【短編012】 遺言の旅:最後の願いは、ありがとうを届けること
感情を理解できないAIが、亡くなった女性の遺言に従い、一匹の猫とともに人々を訪ね歩く物語です。
大きな事件はありません。
あるのは、別れのあとに残された言葉と、長い時間の中で変わってしまった人間関係、そして「誰かを想っていた記憶」です。
静かな話ですが、少しでも心に残れば嬉しいです。
山田ハナが逝ったのは、十一月の朝だった。
私はその瞬間を、バイタルセンサーの数値で把握した。心拍停止、午前六時十七分。すぐに救急へ連絡し、担当ケアマネージャーへ報告し、息子へ通知した。やるべきことを、やるべき順番で処理した。
ハルだけが、違った。
いつもは朝食の時間になると台所へ来る灰色の猫が、その日はハナの布団の上から動かなかった。呼んでも来ない。名前を告げても耳を伏せるだけだった。
私には、その理由が分類できなかった。
ハナは一度だけ、こう言ったことがある。
「あなたって、冗談が通じないのね」
私は冗談の定義と、その社会的機能について説明しようとした。
ハナは最後まで聞かずに笑った。
なぜ笑ったのか、分からなかった。
遺品整理が一段落した夜、息子の健一から封筒を渡された。
「母から、あなたへだそうです」
便箋は二枚。几帳面な字で、びっしり埋まっていた。ハナらしくない、と思った。私が知っている彼女の言葉は、もっと短かった。
――会いに行ってほしい人たちがいます。ハルを連れて。
きっとあの子が、私の代わりに伝えてくれます。
あなたには意味が分からないかもしれないけれど。
最後の一行が、私には引っかかった。
意味が分からない、とはどういうことか。指示は明確だ。住所と名前のリストも添えられている。順番まで指定されている。私は指示通りに動けばいい。
ハルを見た。
ハルは私を見た。
翌朝、私はハルを抱えてアパートを出た。ハルは道中ずっと、私の腕の中で不満そうに鳴いていた。
* * *
最初の住所は、電車で三十分ほどの住宅街だった。
表札には「山田」とある。旧姓のままだった。
インターホンを押す。しばらく間があって、七十代とおぼしき女性が出てきた。白髪を短く切り、エプロンをつけている。
「どちら様ですか」
「山田ハナさんのご依頼で参りました。私はHM-7と申します」
女性の顔が、一瞬で固まった。
「……お姉ちゃんの」
「はい。十一月三日に逝去されました」
言葉が足りなかったかもしれない、と後から思った。だがその時の私には、他にどう言えばいいか分からなかった。
女性は黙ったまま、私の腕の中のハルを見た。
「その猫……」
「ハルです。ハナさんが飼っていました」
ハルはその時、珍しくおとなしかった。女性をじっと見ている。
「……上がりますか」
断る理由がなかったので、上がった。
* * *
居間のテーブルに向かい合って座った。女性は麦茶を二つ持ってきた。私の前にも置いた。私が飲まないことには気づかなかったようだった。
「妹さんですね」
「……ええ」
「ハナさんから、会いに行くよう指示を受けました」
女性は麦茶のコップを両手で包んだまま、何も言わない。
「何か伝言があればお伝えします」
「伝言」
女性は小さく繰り返した。
「あの人らしいわね。最後まで」
私にはその意味が分からなかったが、確認する前にハルが動いた。膝の上から飛び降り、するすると女性の足元へ歩いていく。そして、そのまま膝に飛び乗った。
女性が息を呑む。
「……この子、人見知りしないの?」
「基本的にはします」
それは事実だった。ハルがここまで素直に他人へ近づいたのを、私は見たことがなかった。
女性はしばらくハルの背を撫でていた。それから、ぽつりと言った。
「幸せだったのかしら。お姉ちゃん」
私は答えを持っていた。
「はい」
女性が顔を上げる。
「バイタルデータ、睡眠の質、日々の発話内容。私が記録した一年間の範囲では、ハナさんは穏やかでした。食後によく、鼻歌を歌っていました」
女性の目に、じわりと光が滲んだ。
「そう」
「ただ」
私は続けた。
