■第32話 希望を見い出した表情
レイに少しずつ本当の顔を見せる様になったユズルは、次第に周りにも感情を
出すようになっていった。
毎日日課のように病室を巡っていたそれも、気分が乗らない時は自分の病室
から一歩も出なくなったり、母親や看護師に対してもどうしても堪え切れない
時はイライラをぶつけたり素っ気ない態度もした。
一言も口を利かない日があったり、にこりとも微笑まない日もあった。
そして次第に、ただの入院患者のひとりとして認識されはじめていた。
それは、ある日のこと。
母マチコが着替えが入った紙袋片手にユズルの元へやって来た、とある夕暮れ。
敢えて夕飯時間に目掛けて来たマチコは、ユズルの好物のおかずを密閉容器に
入れ自分の分の簡単な弁当も持参し、病室で一緒に夕飯をとろうとしていた。
すれ違う顔見知りの患者や付添家族に挨拶をしながら、マチコは夕暮れの
廊下を静かに進む。
すると、廊下向こうの待合室からユズルの愉しそうに笑う声が聴こえてきた。
穏やかに微笑むことはあっても、笑い声を上げてケラケラ笑うユズルのそれなど
暫く聴いていなかったマチコ。 あまりに愉しそうな笑い声に、慌ててそれが
響く方向へ嬉しそうに目を向けた。
すると、そこには夕陽に照らされながら眩しそうに目を細め笑い合うふたりの
影があった。 車イスのユズルの肩に手を置き、クスクス笑いながらマッサージ
している女性の姿。
ふたりのそのやわらかな距離感に、思わず息を殺してマチコは立ち竦む。
なにか声を掛けたって良かったはずなのに、なぜか喉の奥からは一言も発する
ことが出来なかった。 音を立てないように数歩あとずさると慌てて踵を返し
自宅へ向けてマチコは走り去った。
ユズルが久々に見せたあんな顔、あんな笑い声。
マチコは嬉しい反面、胸に渦巻く恐怖にも似た不安に顔を歪めた。
(ユズルが、傷付くだけなんじゃないのかしら・・・。)
その夜。
過労により数日間療養しその後復帰していたシオリが、勤務が終わり帰宅した
気配にマチコはリビングテーブルの椅子から乱暴に立ち上がると玄関へ駆け出し
シオリにしがみ付くようにその二の腕を掴んだ。
『ど、どうしたの・・・?』 不安気に見つめ返すシオリに、マチコは待合室で
見掛けたユズルの話をする。
シオリは少し驚いた様子でマチコの話を黙って聞いていた。
そして、どこか嬉しそうに目を細め頬を緩める。
『でも・・・
お兄ちゃんが、その人がいてくれることで生きる希望にな・・・』
言い掛けたシオリへ、マチコがまくし立て遮る。
『でも、あの子は・・・ ユズルは一生車イスなのよっ?!』
『アカの他人が・・・ あの子を一生面倒みながら生きてくなんて・・・
途中で投げ出されたりしたら・・・ ユズルが、余計にまた・・・。』
マチコの声が、涙が混ざった震えたものに変わる。
シオリはそんなマチコをやさしく、どこか寂しそうに見つめる。
マチコの気持ちは分かる。 自分にはなんの非も無い事故で一生車イス生活に
なった息子に、これ以上哀しい思いはさせたくない。 目の前に現れる障害は
全て取り払ってあげたい。 ユズルが転ばぬように痛い思いなどしないように。
マチコを諭すように、シオリはやわらかい声色で言う。
『私たちは必死にお兄ちゃんを守ろう守ろうと囲うけど、
その人は逆に外の世界へ引っ張り出してくれるのかも・・・
身内じゃないからこそ・・・
私たち家族には与えられないものを、あげられるのかもよ・・・。』
シオリの静かなあたたかい声に、マチコは尚も涙で滲んだ不安気な目を向ける。
指を絡め俯いて、それでもまだ心配で堪らないといった面持ちの母マチコに
シオリは続けた。
『お兄ちゃんが誇りをもって、
その人と生きていけるっていう ”なにか ”があればいいのにね・・・。』
その時レイは自宅の自室でひとり机に向かい、ノートパソコンの画面をまっすぐ
見つめていた。
その顔は真剣そのもので、細く眇めた目は画面に表示された長い文章を読み込み
引っ切り無しにその右手人差し指はマウスを動かしてスクロールをする。
そして、嬉しそうに思い切り口角を上げて笑った。
暗い部屋にぼんやり浮かび上がるディスプレイの明かりに、レイが希望を見い
出した表情が眩しい程に輝いていた。




