序章
聖魔妖人伝説 第2部「怨念の異形神」をお届けいたします。
また懲りずにお付き合いいただけますよう、よろしくお願いします。
もし第1部「漆黒の魔道人」を未読で、この機会に読んでやろうと思って頂けましたら幸いです。
午前零時過ぎ――
今、水上達也はいい気分だった。
彼は、この四月に、ある会社の営業部に就職したのだが、そこでの成績が良かったために、部長に誉められたのである。
だから、大学時代からの友人で、同じく営業部にいる東山昭吾を誘って飲みに繁華街に足を向けたのである。
ほろ酔い程度にしておく筈だったのだが、ついつい調子に乗って呑んでしまい、三軒めの店を出る頃には顔は真っ赤で足はふらついていた。
それは、東山も同じであった。
仲良く肩を組んで、大声で歌まで歌い始める始末である。迷惑この上ないが、もはや二人にその判断はつかない。
明日――いや、すでに日付が変わっているから今日なのだが――は土曜日だから、完全週休二日制を採用している水上の会社は休みとなる。
ということは、酔い潰れるまで呑んでも、別に誰にも迷惑はかからないということになる。いや、すでに迷惑はいくらでもかけているのだが、酔っている当人たちにその感覚がないというだけのことなのだが。
ともかく、水上と東山は最高の気分で、大笑いしながら人生の幸福を謳歌しているのだった。
だから、この数分後に無惨な死を迎えようなどと、神ならぬ身に想像できる筈もなかった。
「もう一軒、行こうぜ!」
東山が真っ赤な顔で水上に喚くと、彼は即座に、おおと応答していた。
その頃には、人通りも車の交通量も減り始め、街は静かになり始めていた。花の金曜日――正確には土曜日になっているが――とは言え、もう真夜中を過ぎているために、街も眠りにつこうとしているのだ。
水上は、ふらつく足を必死に踏ん張らせ、ぐらぐらする視界で本日四軒目の店を探していた。
もう、ここまで来たら、日本酒だろうとビールだろうとウォッカだろうとジンだろうと何でも来いであった。
大学時代、水上と東山は二人で三ダースものビール瓶を全て空にしたという記録を持っている。二五本目を越えたあたりから記憶がなく、酔いが醒めたとき自分の周囲に異臭が漂っていることにようやく気づいた程だ。どうやら、ビールを呑んでは吐き、小便を漏らし、またビール瓶に口をつけるという無茶苦茶な作業をただひたすらに繰り返していたらしい。
それはともかく、居酒屋でもスナックでもないかな、と探す水上の視界の隅で、そのとき、ゆらりと何かの影が動いた。
「――!?」
東山が口を押さえながら、水上から離れていこうとしている。
何だ、ゲロか。
さっきウィスキーをボトル一本一気呑みしたのだから、当たり前の反動だ。
「――大丈夫か、一人で吐けるか?」
ほとんどろれつのまわらなくなった口調で、水上はとりあえず声をかけてみた。
東山が、大丈夫だというふうにひらひらと手を振る。そして、薄暗く汚い路地に消えていった。
何歩か進んで、東山は路地に入ったことを後悔した。凄まじい腐臭なのだ。
店の裏側の路地のため、いくつも並ぶポリバケツの内側から、酸っぱい臭いが漂ってきて鼻をツンとつくのだ。
魚の腐った臭い。
肉の腐った臭い。
野菜の腐った臭い。
それに加えて、誰かが吐いていったらしいアレの臭い。
たまらなかった。
それらが混ざり合って、渾然一体となった臭気を両肺一杯に吸い込んだとき、東山の喉が、ゲッと音を立てた。
口から、胃の内容物があふれ出す。
これほどの量が胃の中に詰め込まれていたのかと自分でもあきれるほど、後から後からあふれ出てくる。
自分の吐いたものの臭いを嗅いで、気持ち悪くなってまた吐く。
ついには胃液だけを吐いてしまい、そこでようやく気分が落ち着いた。
「ふぅ。二リットルは吐いたな」
などとわけのわからぬことを溜息まじりに呟く東山の眼の隅で、何かがそのとき輝いていた。
赤く、赤く…。
「何だ? 眼か? ……猫でもいるのかな」
ブロック塀の上に、何かがいるらしい。
猫だな。
猫好きの東山が思わずその発光物体に近づこうとしたとき、表通りの方から痺れを切らしたらしい水上の声が聞こえてきた。
「おーい、東山、大丈夫かぁ? 早く呑みに行こうぜぇ」
どうやらまだ行く気らしい。
「あ、ああ。すぐ行く」
とおざなりに返事をして、東山は一歩、また一歩、舌をチッチッと鳴らしながらそれへ近づいていく。
