林裕介
19/74

10

 

 男は、その唇に勝利の笑みを浮かべて目の前の炎を見つめていた。

 彼の放った火炎に美しい若者が身を包まれ、紅蓮の炎の中でのたうちまわっている。

 妖――魔界の裏切り者。

 その魔力、強大にして天を引き裂き、星をも砕くとまで云われたあの悪魔も、人間への転生の際に疲弊し、記憶を失った今、この私に勝つことなど出来はしないのだ。

 いつしか、眼前の敵は完全に炭化し、動きを止めていた。

 ベルゲリウス・ホーンは、手にした杖で人型の炭を弾くと、乾いた音を立てて炭の右腕は砕け散り、胸は容易に貫かれていた。

「ふ…ふふふ」

 ベルゲリウスの口から笑いが洩れる。だが、その笑いは先程までの勝利を意味したものではなく、勝利に酔った己れへの自嘲へと変化していた。そう、彼は自分を嘲笑していたのだ。

「やはりな。おかしいと思ったのだよ、少しはね。いかに転生を繰り返し魔力が弱まったとはいえ、貴様は凶様を倒し、侯爵様をも退けている。そのお前が、たかが火炎呪文で死ぬなど。どうかしていたよ、くくく」

 ベルゲリウスは、人型の炭に眼を向けたまま、それに語りかける風もなく喋っていた。

「――幻術(イリュージョン)か」

「まあ、そんな所だ」

 応えは、魔導師の背後からあった。

 男はその気配に気づいていたのか、別段驚いた様子もなく、従容と振り返る。

 刹那、ベルゲリウスの耳許で風が唸った。

 それが、こめかみに向かって妖が放った蹴りだと認識するより先に、彼の身体は反応していた。

 両腕で、妖の脚をがっしりと抱え込んだのである。そしてそのまま腕に力を込めれば、妖の脚は逆の方向にねじ曲げられていたろう。

 無論、ベルゲリウスはそうするつもりでいた。しかし、彼が行動を起こすよりも先に、否、脚を抱え込まれると悟った瞬間に、妖の残った軸足は床を離れていたのである。

 激しく肉を打つ音がして、ベルゲリウスはたたらを踏んで後退した。

 首の後ろを押さえながら、もの凄い目つきで妖を睨みつける。

 妖の浮かべる、うすら笑いが気に食わないのだ。

 馬鹿にしやがって、若造が。

 結局、ベルゲリウスは、体術で妖に遅れをとっているという事実を受け容れたくなかったのだ。もし受け容れてしまえば、体術・魔術の最高実力者に送られる称号が有名無実のものと化し、自分の存在理由がなくなるからだった。

 彼ほどの実力者は、恐らく数百年に一度しか生まれては来ないだろう。事実、ベルゲリウスの生きてきた三百年のあいだ、彼を超えるものはついに誕生しなかったのだ。

 その事実が、彼をして称号『大魔導師』に執着させる結果となり、進むべき道を誤らせたと考えられる。

 妖は、彼ほどの魔力を持っていれば、人を善き処へと導くことが出来る筈だと思っている。しかし、その役目はどうやらベルゲリウスではなかったらしい。彼は別の役目――人類に敵対することを選んだのだ。

 人の革新という偉業を達成するためには、その進路をふさぐ邪魔者は全力で取り除く。それが〝美槌〟の役目――というよりは、妖自身の役目なのだ。

 まるで、遙か古よりさだめられた運命であるかのように、妖は感じていた。

 革新を自らにもたらす。それは人類のやらねばならないことだが、それが成し得る状態をつくることは、妖たちの仕事だった。

「くそっ」

 鋭い呼気を吐き、魔導師が猛然と突っ込んできた。まるで、獰猛な虎の如き気迫だった。

 右のブロウが唸りをあげて伸びてくる。

 と見せかけて、ベルゲリウスは蹴りを放った。そして、間髪入れずに左の貫手を繰り出すという、絶妙の攻撃を妖に仕掛けた。

 だが、妖はベルゲリウスを遙かに超える戦士であったから、そのめまぐるしい攻撃を躱すことは、彼にとって容易なことであった。

 裂帛の気合い。

 ベルゲリウスが左足で妖の腹を蹴りに行く。

 妖は、しかし、それよりも迅速に行動していた。天井近くまで軽々と跳躍していたのである。そして、鞭のようにしなやかに右足が伸び、ベルゲリウスを床に叩きつけたのだった。筋骨のひしゃげる、イヤな音がした。

 立ち上がったとき、魔導師は血の気を失って、左の鎖骨あたりを服の上から押さえていた。どうやら今の蹴りで骨を砕かれたようだ。 凄まじい威力を秘めた蹴りだった。人間業とは思えぬほどの……。

