秘密の抜け道
息をするだけで体力を奪われてしまうような暑い夏の日。制服が汗で背中に張りつく不快感に顔をしかめながら、一人の男子高校生が日中の住宅地を歩いていた。
世間はいわゆる夏休み、学業の才能に恵まれなかった少年は午前中のみの特別補習を終え、日光に焼かれながら日中の帰り道を黙々と辿っていた。あまりの暑さに視線は無意識にうつむき、日陰を探してしまう。
普段はほとんど通ることのない日中の通学路は家々の塀が日光をうるさいくらいに反射して、どこか現実感の欠けた姿をしていた。そんな中にひとつ、暗く沈み込んだ“割れ目”があった。
一瞬何だろうと考えた少年はすぐにそれが抜け道であることを思い出した。小学生の頃に友人達と見付けた秘密の抜け道。大人が通るには些か狭く、しかし子供にとっては難なく通れる懐かしい遊び場の一つだ。
(まだ通れるかな)
自宅の近くの林に繋がる抜け道は上手い具合に塀の影になっており、いかにも涼しげだ。昔は毎日のように利用したこの道もいつからか使わなくなり、今の今まで存在すら忘れていた。
体を横向きにし恐る恐る踏み入れたそこは、昔感じていたよりも幾分狭く、少年は何とも言えない懐かしさと寂しさを感じた。抜け道は相変わらず誰かの投げ込んだゴミが散らかっており、時折かかっている蜘蛛の巣が利用者の無さを物語っていた。
曲がり角を何度か越えた頃、ようやく両脇の塀は途切れ、木立の中にたどり着いた。
林と呼ぶには少々広さのある雑木林だが、旧家の私有地か何からしく立ち入る人も無く、昔から何一つ変わらず道も無いまま住宅地のど真ん中に残っている。なので微かな記憶と方向感覚だけを頼りに進むしかない。
(でも確か真っ直ぐ進めば抜けれたような記憶が――)
幼い頃の記憶など当てにならないもので、少年が鬱蒼と生い茂った木々の中を歩き始めて数分が経ったと言うのに民家の壁の一つも見当たら無い。そう広くないはずの林だ、一分も歩けばどこかしらの塀か壁でも見えてもおかしくない。
それどころか歩き続ける内に周囲の木々はいっそう密度を増し、日の光すらまともに届かず辺りは日中とは思えないほど暗く影を濃くしていた。それに比べ、光が届かないせいか足元の雑草は全体的に背が低く、少ない。地面は湿った土独特のやわらかさで、木の根がむき出しになっており少年は何度かつまづきかけた。
(ここってこんなに広かったっけ……)
次第に少年の心には不安と焦りが色濃く現れだした。自分の記憶にない風景、見つからない出口、日中とは思えない周囲の様子。
周りには見たことも無いような木々が立ち並び、真夏だと言うのに蝉の鳴き声一つ聞こえない。人の気配どころか自分以外の生き物の気配すら感じられない。最初は単に迷っただけだと思っていた少年だが、いくら歩き続けても出口は見つからず、その思考は言い知れない恐怖に塗り潰されていった。
(おかしいって、こんなの、こんな、こんなに広いわけない、子供の頃だって迷った事なんて一度もなかったのに、一体何なんだ、出口は、何で、こんなの、どうして、変だ、なんで……)
携帯電話で連絡を取ることも考えたが、生憎充電が切れいて使い物にならない。もし使えたとしてこんな異常な状況で繋がるのかすら疑問である。
混乱と恐怖に少年の歩みは止まり、今まで足音で遮られていた木々のざわめきはより一層存在感を持ち、少年の恐怖心を更に大きくしていった。
立ち止まり、周囲を見回すがどこを向いてもあるのはどこか歪な木々と先の見えない深い闇だけ。少年は迷子になった子供のように途方に暮れ、その場にしゃがみこんでしまった。
足元の下草混じりの腐葉土は足跡一つない自然のままの姿で、触れてみるとまるで死人の肌のようにじんわりと冷たい。少年はその不快な感触に寒気を覚え、服の裾で乱暴に手を拭うと立ち上がった。
そこでふと少年は周囲の異変に気付いた。
音が無いのだ。
先程まで不安を煽るようにざわめいていた葉の音も何もかもが押し黙り、耳鳴りがする程の静寂のみが存在していた。
