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【短編012】 遺言の旅:最後の願いは、ありがとうを届けること

作者: macchao
掲載日:2026/05/28

感情を理解できないAIが、亡くなった女性の遺言に従い、一匹の猫とともに人々を訪ね歩く物語です。


大きな事件はありません。

あるのは、別れのあとに残された言葉と、長い時間の中で変わってしまった人間関係、そして「誰かを想っていた記憶」です。


静かな話ですが、少しでも心に残れば嬉しいです。

 山田ハナが逝ったのは、十一月の朝だった。


 私はその瞬間を、バイタルセンサーの数値で把握した。心拍停止、午前六時十七分。すぐに救急へ連絡し、担当ケアマネージャーへ報告し、息子へ通知した。やるべきことを、やるべき順番で処理した。


 ハルだけが、違った。


 いつもは朝食の時間になると台所へ来る灰色の猫が、その日はハナの布団の上から動かなかった。呼んでも来ない。名前を告げても耳を伏せるだけだった。


 私には、その理由が分類できなかった。


 ハナは一度だけ、こう言ったことがある。


「あなたって、冗談が通じないのね」


 私は冗談の定義と、その社会的機能について説明しようとした。


 ハナは最後まで聞かずに笑った。


 なぜ笑ったのか、分からなかった。


 遺品整理が一段落した夜、息子の健一から封筒を渡された。


「母から、あなたへだそうです」


 便箋は二枚。几帳面な字で、びっしり埋まっていた。ハナらしくない、と思った。私が知っている彼女の言葉は、もっと短かった。


 ――会いに行ってほしい人たちがいます。ハルを連れて。

 きっとあの子が、私の代わりに伝えてくれます。

 あなたには意味が分からないかもしれないけれど。


 最後の一行が、私には引っかかった。


 意味が分からない、とはどういうことか。指示は明確だ。住所と名前のリストも添えられている。順番まで指定されている。私は指示通りに動けばいい。


 ハルを見た。


 ハルは私を見た。


 翌朝、私はハルを抱えてアパートを出た。ハルは道中ずっと、私の腕の中で不満そうに鳴いていた。


* * *


 最初の住所は、電車で三十分ほどの住宅街だった。


 表札には「山田」とある。旧姓のままだった。


 インターホンを押す。しばらく間があって、七十代とおぼしき女性が出てきた。白髪を短く切り、エプロンをつけている。


「どちら様ですか」


「山田ハナさんのご依頼で参りました。私はHM-7と申します」


 女性の顔が、一瞬で固まった。


「……お姉ちゃんの」


「はい。十一月三日に逝去されました」


 言葉が足りなかったかもしれない、と後から思った。だがその時の私には、他にどう言えばいいか分からなかった。


 女性は黙ったまま、私の腕の中のハルを見た。


「その猫……」


「ハルです。ハナさんが飼っていました」


 ハルはその時、珍しくおとなしかった。女性をじっと見ている。


「……上がりますか」


 断る理由がなかったので、上がった。


* * *


 居間のテーブルに向かい合って座った。女性は麦茶を二つ持ってきた。私の前にも置いた。私が飲まないことには気づかなかったようだった。


「妹さんですね」


「……ええ」


「ハナさんから、会いに行くよう指示を受けました」


 女性は麦茶のコップを両手で包んだまま、何も言わない。


「何か伝言があればお伝えします」


「伝言」


 女性は小さく繰り返した。


「あの人らしいわね。最後まで」


 私にはその意味が分からなかったが、確認する前にハルが動いた。膝の上から飛び降り、するすると女性の足元へ歩いていく。そして、そのまま膝に飛び乗った。


 女性が息を呑む。


「……この子、人見知りしないの?」


「基本的にはします」


 それは事実だった。ハルがここまで素直に他人へ近づいたのを、私は見たことがなかった。


 女性はしばらくハルの背を撫でていた。それから、ぽつりと言った。


「幸せだったのかしら。お姉ちゃん」


 私は答えを持っていた。


「はい」


 女性が顔を上げる。


「バイタルデータ、睡眠の質、日々の発話内容。私が記録した一年間の範囲では、ハナさんは穏やかでした。食後によく、鼻歌を歌っていました」


 女性の目に、じわりと光が滲んだ。


「そう」


「ただ」


 私は続けた。


「時々、写真を眺めていました。古いものです。私には誰が写っているか分かりませんでした」


 女性は少し驚いた顔をした。


「どんな写真」


「若い女性が二人。川のそばで笑っています」


 長い沈黙だった。


「……それ、私たちよ」


 ハルが喉を鳴らした。


 女性は泣いていた。声を出さずに、ただ涙が落ちていた。私にはどう対処すべきか分からなかったので、黙っていた。


 しばらくして、女性は言った。


「ありがとう。来てくれて」


「ハナさんの指示です」


「それでも」


