7
「どうしたんだよ、紀羅」
シャワー室から出てくるなり、義親はそう訪ねていた。
ずっと気にはなっていたのである。学校から戻ってきた紀羅の様子がいつもと違うのは、一目見ただけでわかった。
いつもの紀羅らしさが全く欠けてなくなっていたのである。
瞳も輝いておらず、何を訊いても生返事しか返ってこない。そして紀羅という少年に一番なくてはならないもの――有り余るほどの元気が全く感じられなかった。
夕飯を食べに行ったときも、もそもそとしか食べなかったので、店の空気がよどんでしまったほどだ。
しかし義親は、放っておけばそのうち治るだろうと思ってシャワーを浴びていたのである。だが、浴び終わって出てきても、紀羅の機嫌が治った様子はない。
相変わらず、ベッドの上に胡座をかいて、ふさぎ込んでいる。
「いったい、何があったんだよ」
「…………」
「まったく、紀羅らしくもない。いい加減にしろよ。こっちまで気が滅入るだろう?」
「――なぁ、義親?」
力のない声で、紀羅はようやく口をきいた。
「なんだ?」
「俺のやったことは、間違うとったんやろか」
紀羅がそんな弱気なことを言ったのを、義親は初めて耳にした。
この美しい少年は、妖の性格と非常に似通ったものを持っていて、自分のやっていることに絶大な自信を持っている。
しかも、失敗を恐れないのだ。もし失敗した場合は、そうなるようにしかならなかったのだと割り切ってしまう傾向があるのだ。それ故に、弱音など吐いたことはこれまでに一度もなかった。
それなのに……。
「いったい、何があったんだ…」
義親の問いに答えるように、紀羅は今日あったことの全てを語り始めた。
――
紀羅が西校舎のすぐ近くまで来たとき、すでに裕介は少年たちから暴行を受けていた。
今まで以上の憎しみがその拳にこもっていることを感じ取った裕介は、泣きながら訊いた。
「俺たちがどうしてお前を殴るのか、知りたいだと?」
嗤いながら、少年たちは口々に言った。
「お前の存在が、うっとうしいからさ」
「お前がいるだけで、殴りたくなるんだよ」
「ただ、それだけなのよ」
少年たちはかわるがわるに答え、一発ずつ殴っていった。
裕介の意識は、すでに混濁し始めていた。
顔は再び腫れ上がり、全身にいくつものアザが、新たに作られていく。
「――だがな、今回はそれだけじゃねえ! あの小僧だ!」
武雄が怒りを露わにして殴った。
あの小僧?
「そうだ! てめえを逃がしたあの小僧が、俺に恥をかかせてくれたのよ。どうせ、てめえが頼んだんだろうが!」
「ぐはっ!?」
強烈な蹴りが、裕介の腹に吸い込まれた。
身体を海老のように曲げ、のたうち回りながら、裕介は違うと心の中で叫んでいた。
頼んでなんかいない!
あいつが勝手にやったことなんだ!
