『となりにいる人』
彼のウォッチには、人物写真が一枚だけ入っていた。
彼の娘が撮った、元両親のツーショット。
彼はカメラから目線をそらしている、隣の女は娘をみて、おどけている。
私がそれを偶然見つけたのは、私たちの結婚を決めるずっと前だった。
「そんなに大事な元家族で元嫁なら、より道なんかしてないで、戻れる努力したら?」
そう言った私に、
彼は焦りながら、
「この写真があるの、知らなかった。俺はやってない。
なんであるのかわからない。
娘が撮った写真だけど、俺は入れてない。
知らなかった」
彼が私にそう言った後、その写真は見かけなくなった。
私はそれ以上、何も言わなかった。
私と出会った頃から、
彼は毎日、そのウォッチをつけていた。
仕事の日も。
休日も。
私と会う日も。
彼が私にプロポーズした日も。
私がそれを偶然見るまで。
その元夫婦のツーショットだけが、ウォッチの中にあった。
いつも彼の1番身近にある人物写真として。
そして、彼の財布の奥には映画のチケットがあった。
二枚。
私と行ったものではなかった。
別の女と行った映画。
彼は言った。
「とってあると思わなかった、捨てたと思ってた。忘れてた」
その言葉を聞いたとき、私は思った。
――終わったことなのに、どうしてまだ財布に入っていたんだろう。
――その時、とっておきたいと思ったから財布にしまったんだよね?
捨ててないのは、捨てたくなかったからだよね?
彼はいつも、私を愛していると言っていた。
何度も何度も。
「俺が愛してるのは、お前だけ」
その言葉を、私は信じたかった。
信じれば、過去は過去になると思っていた。
そうして、私たちは結婚した。
結婚してからも、彼は私に言った。
「愛してる」
喧嘩をしたあとも。
仲直りしたあとも。
出かける前も。
眠る前にも。
私はある日、聞いた。
「ねえ」
「ん?」
「あなたにとって、愛してるって何?」
彼は少し考えてから笑った。
「好きってことじゃない?」
「じゃあ、昔の人にたちにも?」
彼の顔から笑顔が消えた。
「……昔は昔だろ」
「でも、そのときはその人を愛してたんでしょ?」
答えはなかった。
私はウォッチを見た。
昔の写真が、まだそこにあるような気がした。
財布の中の映画のチケットも。
まだある気がした。
彼が今、私を愛していることを否定したいわけじゃない。
私も彼を愛している。
けれど彼は、
その時々で、
隣にいる人を、
必要としてくれる人を、
自分の心を満たしてくれる人を、
その瞬間は本気で、愛しているのだろう。
だからこそ、怖かった。
「私だけを愛してる」
その言葉が、特別なものには聞こえない。
昔の女にも。
その前の女にも。
そして今、私にも。
同じ言葉を使えるなら。
それは私だけに与えられたものではないのだから。
ある夜、彼が言う。
「俺はお前を失いたくない」
私は黙って彼を見た。
その顔には、本気で怯えている色があった。
きっと本当に怖いのだろう。
私を失うことが。
でも私は、思った。
――失いたくないと思うことと、
――その人を大切にし続けることは、同じじゃない。
「ねえ」
「何?」
「私は、隣にいるから愛されたいんじゃない」
彼が黙った。
「私だから選ばれていたい」
静かな部屋だった。
時計の秒針だけが聞こえていた。
彼は何も言わなかった。
いつもの「愛してる」も、出てこなかった。
その夜、私は初めて安心した。
言葉がなかったからではない。
言葉で埋めなくてもいい時間が、初めてそこにあったからだ。
愛しているなら。
明日もそう言えばいい。
一年後も。
十年後も。
そして、その言葉に見合う行動をし続ければいい。
誰かに隣にいてほしいからや、隣にいるから、だけじゃない。
その人を、その人だから、選び続ける。
「愛してる」という言葉だけを愛だとは思わない。
隣にいる人を、相手が変わるたび、当然のように愛していると言う人が、
ずっと隣にいて欲しい人を、自分の意思で、日々、選び続けられるのか?
それができるか?は、もう、彼自身の課題だ。




