■第16話 シーちゃんとヒサちゃん
ベテラン看護師長であるヒサコはシオリの細い背中を心配そうに見つめていた。
ホヅミの病院に勤めはじめたのは、もう30年も前のこと。
現院長ソウイチロウの祖父である先々代が院長を務めていた頃からこの病院に
仕え、当時ヒサコは看護学校を卒業したての新人で、ソウイチロウもまだ新米
外科医の一人として毎日を忙しく過ごしていた。
ソウイチロウが外科部長になった頃、長女であるシオリが生まれた。
長男のユズルが生まれた後、祖父が逝去したりホヅミ家には暫くめでたい話が
なかっただけにシオリの誕生はみなの心を明るく眩しく照らした。
当時、幼いシオリは毎日病院にやって来た。
父の後ろを覚束ない足取りでヨチヨチついて歩き、ソウイチロウは毎回困った
顔をして小さなシオリを抱きかかえ、看護師の休憩室のドアをノックする。
そして、決まって申し訳なさそうにモゴモゴと呟く。
『悪いんだけど・・・ また、頼めるかな・・・?』
ヒサコは嬉しそうに頬を緩めると、ソウイチロウの腕からシオリを引き受け
抱きしめる。
すると、シオリもすっかり懐いているヒサコの首元に顔をうずめ小さな小さな
手でぎゅっと抱きついた。
『ヒサちゃ~ぁん。』
可愛らしいソプラノの声がヒサコの耳元に響く。 ピアノの鍵盤が弾かれるかの
ような幼いシオリの眩く踊る声。
ヒサコはシオリを更にぎゅっと強く抱きしめ、そのぷっくりと丸いつやつやの
頬に思いっきり唇を押し付けてキスをする。 あまりに可愛くて食べてしまい
たくなる程で何度も何度も大袈裟にキスをすると、シオリはくすぐったそうに
ケラケラ笑ってヒサコの腕の中で暴れた。
『シーちゃん、食べちゃうわよぉ~!!』 シオリのほっぺにパクっと甘く
齧り付くふりをすると、更にシオリは愉しそうに笑った。
思春期を迎えたシオリのことも、ずっと見てきたヒサコ。
多感な年頃になり父ソウイチロウとはあまり会話しなくなったシオリも、
ヒサコにだけは幼いこどもの頃のままなんでも話し、まるでもうひとりの母親の
ように接していた。
どんどん美しく成長するシオリを、そっと目を細め眩しそうにいつも見つめてきた。
あまり上手に笑えなくなったシオリが、次第に笑うようになったのも全て。
ある日、整形外科の診察室に朗らかに笑う青年がやって来たあたりから、
シオリは幼い頃のように嬉しそうに愉しそうに、心から幸せそうにクスクス笑った。
しかし、一転。
ユズルの事故により、その眩しい笑顔は嘘のように消えた。
正直なところヒサコがあまり好きになれないコウが、シオリと婚約するという
噂を耳にしたあたりから。
(あの、ボーイフレンドとはもう会ってないのかしら・・・。)
医者になったシオリの背中を、いつもいつも心配そうに見つめていた。
あまりに頑張り過ぎで、切ない程に無理をしている、シオリのその背中。
シオリが笑う顔をどうしても見たくて仕方がなくて、ヒサコはなにかとシオリに
話し掛けた。 くだらない世間話やゴシップネタをなんだかやたらと必死に。
しかしその頬は無理やり小さな笑みを浮かべるだけで、余計にヒサコの不安を煽る。
胸が締め付けられて、たまらず訊いてみた。
『ねぇ、シーちゃん・・・。』
普段は ”シオリ先生 ”と呼んでいたヒサコだが、誰も周りにいない時には
あの頃のままの呼び名で呼んだ。
『ん? なに?ヒサちゃん。』 シオリも ”師長 ”ではなく愛称で返す。
『シーちゃん・・・ ダイジョウブなの・・・?』
その心配する思い詰めた声色に瞬時にシオリの目に透明なものが浮かび上がる。
一瞬ヒサコにすがるような目を向け、しかしすぐさま俯いてかぶりを振ったシオリ。
そして、『ダイジョウブだよ!!』 頬に無理やり笑みを作った。
それはあまりに疲れて心細い、哀しい笑みだった。
ある日、シオリの心と体は限界をむかえた。
真っ白な痩せた白衣が病院の廊下に崩れ落ちるように横たわり、その白に汚れを
付ける。
遂にシオリが、倒れた。