完全な無音。自然の木々の中でそんな事が起こり得るとは到底考えられず、少年はその異常な状況に本能的な恐怖を覚えていた。表情は強張り、冷たい汗が肌をつたう。
ぴちゃん
極度に緊張した少年の耳に、それは確かに届いた。
水の音。水滴が水溜まりに滴るような、小さな小さな水音。
少年はその微かな音に言い知れない恐怖を感じた。
あり得ない音。水気のない林──いや森と呼ぶべきだろうか──に存在するはずのない異質な音が、今、確かに聞こえた。周りの空気が急速に温度を失い、ひやりとした冷気が少年の頬を撫でた。
ぴちゃん
少年の体にぞわりと鳥肌がたつ。
先程より大きく、近く、その音は、背後で、響いた。
背後から湿った空気が、どろりと流れ込む。それは夏の雨上がりの匂いで、濃く、水気をじっとりと含み、明らかな不快感を少年に与える。
ぴちゃん
近付く、音。
それに伴い更に濃度を増す空気。
辺りは既に、雨上がりの森そのものになっていた。少年は近付く音に恐怖し、しかし金縛りにあったように体は動かず、逃げる事もできないまま目を見開き、立ち尽くす。
ぴちゃん
すぐ、近く。
ほんの数メートル後ろで、ひときわ大きく水の音が、した。振り返ってはいけないと意識の全てがそうはっきりと叫ぶ。
しかしその意思とは反対に、体はその音のした方へ視線を動かしていく。
(いやだ、いやだ、いやだ、見ちゃだめだ、振り向くな、だめだ、やめろ、振り向くな、振り向くな、やめ)
ぴちゃん
そこにはあかい道があった。
呼吸が止まる。
喉がヒュッとひきつり、目が零れ落ちそうな程に見開かれる。
赤、赤、赤、あか、赤、朱、赤、赤、アカ、あか、赤、紅、アカ、赤、あか、あか、あか、紅、赤、朱、あか、アカ、アカあか、赤赤赤赤赤赤赤あかアカあかあかあか朱あかあかアカアカアカアカアカアカアカ……『あか』
視界を埋め尽くさんばかりの『あか』は全て、花だった。
彼岸花、ツツジ、血のように濃い桜、それらの美しい花が、並木のように整然と、生け花のように雑然と、折り重なり咲いていた。
足元には地面が見えない程に彼岸花は咲き狂い、両脇には延々とツツジと桜が緑の葉を覆い隠す密度で咲いている。
幻想的ともとれるその光景は、しかし確実な異様さと恐怖をもって少年の瞳に写った。
森の中に突如として現れたあかい道。それらは皆一様に雨に降られたかのように濡れていた。もちろん雨など降っていない、それなのに今この一帯は間違いようもなく確実に雨上がりの森になっていた。
湿った、冷たく不純物のない空気、じんわりと水気を含み所々ぬかるんだ地面、水滴をまとい時折「ぴちゃん」と音を奏でる花。全てが全て、異常で、歪で、現実感が無い。少年の心は恐怖に塗り潰され、思考は追い付けない状況に完全に停止していた。
ぴちゃん
気が付けば少年の周りも全て『あか』に埋め尽くされていた。足元には彼岸花。腰の高さから足首ぐらいのものまで、様々な大きさの湿ったそれらが足に絡み付く。それはまるで血濡れの人の手のようで──……
「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!!」
少年は絶叫した。
弾かれたように、足元の花を蹴り散らし走り出す。
あかい並木道がただのあかい色の塊となって両脇を流れ去る。並木から外れようと脇に入ろうとしても、逃げるように並木は広がり抜け出せない。
背の高い花に足をとられ、何度も転びかける。両脇から桜の枝が伸びて来ている錯覚すら覚え、足を止める事ができない。踏み荒らした花の『あか』と水滴がズボンの裾に張り付き、まるで血のように見
える。
血のような桜の花弁が舞う。
走っても走っても『あか』は途切れない。
ぴちゃん
ぴちゃん
ぴちゃん
遠く、近く、水の滴る音が連鎖のように響く。
少年は走り続ける。
『あか』から逃げるように、あかい道を。
雨上がりの森には、少年の足音と水滴の音がいつまでもいつまでもこだまし続けた。