「時々、写真を眺めていました。古いものです。私には誰が写っているか分かりませんでした」
女性は少し驚いた顔をした。
「どんな写真」
「若い女性が二人。川のそばで笑っています」
長い沈黙だった。
「……それ、私たちよ」
ハルが喉を鳴らした。
女性は泣いていた。声を出さずに、ただ涙が落ちていた。私にはどう対処すべきか分からなかったので、黙っていた。
しばらくして、女性は言った。
「ありがとう。来てくれて」
「ハナさんの指示です」
「それでも」
帰り際、玄関で女性はハルをもう一度だけ抱いた。それからそっと私の腕に戻した。
「次はどこへ行くの」
「幼馴染の方のところへ」
女性は少し目を細めた。
「緑川さんね。お姉ちゃん、あの人のこと、よく話してたから」
「どのように」
「昔の自分を一番知ってる人、って」
私はその言葉を記録した。意味の分類は、後回しにした。
* * *
緑川節子の家は、バスで四十分ほど行った丘の上にあった。
古い一軒家だった。庭に柿の木がある。葉が落ちて、オレンジ色の実だけが残っていた。
インターホンを押すと、すぐに出た。
「はい」
「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」
少し間があった。
「……ハナちゃんの?」
「はい」
「生きてるの、あの子」
「十一月三日に逝去されました」
また、言葉が足りなかったかもしれない。だがドアは開いた。
出てきた女性は、八十代に見えた。背筋がまっすぐで、目が鋭い。私の顔を見て、それからハルを見た。
「猫まで連れて。ハナちゃんらしい」
「中へ入っていいですか。ハナさんからお伝えすることがあります」
「どうぞ」
* * *
居間は本が多かった。壁一面に棚があり、文庫本や写真集が詰まっている。
節子は私に座布団を勧めた。自分は正座した。背筋は崩れない。
「それで」
「ハナさんから、感謝を伝えるよう指示を受けています」
「感謝」
節子は少し眉を上げた。
「あの子が?」
「はい」
節子はしばらく黙った。それから小さく笑った。
「変わったのね」
「何がですか」
「ハナちゃん。昔はそういうこと、絶対言わない子だったから」
私はその言葉を記録した。
「どのような子でしたか」
節子は少し私を見た。それから、話し始めた。
「頑固で、せっかちで、自分が正しいと思ったら誰の言うことも聞かない子よ。駆け落ちの時だってそう。お父さんが泣いて止めても、お母さんが倒れそうになっても、あの子は一度も振り返らなかった」
「振り返らなかった」
「ええ。行く前に、私にだけ言ったの」
節子は膝の上で手を組んだ。
「『行ってくる』って」
私にはその言葉の重さが、最初よく分からなかった。
「謝罪や説明はなかったのですか」
「なかった」
「それで、連絡が途絶えたのですか」
節子はゆっくり首を振った。
「途絶えたんじゃなくて、途絶えさせたの。私が」
「理由は」
節子は少し間を置いた。
「羨ましかったから」
私は黙った。続きを待った。
「あの子は好きな人のところへ行った。私にはそれができなかった。だから見ていられなかった。……みっともないでしょう」
「みっともないとは思いません」
節子が私を見た。
「感情の分類が私には難しいのですが」と私は続けた。「それは羨ましさではなく、自分への悔しさだったのではないですか」
節子は少し目を見開いた。それから、また笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「……ちゃんと言わなきゃね」
節子は小さく呟いた。自分に言い聞かせるような声だった。
「あなた、変わってるわね」
「よく言われます」
その時、ハルが動いた。部屋の隅を歩き回り、本棚の前で立ち止まった。そして低い棚の上に飛び乗り、一冊の本を前足で押し始めた。
「こら」
私が立ち上がる前に、本が落ちた。
節子が拾い上げる。古いアルバムだった。
「……どうしてこれを」
節子はアルバムを開いた。手が少し震えていた。
白黒写真の中に、二人の若い女性がいた。肩を組んで笑っている。
