煙とコーヒー
懇意にしている喫茶店があるんだ。
だからなんだというのだ。話がまったく見えてこない。そもそも彼の話はいつも唐突にはじまる上に終わりが見えないし、大抵気付くとその中に巻き込まれてしまう。できれば相手にしたくない。
そっぽを向いて煙草をふかしてみるが、狭い喫煙室の中だ。逃れられるわけもない。
明日、一緒に行かない?
子供のように笑って誘う彼に、渋々といった表情を作って頷いた。きっと断ればもっと面倒なことに巻き込まれる。
しかし、何故こんな面倒な奴と俺は幼い頃から今までなんだかんだ一緒に過ごしてきたのだろう。さっさと違う学校へ、違う会社へ行ってしまえばよかったのに。
えへへ、と嬉しそうに笑顔を浮かべる彼の顔を見て、そんな考えごとはどうでもよくなった。
彼の話がどれだけわけがわからなくとも、俺のことを振り回そうとも、彼の笑う顔がそばにあれば、それは俺にとって幸福なのだ。彼は俺にとって、家族のようなものなのだ。
くつくつと笑う俺の姿を見て、彼は不思議そうに首をかしげた。
*
そこは、未だ昭和の香りを残す小さな喫茶店だった。いつも歩いている通り道に、こんな店があるなんてしらなかった。
古い木の扉を開ければ、コーヒーの匂いとわずかな煙草の香りが鼻を通り抜ける。
ここは煙草が吸える店なんだ。会社の知り合いも来ないし、僕と君にはちょうどいいだろう?
たしかに煙草が堂々と吸えるのはありがたい。しかしここはあくまで喫茶店であって喫煙所ではない。
コーヒーはうまいんだろうな。
もちろんだよ。
彼の言うことに嘘はなかった。香ばしくほろ苦い一杯の黒に、ほう、と息をつく。こんなにうまいコーヒーを飲むのは久しぶりだ。ためしに頼んでみたチーズケーキも、主張しすぎない甘さがちょうどいい。
そういえば最後に喫茶店に寄ったのは、まだ俺に彼女がいたころだった。彼女のことだ、今頃良い奥さんになっているだろう。ただの思い出の一つになってしまった過去の甘かった日々がよみがえる。
ふと浮かんだ記憶の断片を味わううち、渋い顔で飲んでいたのだろう。彼が不安そうにこちらを見つめているのに気がついた。
このブレンド、うまいな。
たちまち彼の口角が上がる。
よかった。
少々太めの店のマスターも、ありがとうございますと愛想良く笑う。ここで仕事帰りに一息つくのも悪くない。そのうちまた、今度は一人でふらりと寄って、なんとなく気持ちの良い時間を過ごすのもいいな。
気の利くマスターが取り替えてくれた綺麗な灰皿に軽く灰を落とす。
ああ、長谷部さん。いらっしゃい。
一番すみの小さな席が俺のお決まりの場所となってもうしばらく経つ。マスターはいつものように小さなカップの中にかぐわしい世界を作り出す。もちろん軽食も絶品だ。あつあつの分厚いピザトーストを一口。よくのびるチーズが見た目にも楽しい。
具を落とさないように一生懸命に急いで口に運んでいると、そんなに急がなくても、とマスターに笑われた。
俺はせっかちなんですよ。
もぐもぐと口を動かしながら軽く会話をする。彼といる時間ともこの間できた恋人と会っている時間ともまた違う新たな幸福な時を開拓できた喜びと、そのきっかけを作ってくれた彼に安らかな感謝をしていた。
ああ、明日にでも会社に美味しいお菓子を持っていこう。そして彼に、一言でもいい。一言でいい。礼を言おう。
残りのピザトーストを頬張りつつ、俺は甘党の彼のためになにを買うかを考え始めた。
長谷部さんこんにちは。どうしたんですか?ひどい顔ですよ。
マスターが心配そうに俺の顔をのぞき込む。朝から泣き続けたのだから無理もない。どうにか笑顔を作って、マスター、いつもの。とだけ告げた。
それ以上何も訊かないで普段通りにコーヒーを淹れはじめたマスターの姿を見て、俺は今日はじめてようやく煙草の箱を取り出す気になった。
マスター。
はい。
菊川が、俺をはじめてここに連れてきてくれたあいつが、死んだよ。交通事故だってさ。
瞬間、マスターの手が止まる。
そうですか。
またすぐにコーヒーの面倒を見るマスターの姿に、何故か安心する。
何度か煙草をふかし、俺とマスター以外誰もいないこの馴染みの空間を見回す。アイスクリームでも頼もうか、とぼんやり考えているとマスターがカップを差し出した。
はい、いつもの。
並んで置かれた二杯のコーヒーに、何故、という間もなくマスターから答えが明かされる。
もう片方は、菊川さんの分ですよ。線香と落雁ばかりの最期じゃ、味気ないってものでしょう。
それもそうだ、と妙に納得して片方のカップを手に取る。
変わらない店、変わらない日常の喧騒。
変わらないはずの一杯が、どうしてか今日は特別苦く感じた。
【了】




