■第3話 妹
それは、妹シオリの幼い頃の映像。
『お兄ちゃんっ!!』 幼稚園児くらいのシオリが、まっすぐユズルに駆け寄り
抱き付く。 ユズルの腰にも届かないようなその身長で、ぎゅっと腰に巻き付く
ように手を廻ししがみ付く。そのツヤツヤな天使の環が目映い黒髪の頭をそっと
やさしく撫でてやると、ぷっくりと丸い頬を高揚させてシオリは嬉しそうに笑った。
歳の離れた兄妹であるユズルとシオリは、こどもの頃からケンカしたことが
なかった。
”ケンカにならない ”というのが実際のところだったのだが。
ユズルがシオリをからかってわざと怒らせることはあっても、温厚でのんびり屋
なユズルが怒ったことは一度もなかった。
ユズルはシオリをとても可愛がりシオリもやさしい兄に懐き、微笑ましい仲睦ま
じい兄妹だった。
幼い頃のシオリは何処へでも兄ユズルの後をついて歩きたがった。
シオリの目を盗んでこっそり友達と遊びに行こうとするも、呆気なく見つかり
シャツの背中をその小さな手でぎゅっと引っ張り阻まれた。
そして、不満気に口を尖らすシオリ。
『シオリもお兄ちゃんと一緒に行くー!!』
ハの字困り眉のユズルを、更に更に照れくさそうな困り眉にさせたのは一度や
二度ではなかった。
そんなシオリはどんどん大きくなるにつれ、愛らしいぷっくり頬がスッキリし
はじめ家族の贔屓目で見たとしても世に言う ”美人 ”になってゆき、それに
比例するようにユズルと距離を置くようになった。
それは思春期特有のものだという事はユズルはちゃんと分かっていたし、いい歳
していつまでも兄にくっ付きたがっていてはそれはそれで問題がある。
もしシオリがどうしてもこどもの頃のように後をついて歩きたいと言うのなら、
勿論それは無理に止めはしないし、むしろユズルも悪い気はしなかったのだけれど。
どんどんキレイになってゆく妹の横顔を見ながら、ユズルは言う。
長いまつ毛、スっと通った鼻筋、形のよい唇。 思わずうなる程の自慢の妹。
『お前さ~・・・
・・・カレシの一人や二人、いないのかよぉ~?』
からかう感じのそれが出てしまった声色に、ちょっと肩をすくめながら頬を緩めて。
シオリに怒られることは見越したうえでの、敢えての、ちょっかい掛けたいが
故のその問い。
すっかり自分に懐かなくなった中学生の妹に、テーブルに片肘ついてお茶を飲み
ながら当時医大生だったユズルがニヤニヤと目を細めて。
ジロリ、思い切り白けた流し目でシオリは睨んだ。
そしてツンと顎を上げて、そのツヤツヤの陶器のような滑らかな頬をぷいっと
背けるとリビングテーブルの席を乱暴に立って、無言で2階の自室へ戻って
行った黒髪ロングの背中。
『こどもの頃は、あんっなによく笑ってたのになぁ~・・・?』 ユズルの呟き
に一部始終を目の前で眺めていた母マチコが、両手に湯呑を掴み少し顔をしかめて言う。
『やめなさいよ!あの子をからかうのは・・・ 多感な年頃なんだから。
”お兄ちゃんキライ ”って、今に言われちゃうわよ。』
そう言いながらも、マチコも愉しそうに肩をすくめクスクス笑っていた。
母マチコと同じ顔をして、ユズルも顔を綻ばせていた。
美しく成長するにつれ、シオリはその美麗な容姿故に周りから
”勝手なイメージ ”を植え付けられることが多くなっていた。
”ホヅミさんって、なんか澄ましてるよね ”
”全然、笑わないよね ”
”なんかバリア張ってるみたい ”
美しさ故のやっかみも多少なりともあったその陰口に、増々笑顔を見せられなく
なっていったシオリ。 どう笑えばいいのか忘れてしまいそうだった。
そんなすっかり笑わなくなっていたはずのシオリが、高校2年頃からよく笑う
ようになった。
眩しそうに目を細めほんのり頬を赤らめて、嬉しそうに愉しそうに。
まるで羽根でも生えたかのように軽やかなその背中は、こっそり萌葱色の
青りんごを白く細い手で大切そうに包んで見つめ、幸せそうに微笑んでいる。
”実は・・・ 体育の授業中に、好きな子に見惚れちゃって・・・
はじめてっ!
・・・はっじめて、手ぇ振ってくれたんスよぉ~・・・
俺。 こんな腕のヒビとか、もぉ、どーでもいいっスもんっ!!
手ぇ振ってもらえただけで、マジでもぉ、俺。ぜんっぜんいいっス!!”
あの日、
はじめて整形外科の診察室にやって来た彼がユズルの脳裏に浮かんでいた。
シオリを心から幸せそうに笑わせることが出来る只唯一の、彼が。
『・・・・・・・・・・・・・・シオリ。』
長い長い夢を見ていたような感覚だった。
ユズルは数年の時を経て、夢から覚めてこの現実世界に戻って来た。




