■第6話 母の杞憂
『ねぇ、シオリ・・・。』
夜遅くに病院から自宅に戻ったシオリの玄関ドアを開閉する音に、母マチコが
それを待ち侘びていたかのように、パタパタと駆け寄って出迎えた。
淡い色のパジャマ姿でシンプルなカーディガンを肩に羽織り、まるでこどもの
様などこか不安気な表情を向けるマチコにシオリは、
『どうしたの? なんかあった?』
玄関の上り框で靴を脱ぎながらそっと母を覗き込む。
きっと兄ユズルのことだろうとは思ったシオリだったが、ここ最近のユズルは
安定していて院内でも以前と同様の周りの人間からの慕われる様子に、不安に
思うことなど無い気がしていたのだが。
リビングテーブルにつき、シオリは付けっ放しになっているテレビに目を向ける。
やたらと大袈裟な笑い声が流れる深夜の時間帯のバラエティ番組に、小さく
しかめ面を向けてシオリはリモコンで電源をオフにした。
途端に静寂に包まれる室内。
キッチンから味噌汁がガスの火に温まってゆく音が、わずかに聴こえる。
マチコはシオリの夕飯を温めつつ、リビングで熱いお茶を淹れながら目を落とした。
『なんか・・・ ユズル、変だと思わない・・・?』
『変、って・・・?』 シオリにはマチコの言う意味が全く分からなかった。
ユズルは毎日積極的にリハビリを受けながら、色んな患者の元へ出向き声を掛け
笑わせ励まし、常にその頬には笑みをたたえて、まるで以前のユズルとなにも
変わらない雰囲気を醸し出していたのだ。
一時 ”イケメン外科医がいる ”というコウの黄色い噂で持ち切りだった病院が、
今は ”奇跡の復活を遂げた整形外科医がいる ”と、まだ医師に復帰もしていな
いというのに病院内外ではユズルの評判で溢れていた。
『ユズル・・・ 無理してるんじゃないかしら・・・。』 マチコの思い詰めた
ようなか細いその一言が、静まり返ったリビングに小さく落ちる。
勿論、一生車イスでの生活という惨い現実をそんな簡単には受け入れられるとは
思えないが、それでも ”ユズル ”という人となりを一番近くで見てきた妹の
シオリはその姿を ”兄らしい ”という思いで見守っていた。
ユズルなりに、前向きに懸命に現実を受け止めようとしているのだと。
『お兄ちゃんって、ああゆう人じゃない・・・?
いっつもにこにこして、穏やかで、誰にでも親切で・・・
きっと、ああやって前を向いて微笑んでいたいんだよ。
だから、見守ってればいいんじゃない?私たち家族は・・・。』
シオリのやさしい声色。
押しつけがましさはまるで無いあたたかくてやわらかい娘の声に、まっすぐ
育ってくれたことを有難く感じ胸がじんと熱くなる。
しかし、マチコはやはりどうしてもユズルが心配で仕方なかった。
納得したようなしないような顔で小さく頷いた。
それと同時に、やはりどこか納得しきれない溜息が零れていた。
ユズルは各病室をまわり、微笑みながら患者に話し掛ける。
時に長い時間かけて愚痴を聞き、時に見舞う身内がない寂しい患者に寄り添って。
他人の話を親身になって聞いても、決して自分の感情はその表情には表さなかった。
泣き言ひとつ言わない。
負の感情は決して出さない。
ある日、ユズルの様子を毎日見舞う母マチコが、その異様にも感じる穏やか
過ぎる背中に思い切って訊いてみた。
『ユズル・・・?
あなた、ムリしてるんじゃない・・・? ダイジョウブ・・・?』
泣き出しそうに哀しい目をしてまっすぐ見つめる母に、ユズルはやさしく笑う。
電動車イスのレバーを動かし、おもちゃで遊ぶこどもの様にちょこまかと前に
後ろにイスでわざとせわしなく動き回りながら、眩しそうに目を細めて。
『ダイジョウブだよ、母さん。
僕は ”奇跡の人 ”だからね・・・
・・・神様に感謝してるんだから・・・。』
その日の帰り際、シオリがユズルの病室を訪ねた。
小さく2回ノックして引き戸を開けると、窓辺でじっと外の景色を見つめている
ユズルの背中が目に入る。
『お兄ちゃ~ん?』 声を掛けるも、ドアが開閉された音にもシオリの呼ぶ声
にもユズルは振り返らない。 聴こえていないはずはないのだけれど。
『ねぇ、お兄ちゃん・・・?
明日にでもさ、駅前のシュークリーム買って来てあげるねっ!
・・・お兄ちゃん、あそこの好きだったでしょ?』
すると、ユズルはゆっくりゆっくり振り返った。
そして嬉しそうにその頬を緩めて口角を上げる。
『ありがとう・・・ 嬉しいよ。』
少し雑談をして笑い合い手を振って病室を出て行った妹の背中をユズルはじっと
見ていた。 日々の激務で疲れきった細い体で、毎日毎日ユズルを気遣う妹シオリ。
ユズルは奥歯を強く噛み締め、その頬は緊張して強張っている。
どうしようもなくイライラする気持ちが、その口許に顕著に表れていた。