 そうか、奴は、人間ではなかったのだな。

 自嘲じみた笑みを浮かべるベルゲリウスに、

「折れたか?」

 妖は残虐な微笑を浮かべて告げる。

 ベルゲリウスは、その微笑のあまりの凄愴さに、知らず後退っていた。

「――馬鹿な奴だ。この俺と対等に渡りあおうなどと。俺を誰だと思っている」

 言いつつ、妖は従容と歩を進めた。

 眼の色が、瞳の色が急速に変化しつつある。

 吸い込まれそうなほど深い黒瞳から、神秘的な翡翠の色に。

 それは、妖の悪魔としての本性がむき出しになる瞬間に起きる現象だった。

 逃げたかった。

 しかし、逃げたが最後、侯爵の手に掛かって無惨な死を遂げることは明白だった。それだけはイヤだった。

 魔人による処刑は、肉体を無数の骨肉片に引きちぎる残酷さで、しかも、そうなってもなお死ぬことが出来ないのだ。

 肉片が、痛い、死にたいと訴えるのを耳にしたことが、これまでに何度もあった。

 あんな死に様だけは、ごめんだった。

 しかし、ベルゲリウスの後退を阻んだのは、何も死の恐怖だけではなかった。妖を斃した時に与えられる甘美な報酬の方が、実際は大きく心を占めていたのである。

 魔界帝国七大悪魔王の、どの配下となるかは不明だが、とにかく魔界貴族の末端に名を連ねることが約束されているのだ。

 たとえ末端といえども、魔道を究めようとするものにとって、それは至高の報酬といえた。

 だから、ベルゲリウスは反撃を試みたのである。先刻の火炎呪文では、妖の魔力のレベルを超えることが出来なかった。そこで、今度は火炎系呪文を遙かに上回るレベルの呪文をぶつけることにしたのである。

 妖は、魔導師の口がもの凄い速さで動くのを見た。

 常人が聞き取れぬほどに圧縮された呪文を、高速言語を使って唱えているのだ。しかも、あのフレーズは召喚呪文だ!

「何を呼び出す気かしらんが、一瞬の隙が死に至ると思えよ、ベルゲリウス!」

 何という自信。

 そして、何という高慢さか。

 呪文の詠唱に終わりが近づき、魔導師は妖の出方を窺っていた。

 しかし、妖は動かぬ。

 妖もまた、何が起きるのか見届けようというのだ。口許を邪悪な笑いに歪めて。

 力のある言葉が終わり、そして、変化が起きた。

 二人のちょうど真ん中の床が直径五メートル近くにわたって瞬時にして灼熱し、まるで溶岩のようにぐつぐつと煮えたぎり始めたのである!

 やがて、その煮えたぎったマグマからそいつが顔を覗かせたとき、再び妖が嗤った。

「サラマンダーか。人間に使役される魔物如きに、俺がやられるとでも思っているのか」

 サラマンダー。体長は三メートルほどのそいつは、煮えたぎる溶岩の沼に身を浮かべ、炎に包まれた鎌首をもたげ、妖を高みより睥睨していた。

 瞬間、かん高い叫び声を発して、サラマンダーが妖めがけて躍りかかった。

 どろどろとした溶岩の飛沫を辺りにまき散らし、空中に飛び上がったのである。そしてその一瞬後、放たれた矢のような高速で、周りの空気を焼きながら妖に肉迫した。

 凄まじい熱気が、まず妖の全身を灼いた。

 サラマンダーの体熱は岩をも容易に溶かすほどのものであるため、さしもの妖とて身体を移動してこれを躱すほかなかった。

 サラマンダーはそのまま突き進み、ビルの壁を蒸発させて外に飛び出すかに思えたが、幸か不幸かそうはならなかった。

 急ブレーキをかけ、天井近くの空間に踏みとどまったのである。

 紅玉のような眼を動かし、妖を見つけ、凝っと見つめる。

 妖は、無表情な美貌を火トカゲに向けていた。少しだけ本気を出す気になったようだ。

 サラマンダーがそこにとどまる限り、大気の温度は上昇していく。すでに、ヤツの周りの壁や天井などは鉄骨ごと消失しており、外の景色が見えていた。どうやら、召喚直後に比べて体熱が上昇しているらしい。

 そして、サラマンダーから離れるにつれ、壁や天井の溶解が始まり、煮えたぎったマグマの如きものを床に垂らしている。そこから火の手が上がり、事態はますます悪い方へと進展していく。しかも、サラマンダーから数メートル離れた地点でさえ、温度上昇のための火災が起き、カーテンや壁に掛けてある絵画などが、ちろちろと炎の舌を上げている。

