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その男の眼は、恐怖ため限界にまで見開かれていた。
顔面は蒼白し、チアノーゼ状態を来している。呼吸は荒く、すでに恐慌状態に陥ってしまっているのは明白であった。
彼は、何故、自分がこんな目に遭わねばならないのか、全く理解できなかった。
今、彼はそのデパートの一階を、正面入口に向けて走っていた。いや、走っている筈であった。
そして、そこに辿り着きさえすれば、彼は自分に襲いかかって来つつある悪夢から逃れられるのであった。少なくとも、彼はそう信じていた。
悪夢?
そう思いたかった。いや、本当にこれは夢なのではないのか?
この走っているという実感のなさはどうだ。
眼前の景色が暗く、ぼやけてきている。何処をどう走っているのか皆目見当もつかないし、足もふらついてきた。
恐怖と焦燥と酸素不足で、視野狭窄を起こしかけているのだ。
もはや、悪夢だろうと現実だろうと、彼には関係がなかった。
とにかく、正面入口をくぐれば助かる。
それだけだった。
しかし、彼を追ってくるもの――それは人間にとって悪夢そのものであった。
マネキン。
彼を追う悪夢の正体は、デパートにごく普通に存在し、きらびやかな衣装で飾られたマネキン人形であったのだ。
胸の大きく開いた赤いドレスを身にまとった金髪の美女が、無表情に追ってくる。
手には、刃渡り三〇センチほどもある包丁を握っていて、包丁の刃と美女の右半身はすでに血で真っ赤に染め上げられていた。
よく見ればそこらじゅうに、デパートに買い物に来ていた客たちが死体となって転がっており、それらの手足を切断し、内臓を引きずり出してせせら笑う|(ように見える)マネキンたちの姿があった。
男を追うマネキンは、右足首にヒビが入っているので、うまく歩けないでいる。これは、男が抵抗した際に椅子か何かで傷つけたものだ。しかし、それでも歩行速度は人並みはある。
何が原因でマネキンたちが動き始めたのかわからないが、奴等にとって身体の損傷など豪ほども痛手にはならないらしい。
何しろ、奴等は人間ではないのだから。
たとえて足がちぎれようと、首がもげようとも、ただひたすらに人間を殺す――純粋な殺人者なのだった。
そのとき、これまで恐怖と絶望しかなかった男の眼に光が戻った。
正面に悪夢からの脱出口を見出したのだ。
あのガラス扉を押して、一歩足を踏み出せば、人の住む世界に戻れるのだ。
俺は、もう振り返らないぞ。
見ろ、あんなに人が目の前を通って行くじゃないか。
楽しそうに語らい、笑いながら。
男は、全身に希望を充満させて、正面入口のガラス扉を両手で力一杯押し開いた。
いや、押し開いた筈だった。
しかし、扉はびくともしない。
そんな馬鹿な話があるわけがなかった。
全く動きもしないのだ。たとえ閉鎖された扉であっても、押せば少しは動くし、叩けば音が鳴る。
それが、ない。
扉は、異次元存在にいつの間にかすり替えられていたのだ。いや、この建物全てが異次元空間へ隔離されていたのである。
今頃になってわかった。
マネキンが突如動き出し、彼女らによる奇怪にして静寂な殺人が繰り返されている間、このデパートに雇われているガードマンが、外部――警察に連絡を全く入れないでいた筈がないのだ。
恐らく、何度も何度も、半ば狂ったようになって連絡を入れていただろう。
しかし、警察は来なかった。
当然だ。ボタン一つで、何処に急行すればいいかわかる装置があっても、その場所に何も建っていないのであれば、いくら何でも駆けつけることは出来はしない。それに、通報自体、警備会社にも警察にも届いていなかったのであろう。
男は、一瞬でこれらのことを理解した。
地獄の釜の淵を覗き込む恐怖が、男の意識野を拡げ、認識力を飛躍的に、一瞬のうちに高めたのだ。
覚醒――人の革新をなした人間は、全てのことが自然に理解できるという。男には、それに近い現象が生じていた。
しかし、それでも男は扉を叩き、わめき続けた。
涙さえ流して「助けてくれ」と叫んでいた。
悪夢に打ち克つ術を知らぬが故である。
たとえ覚醒を遂げても、心奥に光を見出さぬ限り、それは真の覚醒とはいえないのだ。
心が罪に暗く濁っていて、光がないからだ。
人が救われ難い生物であるのは、自ら転生を重ねて背負って来た業――カルマのためだ。
これを打破してこそ、人は革新できるのだ。
だが、心の余裕をなくした男には、もはや変革を完全に遂げることは不可能だった。
気が狂いそうになっていた。いや、もしかしたらすでに狂っていたのかも知れない。
口から泡を飛ばし、血走った眼を「外」に向け、男はわめき続けていた。
そのとき、男は、自分の後頭部に冷たくて硬いものが差し込まれるのを感じた。
それが、彼の最後の意識であった。
マネキンは、その細い腕で、後頭部に突き刺した包丁を、男の背骨に沿うように一気に尻まで引き下ろした。
聞くもおぞましい、嫌な音が連続して、マネキンは鮮血と肉片に赤黒く染まった。
奔騰したおびただしい血は床に血だまりをつくり、扉や壁にも鮮やかな赤をぶちまけた。
マネキンは、男の死体が扉に寄りかかりながら、ずるずると床に沈み込んでいくのを冷ややかに、表情のない眼で見つめていた。
その眼が、つ、と正面に移動したのは、視界の情報にある影を捉えたからだ。
ガラスの扉越しに、女が一人立っていた。
二二、三くらいの美しい女だ。
今、自分の目の前で何が起こっているのか理解出来ていないのか、眼を大きく見開き、口に手を当て、呆然とガラスの向こう側を見ている。
そう、確かに彼女には見えているのだ!
これまで、誰一人として眼を向けることのなかった事態――それが、あの魔導師による結界の魔力だったのだが――に、初めて気づいた人間がここにいた。
彼女には、どうやらかなりの霊能力が備わっているらしい。そうでなければ、稀代の大魔導師によって布陣された結界を通して、物を見ることなど出来はしないからだ。
その証拠に、一緒にいる恋人らしい男には、全く、この現実が理解出来ず、突然パニックに陥った彼女の対処に戸惑っている。
彼には何も見えないし、何も聞こえないのだ。結界の向こう側の出来事は。
マネキンが、一瞬、うすら寒くなるような笑みを浮かべたように、女には見えた。
そして、背を向けて歩み去ったのである。
新たなる生存者――その波動はもう感知している――獲物を目指して。
この一件の現在までの犠牲者は、彼女ただ一人である。
彼女は、自分が見たままの光景を、叫び続けた。
しかし、誰も、彼女の言うことを信じなかった。
マネキンが動いて人間を殺すなど。
馬鹿げている。
彼女は狂ったのだ、と。
彼女は、恐慌状態に陥った後、精神病院に収容されたのだが、二日後、屋上より飛び降りて自殺した。
閉鎖病棟のカギのかかった部屋から、いつ、どうやって抜け出たのか。
監視カメラをすり抜け、常駐している職員に姿を見られることなく。
その病院は、虐待の疑いをかけられ、警察によってカルテや看護記録などが押収され、厳しい捜査の手が入ることとなった。
彼女以外の患者に対する虐待などが数件露見したが、結局、事の真相はわからずじまいだった。
だが、知るがいい。
真実は常に人間に理解出来るものばかりだとは限らない、ということを。
そのことに、人類はこの後一年の間に思い知らされることになるのだ。
そう、これはまだ、その現実の、ほんの始まりにしか過ぎなかったのである。