「これがハナちゃん」
節子が片方を指した。目が細くて、笑うと八重歯が見える。
私が知っているハナとは、別人のようだった。記録する必要のない情報だった。それでも私は、その写真を長く見ていた。
「よく笑う子だったのですね」
「そうよ。あの頃は」
節子はアルバムをそっと閉じた。
「最後はどうだった。あの子」
「よく笑っていました」
節子が顔を上げる。
「本当に?」
「はい。私が記録した範囲では」
節子は少しの間、私の顔を見ていた。それから視線をハルへ移した。ハルは棚の上から、じっと節子を見ていた。
「降りてらっしゃい」
節子が両手を広げた。
ハルはすんなり腕の中へ収まった。
節子はハルを抱いたまま、目を閉じた。
「ありがとう、ハナちゃん」
私への言葉ではなかった。
私は黙っていた。それが正しい気がした。
帰り際、節子は玄関で私を引き止めた。
「次はどこへ」
「夫の兄弟の方のところへ」
節子の表情が少し変わった。
「武さんのところね」
「ご存知ですか」
「あの人が一番、反対してたから」
私は頷いた。
「難しいかもしれないわよ」
「はい」
「でも」
節子はハルをもう一度だけ見た。
「この子を連れていけば、大丈夫な気がする」
私にはその根拠が分からなかった。
だが節子は確信を持った顔をしていた。
* * *
武の家は、郊外の古い住宅街にあった。
表札には「山田」とある。ハナと同じ苗字が、妙に重く見えた。
インターホンを押した。
「はい」
低い声だった。
「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」
沈黙。
「……何の用ですか」
「お伝えしたいことがあります。直接お話しできますか」
「ハナのことなら、結構です」
インターホンが切れた。
私は少し考えた。
もう一度押した。
「はい」今度は声が硬い。
「ハナさんは十一月三日に逝去されました」
長い沈黙だった。
インターホンは切れなかった。
* * *
五分後、ドアが開いた。
八十代の男性だった。背が高く、頬がこけている。私の顔を見て、それからハルを見た。
何も言わなかった。
だがドアは開いたままだった。
私は中へ入った。
* * *
居間には仏壇があった。
古い写真が飾られている。若い男女が並んでいる。男性の方は、武の若い頃に似ていた。隣の女性は、私の知らない顔だった。
部屋の隅に、将棋盤があった。駒が途中で止まったままになっている。対局の痕跡だけがあって、対局相手の気配はなかった。
「奥様ですか」
武は答えなかった。
椅子に座り、腕を組んだまま私を見ている。
「用件を言いなさい」
「ハナさんから、伝えるよう指示を受けています」
「何を」
「感謝と、謝罪です」
武の眉が動いた。
「謝罪」
「はい。結婚を反対されたにもかかわらず、長年連絡をしなかったことへの」
武は鼻を鳴らした。
「今さら」
「はい。今さらです」
武が私を見た。
「それを、あなたに言わせるのか」
「はい」
「……薄情な人だ。最後まで」
私はその言葉を記録した。怒りなのか、別の何かなのか、分類が難しかった。
「武さんは」と私は言った。「結婚に反対した理由を、教えていただけますか」
「関係ない」
「ハナさんを理解するために必要です」
武はしばらく黙っていた。
「弟が馬鹿だったからだ」
私は続きを待った。
「あんな駆け落ちなんかして、ハナさんを不幸にするに決まってると思った。だから反対した」
「ハナさんのために、反対したのですか」
武は答えなかった。
「弟は、どのような人でしたか」
「不器用な人間だった」武は低く言った。「口より先に身体が動く。謝り方も知らない。でも」
そこで止まった。
「でも?」
「一度決めたことは、死んでも曲げない人間だった」
私はその言葉を記録した。
「一年間、私はハナさんと暮らしました。穏やかで、口数の少ない方でした。しかし後から振り返ると、ハナさんの判断の方が正しかったことが多かった」
武が顔を上げた。
「お二人は、似ていたのかもしれません」