 一方、妖の周りもサラマンダーのまき散らした炎の飛沫が、さらに輪をかけて妖の周りの火事を拡大していた。

 再び、サラマンダーが飛んだ。

 先程よりも数十パーセントも速度が増していた。建物から発せられる炎のエネルギーを吸収したためだろうか、そう思いながら、妖は横に飛んでいた。

 今度は、サラマンダーは頭から床に突っ込んだ。刹那、炎は床全面に広がり、一瞬にしてフロア全体を炎の海へと変える。

「くくく」

 足許に開いた溶岩流の異次元門から視線を移し、大魔導師ベルゲリウス・ホーンは勝利に打ち震えていた。

「どうした、妖。はやく倒さないと、このフロアが燃え尽きてしまうぞ」

 このとき、サラマンダーの姿は空中にあり、嗤っているような顔を妖に向けていた。

 もう一度、ベルゲリウスは嗤った。

 勝利への確信があった。

 あの妖を斃すのだという高揚感があった。

 だから、嗤わずにはおれなかったのだ。

 しかし、その笑いにもう一つの含み笑いが重なったとき、背筋を冷たいものが疾り抜けた。

 妖が笑っていたのである。

「狂いやがったか…」

 無論、その呟きも妖に届いていた。

「まったく。本当にこの程度なのか?」

 妖は歩き出した。

 サラマンダーに向かって、ゆっくりと。

 その右手は硬く握られ、双眸は、らんと輝き始めていた。

「や、やれ!」

 大魔導師が杖を振るった。

 三度、サラマンダーが妖めがけて突っ込んでいく。今度の距離では妖とて躱しようもないスピードとタイミングであった。

 事実、それを悟っているのか妖は躱そうともしない。否、躱すまでもないのだ、とベルゲリウスが悟ったとき、すでに制止の声が間に合わぬ状況にあった。

 妖がサラマンダーの鼻面目がけて右掌を突き出すのが見えた。

 何が、起こるというのか。

 ベルゲリウスの思考は、妖の右掌から闇が噴出するのを見たとき、すでに停止していた。

 理解できずにいたのだ。

 妖の右掌から放射された闇は一瞬で火トカゲを覆い尽くすと、そのまま闇色の球体となり、虚空で固定してしまった。

 サラマンダー――火の精霊のあっけない最期であった。そして、音もなく、急速に漆黒の球体はその大きさを縮めていく。

 サッカーボール大からパチンコ玉程度の大きさになるまで、恐らく五秒とかかっていまい。そのパチンコ玉も、妖の手の上で溶けるように消失した。粒子以下にまで縮小してしまったのだ。

 妖は手の埃を払い落とすように手を叩き、ベルゲリウスと再び真っ向から対峙した。

 サラマンダーが消えたとはいえ、レストラン内の火の手はおさまっていない。逆にかなり強いものに成長し、真っ黒い煙が内部に充満しつつある。しかも、結界で遮られているため、有毒ガスを含有する黒煙が外へ出ていかないのである。

 ベルゲリウスは、立ち上る陽炎ごしにゆらゆらと揺れる妖の姿を見て、心の底からの恐怖を感じていた。

 もはや、勝機はない。

 恐らく、自分の持つ呪文のほとんどは、妖には通用しないのではないだろうか。いや、ヤツは、その呪文全てを使えるのではないか――

 しかし、ベルゲリウスに後退はなかった。

 ただ全身あるのみ。待つのは、死だけだ。

 ベルゲリウスは杖を振り上げ、突進した。

 男の脳裡に朱色の闇が広がったのは、それから数瞬後であった。

 ベルゲリウスの破れかぶれの攻撃をすり抜けた妖が、右手で相手の肘を掴み、

「牙あるものよ、引き裂け」

 と、冷酷に告げたのである。

 その刹那、肺の中の空気を一気に絞り出すような叫び声を、ベルゲリウスは上げた。

 そして魔導師の左腕は、まるで真空の刃で形成された竜巻にでも巻き込まれたかのように、ずたずたに切り刻まれていたのである。

 傷は深いらしく、凄まじい出血であった。

 このとき、ようやく玲花が地下駐車場に到着したのであるが、そのことを察知したベルゲリウスは、

「たどり着いただと!? たかが人間相手に、マネキンどもは何をやっている!?」

 驚愕し、狼狽もした。しかし、その反面、妖から逃れられることに安堵もした。

「くく。勝負はおあずけだ、妖。先に片づけておかねばならん仕事が出来たのでな。追いかけてこい、妖。今度こそ、貴様を地獄に放り込んでくれる」

 言い残し、ベルゲリウスは足首から床に没した。

 妖は長い溜め息をついた。

 魔力を使いすぎたのか、疲労が激しい。

 とくにサラマンダーを封じた『黒魔球』は、多くの魔力を必要とする術だ。ベルゲリウスが地下へと姿を消した途端、妖は緊張がほぐれ、その場に座り込みそうになった。

 瞳の色も、いつの間にか元に戻っている。

 妖は無意識のうちに魔力を働かせて、魔剣〝夜魅〟を転送させた。今頃〝美槌〟本部では大騒ぎになっているだろう。

 魔道門を封じる魔剣が、いきなり、何の前触れもなく転送されたのだから。

 そんなことはお構いなしに、妖は重い身体を引きずるようにエレベーターに向かう。

 とにかく今は、一瞬でも早く休息が欲しかったのだ。

 エレベーターに乗り込むと、最下層のボタンを押し、魔剣を抱えて座り込んだ。

 脚を投げ出し、眼を閉じると、休息にまどろみの中に落ち込んでいく自分が見えた。

 エレベータの扉が閉まったとき、すでに妖は寝息を立てていた。

 エレベーターが動き出す。

 下で待つ、さらなる戦場に向けて。


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