「おい、武雄」
誠一が、リーダー格の少年の名を呼んだ。
何だ、と振り返った少年は見た。
すぐ目の前に、あの、憎くて仕方のない敵が立っているのだ。
武雄は、全身が自然にわななくのを感じた。
「ふ…ふふふ…来やがった…来やがったじゃねえかよ…」
狂気的な笑みを浮かべて、武雄が紀羅に歩み寄っていく。
他の三人も、裕介への暴行を中断して、ナイフやチェーンを手にしていた。
「やめとけよ。かなわへんて」
紀羅の口調を嘲笑と知ったとき、武雄は弾かれたように紀羅に躍りかかっていた。
ようやく立ち上がった裕介は、しかし、眼前で巻き起こる暴風を、ただ呆然と見ているしかなかった。
足が、ガクガクと震えている。
身体から力が抜けてしまっていて、思うように手足を動かせずにいる。
おまけに声も出なかった。
情けない。
僕は、どうしてこんなにも弱いんだ…。
少年の眼は涙で曇り、紀羅の鬼神の如き攻撃を見ることが出来ないでいたのは、彼にとって幸福なことであったかも知れぬ。
紀羅は狂気の暴徒と化した少年たちの攻撃を見事にかいくぐり、急所をうまく外して、少年たちの動きを止めていく。
裕介に対してあれほどの暴行を加え続けていた少年たちが、何一つ反撃を行うことも出来ず、赤子のように打ちのめされていくのだ。
血が飛び、苦鳴を吐き、地面を転がり、壁に激突し、わずか二分ほどで少年たち四人は動くことも出来なくなっていた。
かすかな呻き声さえも聞こえて来ない。
気絶しているのだろうか。
「――もう、大丈夫やで」
その声が聞こえてきてはじめて、裕介は眼にたまった涙を拭い、少年とそこに広がる光景を眼にしたのだった。
裕介は、少年たちが動くこともなく血に伏しているので、彼に殺されたのだと勘違いした。それほど、紀羅は凄まじい暴風であったのだ。だから、少年が手を差し伸べてきたとき、恐怖のあまり、その手を払いのけたのである。
「や、やめろ! 近寄るな!」
その一言に、紀羅はひどく傷ついた様子だった。
「な、何やて?」
「君が、君が余計なことをしたから、僕はあいつらに…」
「な――」
「君が何を思って近づいてきたのかわからないけど、もうこれ以上、僕につきまとわないでくれ! 迷惑なんだよ!」
呆然と立ち尽くす紀羅をその場に残して、裕介は泣きながら走り去っていった。
「な…なんや、あいつは! 何を訳のわからんことを言うとんねん、あのドアホが!」
紀羅は、綺麗な顔に怒気をのぼらせ、拳を怒りにまかせて壁に叩きつけた。
黒部らが見た、直径一メートルほどの壁の陥没はこのときのもので、紀羅の拳から放出される気が壁面をぐしゃぐしゃにしたのである。
「――というわけや」
紀羅は話し終えると、深い溜め息をついた。
「どう思う、義親?」
そう友人に問われたとき、義親はあきれたように肩をすくめた。
「――?」
紀羅が、かわいい仕種で首を傾げる。
「わからないのか? やりすぎたんだよ、紀羅は。何も、それほどまでする必要はなかったんじゃないのか? たかが中学生のケンカじゃないか」
「…………」
少年は、押し黙ったまま友人の言葉を聞いていた。
「それにしても、わからんのはお前だよ、紀羅。妖の弟子にして八天部最強のお前が、何故、そんな状況判断さえ出来ぬ無能兵のような真似をしたんだ? それでは、まるでヤクザか何かだぜ」
「自分でも、あのとき何が起こったのかわからんのや。気がついたら、飛び出しとった。そりゃあ、いつものわいと違うとったのは確かや。けどな、義親。こいつは、ただの中坊のケンカやない。あの学校には、悪想念の蛇がうじゃうじゃおった」
「何、あの学校にもか!?」
義親は、今日一日歩いただけで、凄まじい数の蛇がこの街に巣くっているのを思い出し、寒気を覚えた。
「ああ。しかも、あの四人はもの凄い悪想念の塊やった」
「それが、あの小林裕介という少年に悪害をもたらしていると?」
「ああ、たぶんな」
「――では、街中の悪想念は、小林くん目がけて集中しているというのか? 誰が? 何のために?」
「目的はわからんけど、誰がやっとるのかはわかっとる筈や」
「あ、ああ、そうだった。死人男爵ファレスか――。何をするつもりなんだろう」
「それがわかれば――」
「何か良い策でも考えられるってか?」
「さあな」
そう答えると、紀羅はベッドにごろりと横たわった。
義親は、今日までのことを少し整理することにした。さまざまな出来事が、パズルのピースのように組み合わされ、何か一つの真実に結実する。そんな気がしてならないのだ。
街中に存在する無数の悪想念の蛇。
紀羅の言っていた、天にかけ昇る悪念の柱。
小林少年に集中する悪意、悪害。
不幸のみを味わい、自閉症に陥りつつある少年。
そして、死人男爵。
「いったい、何が……」
そのとき、義親はすぐそばから聞こえてくる寝言で我に返った。
紀羅は、すっかり眠りに落ちていた。
少女のような寝顔をみせる紀羅を見て、義親は微笑を浮かべた。
これでこそ、紀羅なのだと思った。