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第三の道

作者: 囘囘靑

「忘れたくはなかったな」


 シャトルの搭乗口まで近づくと、傍らに配置されたモニターを、博士は白衣の袖で拭く。袖口には埃がこびりつき、(あら)わになったモニターの表面には、深い皺の刻まれた、博士の相貌が映りこんでいる。


「急いでください」


 シャトルと博士とを交互に見やりながら、大佐は言った。


「ミサイルがこの基地に到達するまで、時間がありません。シャトルはシェルターにまでつながっています。地下二千メートル。岩塩坑を利用して作られた、核廃棄物の処理施設よりも深い位置にある。地上が落ち着くまで避難をお願いします」

「この研究所でキャリアを開始する前――」


 地下まで続くシャトルに、博士は目を細める。払い落とされた埃は、二人が入ってきた通用口からの風を受け、静かに転がっていく。


「私は大学で、哲学研究所の助手をしていた。ゲームの理論とその応用が私の問題関心ではあったが、いわゆる副専攻というやつだった。七〇一研究室で”彼”に会ったときのことを――」


 ”彼”と言う言葉を特に強調しながら、博士は話を続ける。


「私は今でも覚えている。彼はベルクソンの研究者だった。アンリ=ベルクソン。知っているかね?」


 博士の言葉に、大佐はかぶりを振った。


「時間や持続、”生命の躍動(エラン・ヴィタル)”。――ベルクソンの論じた哲学上の主題は様々あったが、彼が熱中していたのは、ベルクソンの記憶(メモリア)に関する論だった。


 物事を忘れてしまったとき、私たちは一般的に、次のような想像をする。すなわち、脳の容量(メモリ)には限りがあって、その容量を越える経験を、人間は記憶しておくことができない。また、ふとした弾みで滑り落ちたり、当人が望むかどうかにかかわらず、時とともに褪せていく――それが記憶なのだと、誰しもがそう考える。


 そのような通念は違うというのが、ベルクソンの論だった。真相は全くの逆。知覚を通して得られた全ての事物が、人間の脳にはインプットされている。しかし、全ての知覚が、人間の生活にとって役に立つ経験というわけではない。ゆえに脳は知覚の膨大な諸瞬間を記憶(スヴニール)(とばり)によって覆い、人が生きていくに当たって必要な”経験(メモリア)”が加工されて残る。『脳は生活の注意のための器官』と、ベルクソンは言っている」

「おっしゃることの趣旨が、私には分かりかねますが――」


 自分たちが入ってきた通用口を一瞬だけ見やりながら、大佐は言った。


「早くシャトルへ、博士」

「待ってくれ。それで彼は、あるアイデアを話してくれた。自白や自供を引き出すための薬は、人間の意識の及ぶ領域しか参照できない。本人が思い出したくとも思い出せない、いわゆる無意識の領域に眠る知覚は、記憶の(とばり)の外にある。

 ならば、意識と無意識との間を操作して、本来は記憶のうちに留められていなければならない経験を、無意識の領域に追いやってしまえば? そうすれば、その記憶は完璧に保存されたまま、未来のどこかのタイミングで、その人の役に立つようになる。精神生理学上の応用論だ。それは実用化され、現在に至っている」

「お言葉ですが」


 博士の話を、大佐は遮る。


「仮に無意識の領域に記憶が保存されたとしても、その記憶を持つ当人は、自力でその記憶を引き出すことはできない。そうではありませんか?」

「もちろん。だから”鍵”を用意する必要がある。シャトルの格納されているこの部屋までやって来ること。それが私にとっての”鍵”だった」


 大佐の方に、博士は向き直る。


「君には目的がある。私をこの部屋に連れてくるのは、その大きな目的のための手段に過ぎない。君は敵国と内通していて、今回の事件に乗じて私を拘束するよう命じられている。この場所ならば外部の目は届かない」

「大変なご明察ですが……」


 懐をまさぐると、大佐は銃口を博士に向ける。


「どうぞシャトルにお乗りください、博士。このシャトルが、あなたを終着点まで連れていってくれる」

「もし私が、シャトルに乗らなかったら?」

「ならば、ここが終着点です」


 大佐は撃鉄を起こした。


「そうか、そうかもしれないな」

「どちらかを選んでください、博士。シャトルに乗るか、死を選ぶか」


 手すりを伝いながら、博士は短い階段を登る。大佐の銃の照準は、そんな博士の背中を追い続ける。


 ハッチが開く。博士はそのまま、シャトルの中へと足を踏み入れる。


「話には続きがある」


 ハッチが閉め切られ、大佐が銃を下ろした矢先、部屋の上部に設置されたスピーカーから、博士の声が聞こえてきた。


「“彼”の話だ。彼は大学に残ったが、ほどなくして大学を辞め、州知事選に出馬し、当選を果たした。元々、政治的な事柄にも関心が強かったようだ。上院議員に転身した後は、精神生理学を軍事的に応用するための政策や研究に力を注いだ。――大統領になった今も、彼の関心は変わっていない」


 シャトルが出発します。――博士の声と入れ替わりに、アナウンスが響いてくる。


「最後に言っておこう。彼が実現した政策のひとつに、安全保障のレベルに応じて、軍事関係者の記憶を操作するというプログラムがある。だから君は、このシャトルの行き先が地下であると記憶している。いや、『記憶させられている』とでも言おうか」

「まさか……」

「その“まさか”だ」


 天井からは土ぼこりが落ちはじめ、緩慢な動きとともに、シャトルは出発する。


「私は君たちに捕まるつもりはない。殺されるつもりもない。第三の道がどういうものであるかを、君たちに教えてあげよう。それまで私は、眠りに就いているとしよう――」


 何かできることは――。銃の照準を、大佐はシャトルに合わせる。だが、何もかも手遅れだった。引き金を引くより前に、シャトルは急加速する。レールの上を高速で滑走していき、暗くて深いトンネルの奥へと、博士は消えていった。

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