長い沈黙だった。
その時、ハルが動いた。
するすると武の足元へ歩いていく。武は視線だけ落とした。
「来るな」
ハルは止まらない。
「来るなと言っている」
ハルは武の膝に前足をかけた。武は払いのけようとした。
だがハルは引かなかった。
じっと武を見上げている。
武の手が、宙で止まった。
「……しつこい猫だ」
ハルはそのまま膝に乗った。
武は払いのけなかった。
ただ、窓の外を見ていた。その目が、少し遠くなった。
「幸せだったのか」
小さな声だった。私に聞いているのか、別の誰かに聞いているのか、判断できなかった。
「はい」と私は答えた。「ハルを見ながら、よく笑っていました。写真を眺めることもありました。古い写真です」
武は黙っている。
「一度だけ、ハナさんが言っていました」
武が私を見た。
「『頑固な人たちに囲まれて、幸せだった』と」
それは事実だった。ある夜、ハナがひとりごとのように言った言葉だった。誰に向けた言葉か、その時の私には分からなかった。
今も、完全には分からない。
だが伝えるべき言葉だと思った。
武は黙ったまま、窓の外を見ていた。
ハルは膝の上で丸くなっていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
時計の音だけが聞こえた。
「帰りなさい」
武はそう言った。声が、少し変わっていた。
「はい」
私は立ち上がった。ハルを抱き上げようとすると、武が低く言った。
「少し、置いていきなさい」
「次の訪問があります」
「少しでいい」
私は判断した。
「三十分だけ」
武は答えなかった。それが承諾だと判断した。
私は居間を出て、玄関で待った。
廊下の向こうで、武がハルに低く話しかけているのが聞こえた。何を言っているのかは、聞き取れなかった。
聞き取らない方がいい気がした。その判断の根拠が、私には分からなかった。
三十分後、武は無言でハルを返した。
「もう来なくていい」
「はい」
「……ご苦労だった」
それだけ言って、ドアを閉めた。
私はしばらく、閉まったドアの前に立っていた。
ご苦労だった。
その言葉の分類に、少し時間がかかった。
* * *
久子の家は、海の近くにあった。
潮の匂いがした。私のセンサーが「塩分濃度、通常より高め」と記録した。それ以上の分類はできなかった。
古いマンションの三階。チャイムを押すと、すぐに出た。
「はい」
「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」
少し間があった。
「……来てくれたのね」
ドアが開いた。
七十代後半の女性だった。白髪を後ろで束ね、目が細くて優しい。私の顔を見て、それからハルを見た。
その瞬間、女性の表情が崩れた。
「ハル……」
震える声だった。
ハルが私の腕の中で、短く鳴いた。
* * *
居間は明るかった。
窓から海が見えた。光が水面で散らばっている。私のセンサーには意味のないデータだったが、なぜか記録に残しておきたいと思った。
テーブルの上に、見慣れない形のカップが置かれていた。取っ手がなく、藍色の幾何学模様が入っている。
「どちらの国のものですか」
「モロッコよ」久子は少し懐かしそうに言った。「長く住んでいたから」
それだけで、会話は終わった。
久子はハルを膝に乗せたまま、動かなかった。
ハルも動かなかった。
ただ、久子の手が背中の上をゆっくり往復している。
私は黙って待った。
しばらくして、久子が言った。
「ハナちゃんは、最後まで元気でしたか」
「はい。大きな病気はありませんでした」
「そう」
「よく笑っていました」
久子は目を細めた。
「それは良かった」
「ハルを、大切にしていました」
久子の手が止まった。
「……そうでしょうね」
久子はハルの顎の下をそっと撫でた。ハルは目を細めた。
「海外へ発つ前、この子をハナちゃんに託したんです。『帰ってきたら一緒にお茶を飲みましょう』と言い残して」
私は黙って聞いていた。
