■第8話 呼び捨てにする下の名前
マヒロは駅前でシオリと別れた後、商店街に向かっていた。
苛立つような切迫感は、マヒロの本革スウェード素材の履き心地が良いはずの
お気に入りスニーカーをも、引き摺るようにその足取りを重く鈍くする。
”ショウタ ”とマヒロが口にした時の、シオリのあの顔。
(まだ・・・ ホヅミさんもアイツのこと・・・。)
思わず立ち止まって、うな垂れる。
ショウタがいまだにシオリを忘れていないことなど、マヒロが気が付かない
はずはなかった。 じりじりと胸に込み上げる苦いものに、ひとりかぶりを
振りぎゅっと目をつぶる。
物理的に距離が出来れば、当然にショウタとシオリの想いなど呆気なく時間と
共にフェイドアウトし薄れゆくと思っていたのに、いまだに互いに想い合う
様子にマヒロは夕暮れの迷子のこどもの様に哀しげに目を落とす。
(ゼッタイ、渡さない・・・。)
すると、邪念を振り払うかのように突然駆け出したマヒロ。 唇を噛み締めて
目を眇めてそのデニムの細い足は、諦めの悪い情けない男へ向けてアスファルト
を蹴っていた。
『おばちゃ~ん、こんにちはっ!!』 慌てて駆け込んで来たマヒロが八百安の
店奥で段ボールを整理していたショウタ母ミヨコにどこか物寂しげな笑顔を向け
声を掛けた。
ダッシュで走ったため乱れた呼吸を整えながら手をひらひらと振って。
『あら!マヒロちゃん、いらっしゃい。』
肉付きのいい頬を上機嫌に上げて、まるでこどもの様に元気に走ってやって来た
マヒロにミヨコは笑う。
『部屋にいるから、あがりな。』
そう言って、自室2階のショウタの部屋を顎で指した。
マヒロはここ最近よくヤスムラ家に出入りしていた。
中学からの同級生でその当時からよく遊びに来ていたマヒロは、”ショウタ ”
”マヒロ ”と下の名前で呼び捨てにするくらい仲良かったのだが、高校に入学し
てすぐの事、マヒロがどこか不機嫌そうに『恥ずかしいから苗字呼びにしよう』
と言い出しショウタもそれに特に反論もなく、今となってはすっかり苗字呼びで
慣れていたのだが。
入り慣れた感じでヤスムラ家の裏玄関を通り、狭い三和土で靴を脱いで2階の
ショウタの部屋へ向けて階段を静かに上がる。
『ショウター・・・?』一声かけてドアを開けると、途端にマヒロの目に入った
着替え真っ最中のショウタの裸の上半身。 日々の八百屋の仕事にその日焼けし
た背中はキレイに筋肉がつき男らしくて、思わず照れくさそうに咄嗟に目を逸らした。
『おぉ、セリザワ・・・。』
上半身裸の姿をマヒロに見られたところで別段なんとも思わないショウタ。
真っ白なTシャツを乱雑に着込んでその上にパーカーを羽織ると、ジーンズの
腰に藍色の前掛けを当てがう。 そして、腰に前掛けの紐を巻き付け縛りながら
マヒロに目を向けた。
『つか、なんで今更ナマエ呼び??』
”ショウタ ”と呼ばれたことに首を傾げる。
ここ何年も ”ヤスムラ ”と苗字で呼ばれていたので、なんだか違和感があった。
すると、マヒロはどこか言い訳めいた感じで早口で言う。
『だって、ほら!
中学ん時はフツーに下の名前で呼んでたじゃん?
やっぱそっちの方がしっくりくる、ってゆーかさ・・・。』
矢継ぎ早にどこか赤い顔をして必死なマヒロに、ショウタはボリボリとジーンズ
の尻を掻きながら気怠そうに、『お前が苗字で呼べって言ったんじゃん?』
更に突っ込む割りには然程気にもしていないショウタ。 正直言って、名前でも
苗字でもどっちでも良かった。
『やっぱさ・・・ 昔みたいに下の名前でいこうよ!』
なんだか慌ててまくし立てるマヒロにショウタは更に尻をぽりぽり掻きながら
どうでも良さそうに、『んぁ~?』 と空返事した。
今日は仕事が休みだったマヒロ。
シフト勤務のため平日が休みになることが多く、学生時代の土日祝日休みの
友達とは中々予定を合わせる事が難しかった。
ショウタは店があり勿論マヒロに構っている暇はなかったが、それを知っての
上でマヒロは八百安を訪ねてきていた。
『暇だから、あたしも店番しよっかな・・・。』 ショウタの横顔を盗み見
ながらぽつり呟くと、ショウタは少し呆れた感じで目線を流し笑う。
『お前、せっかくの休みなのにドコも行くとこねーのかよ!』
休みだからこそ ”ココ ”に来たという事に気付かない鈍感なショウタに、
不満気に口を尖らせながらも、マヒロはそんな相変わらずの大きな背中が愛しかった。
あの頃と変わらずにショウタを想っているマヒロが、決して振り返らない鈍感な
背中を切なげにそっと見つめていた。