そして六歩めを踏み出した瞬間、その眼のような光が細くなった。と認識したとき、その光は東山目がけて疾っていたのである。
まったく水平に。
一ミリさえも上下せずに。
「――!?」
獣の双眼にも似た赤光が、そのとき、すとんと下に落ちた。
果たして、東山の足許にじゃれついてきたのは、やはり一匹の猫であった。
かわいらしい声で、猫が鳴く。
喉をゴロゴロと鳴らし、尾を立てて、身体を東山の足にこすりつけてくる。
東山は身を屈めると、猫の喉を慣れた手つきで撫でてやった。
猫がゴロゴロと喉を鳴らすのを聞くと、東山はつい、中学まで飼っていた猫のことを思い出すのだ。
このときすでに東山の脳裡から、水上が待っているという記憶は失われていたのである。
「お前、かわいいなあ」
と酒臭い息を吐いて、三毛猫に笑いかけたとき、その眼が赤く光った。
笑ったのである。
邪悪に、そして魔的に。
東山が大きなあくびをした。その瞬間、猫が音も立てずに地を蹴った。
そこめがけて飛んだのである。
東山の喉へ。
「……!?」
何が起こったのか理解できずに、東山は手を振ってもがいた。
とにかく、口の中に入る筈のないものが無理矢理入り込もうとしているのだ。
毛むくじゃらの肉の塊が。
東山の眼が裏返り、白目をむいた。
喉を胃へと下るその塊の異様な感触に悶絶したのである。
東山のスーツの股間に黒い染みが広がっていく。小便と精液をたまらずに漏らしてしまったのだ。
喉を胃へと向かうものは、もはや猫ではなくなっていた。
口より外にあるものは、確かに猫の下肢だ。しかし、内側にあるものは猫ではなく奇怪な肉の塊だった。
程なくして、猫の全身が東山のアルコール漬けになった臓腑へと収まった。
東山は気を失い、汚れた路地に天を向いて横たわっている。
水上はブロック塀にもたれかけて、イライラと時計を見ながら、タバコをくわえていた。
「おっせえなぁ…何やってんだぁ?」
その東山の身体に変化が起きたのは、それからすぐ後のことだった。
胃の辺りが盛り上がり、ゴソゴソと蠢いたかと思うと、東山の上半身がむくっと起き上がったのである。
まるで糸に操られた人形のように不自然に。
眼はまだ白目をむいたままだ。
「ゲッ……ゴボッ…ゴッ…」
東山の喉が不気味な音を立てた。
何かが喉をせりあがって来ようとしている。
東山の口が、カッと限界にまで開いた。
まだ開く。
まだまだ……。
頬の肉がミチッと音を立てた。
見ると、唇の端に亀裂が入っている。そうなれば、その後は簡単に推測できる。
骨の外れる音がした。そして、頬肉が勢いよく裂けた。その結果、頭の上半分が後ろへ倒れた。
途端、喉の奥から赤黒いものが瀑布のように星空へ噴き上がった。
濡れた音を立てて地面に山となったもの――それは、東山の腹の中に詰まっていた内蔵の全てであった。
「くく。再び、人の身体を手に入れたぞ」
東山は、いつの間にか元通りに治った口でしゃべっていた。
彼自身の声で。
臓器を失った人間が如何なる魔力を得たのか、呼吸をし、物を見、そして生きていた。
全て、腹の内側に棲みついた猫――化け物の為せる技なのか。
だとしたら…。
「――!?」
東山の眼が動いた。
いよいよ心配になってきたのか、ようやく水上が友人の様子を見に来たのである。
「なんだ、どうしたんだよ」
てっきり酔い潰れているとでも思っていたのだろう。それが、東山が平然と立って、自分の方を見ていたので拍子抜けしてしまったのだ。
東山は水上の声に答えもせず、無言で右手を伸ばした。
「な、何だ。おい、どうしたんだよ」
狼狽する水上を気にもかけず、東山は彼の頭をガッと掴んで、爪を立てた。
「なに…を――」
全てを言い終えることは出来なかった。
水上の首は、いともたやすく、たった一人の人間の力でねじ切られていたのである!
彼の首には、信じられぬといった表情が凍りついている。
東山は、いや、東山であったモノは、その表情を見て冷たく嗤っていた。
「ククク……ハ、ハ、ハ、ハ」
東山は、水上の胴体から思い出したように奔騰する血を浴び、そいつは無上の歓喜を感じていた。
そいつ――魔界侯爵フェノメネウスとともに地上に降りた悪魔の一人。地獄の四方位を治める七人の王の一人ベリアルに仕える貴族〝死人男爵〟ファレスがそこにいた。
地上は再び、悪魔の凄絶な魔力に席巻されようとしていた。