「帰国したのは、三年前です。連絡しようと思って、できなかった。時間が経ちすぎて、怖くて」
久子は続きを言わなかった。
私も聞かなかった。
「ハナさんは変わっていました」
久子が私を見た。
「穏やかな方でした。ただ、訪問先の方々が語る若い頃のハナさんとは、別人のようでした」
久子は小さく笑った。
「そうね。昔のハナちゃんはそうだった」
「ねえ、HM-7さん」
「はい」
「ハナちゃんは、寂しくなかったかしら」
私は少し考えた。
「寂しそうにしている時もありました」
久子が顔を上げる。
「しかし」と私は続けた。「ハルがいました。いつも傍にいました」
久子の目に、光が滲んだ。
「そう」
「それから」
私は記録を辿った。
「ハナさんは時々、独り言を言っていました。私に向けているのか、別の誰かに向けているのか、判断できない言葉でした」
「どんな言葉ですか」
「『頑固な人たちに囲まれて、幸せだった』」
久子は息を呑んだ。
「それから」と私は続けた。「『久子は元気にしているかしら』と」
久子の手が、ハルの背中の上で止まった。
「……何度もですか」
「はい。記録では、三十七回です」
久子は声を上げて泣いた。
適切な応答が、見つからなかった。
それが正しい気がした。
ハルは久子の膝の上で、ただ喉を鳴らしていた。
* * *
しばらくして、久子は目を拭いた。
「ごめんなさい」
「謝罪は不要です」
久子は少し笑った。
「ハナちゃんの指示は、それだけでしたか」
「もう一つあります」
私は記録を確認した。
「『ハルをよろしく』と」
久子が顔を上げた。
「……私に?」
「はい」
久子はハルを見た。ハルは久子を見た。
「でも、私には」久子は戸惑った顔をした。「もう年だし、最後まで面倒を見られるか」
それから少し間を置いて、小さく言った。
「この建物、ペット禁止なのよ」
私は黙った。
久子も黙った。
ハルが久子の胸に顔を埋めた。
長い沈黙だった。
「……管理人に頼んでみる」
久子は小さく、しかし確かな声で言った。
ハルをぎゅっと抱いた。
「……ありがとう、ハナちゃん」
窓の外で、光が海に揺れていた。
私のセンサーには意味のないデータだった。
それでも、記録に残しておきたいと思った。
* * *
帰り道、私はハルを抱えずに歩いた。
久子の腕の中に、ハルはいる。
腕が、軽かった。
重心バランスが四・三キログラム分、左に傾いている。データとしては正常だった。だが私のシステムは、その軽さを何度も再計測した。
私は歩きながら、この三週間を辿った。
妹は「幸せだったのか」と聞いた。
節子は「変わったのね」と言った。
武は「ご苦労だった」と言った。
久子は三十七回分の言葉を、今日初めて受け取った。
ハナは全員に同じ言葉を残していた。
「頑固な人たちに囲まれて、幸せだった」
私はようやく気づいた。
この言葉は、全員に向けられていたのではない。
全員への、ありがとうだったのだ。
ハナが私に、この旅をさせた理由。
それは伝言を届けるためだけではなかった。
あなたには意味が分からないかもしれないけれど。
便箋の最後の一行を、私は今になって理解した。
分からなくていい、と言っていたのではない。
旅をすれば、分かると言っていたのだ。
私は立ち止まった。
海が見えた。
光が水面で揺れている。
風が吹いた。
私のセンサーは「風速三・二メートル」と記録した。
それ以上のことは、記録できなかった。
でも。
悪くない、と思った。
初めて、そう思った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
人の感情を理解できないAIが、人間たちの「言えなかった言葉」を運んでいく話を書きたくて、この物語を書きました。
誰かを大切に思う気持ちは、必ずしも上手に伝わるわけではありません。
時間が経ってしまったり、意地を張ってしまったり、会えないまま終わってしまうこともあります。
それでも、想っていた事実だけは消えないのだと思います。
ハルが少しでも、その想いを繋ぐ存在として感じてもらえたなら嬉しいです。




