■第4話 神様へ感謝
意識が戻ったユズルは、連日ありとあらゆる検査を受けた。
本人はイマイチその意味が分かっていない面持ちで、まるで自分の意思などない
人形のように、ぼんやりとされるがままに身を任せている。
結果、分かった事がふたつ。
事故当日の記憶だけ、すっぽり抜け落ちている。
そして、事故の際に下肢の神経が損傷した。
それは。
一生、車イスでの生活になるという非情な現実。
まずは家族にのみ伝えられた担当医師からのその宣告に、母マチコは口許を
両手で押さえて立ち上がると弾かれたように診察室を飛び出した。
漏れそうになる嗚咽を必死に封じ込めようとするその指先はブルブルと震え
涙の雫が頬を止めどなく伝う。
シオリも慌てて母の壊れそうな背中を追って診察室を出て行った。
そこに残された父ソウイチロウとコウ父母。
至極冷静に、父ソウイチロウがまっすぐ担当医師を見つめ訊ねる。
冷静に冷静に、感情を抑えて。 ひとつ深く呼吸をして、ゆっくりと。
しかし、喉の奥から出たその声は小さく小さく震えて響いた。
『もう・・・ どうにも、ならないのか・・・?』
ユズルの脚がどうにもならないのは、長年医師を務めるソウイチロウが分から
ないはずはなかった。 そんな症例は腐る程見てきた、痛いほど分かっていた。
しかし、そんなソウイチロウでも愛する息子の事となると、目には見えないもの
科学で証明出来ないものにすがりたくなる。”神”や ”奇跡”を信じたくなる。
夢であってくれればと顔をしかめて目を閉じ、その威厳ある堂々と反っている
はずの大きな背中を、まるで哀しみが明けることない有明月のように弱々しく
丸め縮めて無意識のうちに祈るように両手を組んでこうべを垂れた。
重くじわじわと滲むような痛みを伴った深い深い溜息が、ソウイチロウの胸を
震わせていた。
『お母さん・・・。』 病院廊下の長椅子に倒れるように座りこんだマチコの
隣にシオリが腰掛け、涙ぐむ目を向けて母の肩を抱く。
今日も外来患者や見舞客で騒々しいその廊下。
ひっきりなしに足早に通り過ぎる看護師が、院長夫人のマチコの泣き暮れる姿に
哀しげに小さく目線だけで会釈する。
小さなこどもが注射の恐怖に泣き叫んでいるのがサイレンのように遠く聞こえる。
マチコは両手で顔を覆って、すっかりやつれた細い肩を震わせている。
カールが掛かった髪の毛先が、哀しいすすり泣きに合わせて小刻みに揺れる。
『分かってるの・・・
命が助かっただけ、意識が戻っただけ充分有難いって・・・
充分だって分かってるの・・・
神様に感謝しなきゃいけないって、分かってるのよ・・・
でも・・・ まだ、ユズル・・・
あんなに・・・ まだ、あんなに若いのに・・・。』
シオリはその震える喉からはなにも言葉が出てこなかった。 まるで握り締め
られ破裂寸前の風船のように、ギリギリで留まる心臓が痛いくらいに悲鳴を上げる。
遣り切れない思いに、母マチコの肩を抱く手にぎゅっと力がこもる。
どんな言葉を掛ければ、母マチコの心が癒されるのか。
どんな顔をして、もう一生自らの脚で立ちあがる事が出来ない兄ユズルの顔を
見ればいいのか。
『神様に・・・ 感、 謝・・・・・・・・・・?』
シオリは小さく呟き、足元をじっと見つめていた。
几帳面なはずの母マチコのパンプスが、汚れが滲み疲れ果てたようにくたびれている。
神様なんて本当にいるのだろうか。
もし仮にいるのだとしたら、ユズルのような善人をこんな惨い事故に合わせたり
しないはずではないのか。 それは、守る側の存在なのではないのか。
何故、ユズルなのだ。 何故、ユズルでなければいけなかったのか。
もっと痛い目に合うべき人間はいるのではないのか。
あの日の事故で、ユズルは一生車イス生活になった。
ユズルを思い、母マチコは壊れてしまいそうに泣き続けている。
病院を守ってゆく為に、シオリは最愛の人と別れを余儀なくされた。
いっぺんに色んな人の顔から笑顔を奪っておいて、なにが神様だ。
そんな無慈悲な存在を、どう敬い崇めればいいというのだ。
『なにが・・・ なにが、神様よ・・・・・・・・。』
シオリの涙で滲む目に、怒りと憎しみが揺らいでいた。
握り締めた拳が、ブルブルと震え鬱血するように真っ赤になっていた。
その時、コウは特別室のベッドに横たわったままのユズルの元にいた。
ゆっくりゆっくり瞬きをして、ぼんやりとまだ夢の中のように然程反応しないユズル。
コウはそんな呆けた従兄弟の姿を目に、静かに口を開く。
『ユズル君・・・ 大変な目に遭ったね・・・。』
その声色には感情の色がまるで無かった。 哀しみも寂しさも同情すらも無い。
ユズルはまっすぐ天井を見たまま。
ただ規則的に目を閉じ、そして開く。それをゆっくり機械的に繰り返している。
『ユズル君が眠ってる間に、色んな事があったんだよ・・・
でも、ユズル君が目覚めてくれて、良かったよ・・・
・・・神様に・・・ 感謝、しなきゃね・・・。』
コウが静かに頬に笑みをたたえて、目を細める。
その声色は繕ったようにやわらかく響いたが、その目の奥の真意ははかれない。
無音の室内。
痛いほどの静寂を破り、それは小さく小さく響いた。
『目覚めても ”その状態 ”なら、
やっぱり、シオリは・・・・・・ 俺と・・・・・・・・・。』
その一言に、ユズルの視線がほんの微かに動いた。