■第34話 ポケットから出て来たメモ紙
『ぇ・・・ 聞いてないよ・・・。』
静まり返った待合室に、ユズルの震える声だけ小さく落ちた。
突然聞かされたタキの退院に、ユズルは目を見張る。
入院していた患者が退院するなんて、そんなの当たり前な事なのにユズルの
頭の中は一度もそれを考えたことがなかった。 ずっとタキはこのままあの
病室にいて、そしてレイは病院に見舞いにやってくるのだと。
レイは夕暮れになると待合室にやって来るのだと・・・
タキが退院するということは、それはもうレイは病院に通わない事を意味する
訳で。 しかも、それが明日だという。 もう今は面会時間が終わり間際で、
今日という日も終わろうとしているというのに。
『・・・言ってなかったっけ?』 ユズルに中々言い出せなかったレイが隠し
きれない寂しさをまるでおどけるように明るい声色で繕うも、それは逆に虚しく
床に落ちる。 レイのそれも微かに震えていた。
『聞いてないよっ!!!』
すっかり感情を剥き出しにするようになったユズルが、車イスのレバーを慌てて
倒し回転して、どうしても堪え切れず歪んでいく顔を隠すように背を向けた。
なぜちゃんと言ってくれなかったのか、どうせ短い間だけの関係ならわざわざ
言う必要ないとでも思ったのか、やっぱり車イスの自分の事など真剣に考えて
いなかったということか、そもそも自分のことなどなんとも思っていなかった
のかレイの心中を疑り猜疑心でいっぱいのユズルの目は、耳は、痛々しい程に
どんどん真っ赤に染まってゆく。
『・・・なに怒ってんのよ・・・。』 レイが哀しげに俯いてそっとユズルの
肩に手を置いた。 するとその手を払うように肩を揺らし拒絶するとユズルは
低く呟く。
『別に・・・ 怒ってないけど・・・。』 そう言いながらもユズルの手は
ガタガタ震えていた。 裏切られた様な気持ちになり、レバーを握る手に
イライラに似たどうしようもない寂しさが込み上げ募る。
(明日で終わりなんだ・・・
もう、肩を揉んでもらうことも、リハビリに付き合ってもらうことも
もう・・・
もう・・・ レイさんには、逢えないんだ・・・。)
そんなユズルの震える背中を、レイは目を細めて見つめた。
『ねぇ・・・。』 レイが静かにユズルの後ろに立って、再びその痩せた肩に
そっと手を置く。 しかしユズルは強張った顔で俯いたまま返事をしない。
『ねぇ・・・
・・・ケータイ、持ってるんでしょ・・・?』
レイはいまだ哀しげな仏頂面のユズルを後ろから覗き込み返事を待つと、
暫し無言だったそのキツくつぐんだ口は、『ん。』 と不機嫌そうに返した。
すると、レイは小さく笑って言った。
『・・・肩凝ったら電話して。 すぐ、来るから。』
その一言に、ユズルが思い切り顔を後ろに向け振り返る。
目は見開いて、今耳に響いたそれが嘘ではないか、聞き間違いではないか
確かめる様にレイを射る程にまっすぐ見つめる。
『私、チマチマとメール打つの面倒だから。 電話にしてね。』 そう言うと
レイは上着のポケットから電話番号を書いたメモ紙を取り出し、差し出した。
その細い指先が掴んでいる、レイらしい飾りっ気のないメモ紙。
ユズルは自分の動かない脚を睨んで、やはりもう誰かを恋しく想うなんて無駄な
事なんだと、傍にいたいと傍にいてほしいと思うことなど無意味なんだと自分に
言い聞かせようと俯いていたその耳に聴こえた、レイのその一言。
(また・・・
逢おうと思ってくれてる、って・・・ことだよな・・・?)
ユズルはポケットから出て来たメモ紙にじっと目を落としていた。
はじめて見たレイの字。
大雑把で豪快なレイらしい、勢いのある小気味よい字。
なんだか可笑しくて歯がゆくて、ほんの少し笑える。
笑えて、そしてなんだか、泣ける。
それは今思い付きで書いたのではなく、ちゃんと準備されていた。
ちゃんと、渡すつもりで
今夜、番号を教えるつもりで・・・
涙が滲む赤らむ目元を見られまいと、必死に深く呼吸をして胸にこみ上げる
それを鎮めようとユズルは必死になっていた。
言いたくて言いたくて仕方ないその一言が、心の中に溢れだす。
(僕は・・・
僕は、レイさんと・・・ ずっと一緒に、いたい・・・。)
するとレイは涙を堪えるユズルに気付かないフリをして、明るく言った。
『取り敢えず、今日は帰るね。 また明日来るから・・・。』
軽く手を上げて、静まり返った待合室にユズルを残しレイは廊下の先に消えた。
ユズルはその背中を何も言えずに見守っていた。 その背中が遠く消えても尚
愛しいその残像を想い見つめ続けていた。
その手にはレイからのメモ紙が強く強く握り締められている。
ユズルの震える手の平の熱で、それは少しクッタリよれていた。
すっかり照明も落ちた暗い正面玄関を抜け、レイは表通りに歩みを進めた。
自分の落とすスニーカーの靴音だけがアスファルトに小さく響き、通り向こうの
車道を走る車の走行音がせわしなく遠く聴こえる。
レイは一度振り返って、ユズルがいつも佇む待合室の窓を切なげに見つめる。
ユズルの前では気丈に振舞っていたレイの目元も少し潤んで赤らんでいた。
そして、すぐ向き直って前を向き再び歩き出した。
その時。
♪~♪♫・・・♪・・♪♪♪~♪♫・・・♪・・♪♪
『も・・・もしもし??』
レイのケータイが知らぬ携帯番号からの着信を受けて鳴った。




