■第1話 足元に転がり落ちた約束の環
『ユ・・・ユズル先生が・・・
ユズル先生の意識が・・・ 戻りました・・・。』
普段は落ち着き払い冷静なはずの看護師長が、声を上ずらせせわしなく瞬きを
繰り返して言った。 白衣のズボンの横をキツく握り締める、シワが刻まれた
ベテランのその手がまるで新人のそれのように震えている。
その一言に、その場にいた一同の誰ひとりとして声を出すことが出来ない。
一切の動きを止め瞬きもせず、耳に響いたそれを暫し頭の中でリフレインしている。
『ュ・・・ユズル!!!』 愛しい息子の名を叫び目を見張って、真っ先に
院長室を飛び出したのは母マチコだった。 焦る気持ちに足はもつれ突進する
ようにドアノブにしがみ付くと、ガクガクと震えるその手は思うようにドアを
開けられずにいる。
シオリの小刻みに震える足が、弾かれたように大きく一歩踏み出した。
強引に掴まれていたシオリの左手首は、聴こえた衝撃的な一言に力が抜けた
コウの指先から開放され自由になっていた。 シオリは慌てて母マチコの元へ
駆け寄り、その震える肩を抱いて立ち上がらせると、ふたりで重厚なドアを
飛び出して行く。
それに続くように、ソウイチロウもコウの父母も急いで院長室を出て駆けて行った。
ひとり、その場に取り残されたコウ。
廊下に響く複数の駆ける足音が、遠く、小さくなってゆく。
クククと、哂った。
静寂に包まれた院長室内に、不気味なほどに可笑しそうな哂い声が響き
そして消えた。
足元を眇め、ゆっくりゆっくりしゃがみ込んで目映く輝く環を指先で摘む。
シオリが母マチコの元へ駆け寄る際にコウの手を振り払ったとき、ぶつかった
指先にその輝く ”約束の環 ”はコウの指を離れ、足元に転がり落ちていた。
何か月も前に特注した、その輝く環。
シオリの喜ぶ顔だけを思い浮かべて出来上がりを待ち侘びた、その煌めく環。
それが、今。
無惨にも足元の、日々の土足で少し汚れた毛足の長い高級なカーペットに転がり
その輝きを失っている。
コウの不器用な想いを ”形 ”にしたはずのその目映い結晶は、シオリと大切な
”約束 ”を交わすことが出来ないままに、見向きもされずに置き去りにされた。
お姫様のように美しいシオリにピッタリなはずの、それが。
王子様のように凛々しいコウがプレゼントするに相応しい、それが。
カーペットに膝を付いてしゃがみ込み、コウは泣き出しそうに顔を歪めた。
ブルブル震える程に力を込め手の中で握り締めた婚約指輪のハートの先端は、
コウのキレイな手の平に小さな傷を付け、微かに血の色を滲ませる。
『なんで・・・ なんでなんだよ・・・。』
胸を穿つような苦しく切ない痛みが、コウに容赦なく襲いかかっていた。