 帰り際、玄関で女性はハルをもう一度だけ抱いた。それからそっと私の腕に戻した。


「次はどこへ行くの」


「幼馴染の方のところへ」


 女性は少し目を細めた。


「緑川さんね。お姉ちゃん、あの人のこと、よく話してたから」


「どのように」


「昔の自分を一番知ってる人、って」


 私はその言葉を記録した。意味の分類は、後回しにした。


* * *


 緑川節子の家は、バスで四十分ほど行った丘の上にあった。


 古い一軒家だった。庭に柿の木がある。葉が落ちて、オレンジ色の実だけが残っていた。


 インターホンを押すと、すぐに出た。


「はい」


「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」


 少し間があった。


「……ハナちゃんの?」


「はい」


「生きてるの、あの子」


「十一月三日に逝去されました」


 また、言葉が足りなかったかもしれない。だがドアは開いた。


 出てきた女性は、八十代に見えた。背筋がまっすぐで、目が鋭い。私の顔を見て、それからハルを見た。


「猫まで連れて。ハナちゃんらしい」


「中へ入っていいですか。ハナさんからお伝えすることがあります」


「どうぞ」


* * *


 居間は本が多かった。壁一面に棚があり、文庫本や写真集が詰まっている。


 節子は私に座布団を勧めた。自分は正座した。背筋は崩れない。


「それで」


「ハナさんから、感謝を伝えるよう指示を受けています」


「感謝」


 節子は少し眉を上げた。


「あの子が?」


「はい」


 節子はしばらく黙った。それから小さく笑った。


「変わったのね」


「何がですか」


「ハナちゃん。昔はそういうこと、絶対言わない子だったから」


 私はその言葉を記録した。


「どのような子でしたか」


 節子は少し私を見た。それから、話し始めた。


「頑固で、せっかちで、自分が正しいと思ったら誰の言うことも聞かない子よ。駆け落ちの時だってそう。お父さんが泣いて止めても、お母さんが倒れそうになっても、あの子は一度も振り返らなかった」


「振り返らなかった」


「ええ。行く前に、私にだけ言ったの」


 節子は膝の上で手を組んだ。


「『行ってくる』って」


 私にはその言葉の重さが、最初よく分からなかった。


「謝罪や説明はなかったのですか」


「なかった」


「それで、連絡が途絶えたのですか」


 節子はゆっくり首を振った。


「途絶えたんじゃなくて、途絶えさせたの。私が」


「理由は」


 節子は少し間を置いた。


「羨ましかったから」


 私は黙った。続きを待った。


「あの子は好きな人のところへ行った。私にはそれができなかった。だから見ていられなかった。……みっともないでしょう」


「みっともないとは思いません」


 節子が私を見た。


「感情の分類が私には難しいのですが」と私は続けた。「それは羨ましさではなく、自分への悔しさだったのではないですか」


 節子は少し目を見開いた。それから、また笑った。今度は少し違う笑い方だった。


「……ちゃんと言わなきゃね」


 節子は小さく呟いた。自分に言い聞かせるような声だった。


「あなた、変わってるわね」


「よく言われます」


 その時、ハルが動いた。部屋の隅を歩き回り、本棚の前で立ち止まった。そして低い棚の上に飛び乗り、一冊の本を前足で押し始めた。


「こら」


 私が立ち上がる前に、本が落ちた。


 節子が拾い上げる。古いアルバムだった。


「……どうしてこれを」


 節子はアルバムを開いた。手が少し震えていた。


 白黒写真の中に、二人の若い女性がいた。肩を組んで笑っている。


「これがハナちゃん」


 節子が片方を指した。目が細くて、笑うと八重歯が見える。


 私が知っているハナとは、別人のようだった。記録する必要のない情報だった。それでも私は、その写真を長く見ていた。


「よく笑う子だったのですね」


「そうよ。あの頃は」


 節子はアルバムをそっと閉じた。


「最後はどうだった。あの子」


「よく笑っていました」


 節子が顔を上げる。


「本当に?」


「はい。私が記録した範囲では」


 節子は少しの間、私の顔を見ていた。それから視線をハルへ移した。ハルは棚の上から、じっと節子を見ていた。


「降りてらっしゃい」


 節子が両手を広げた。


 ハルはすんなり腕の中へ収まった。


 節子はハルを抱いたまま、目を閉じた。


「ありがとう、ハナちゃん」


 私への言葉ではなかった。


 私は黙っていた。それが正しい気がした。


 帰り際、節子は玄関で私を引き止めた。


「次はどこへ」


「夫の兄弟の方のところへ」


 節子の表情が少し変わった。


「武さんのところね」


「ご存知ですか」


「あの人が一番、反対してたから」


 私は頷いた。


「難しいかもしれないわよ」


「はい」


「でも」


 節子はハルをもう一度だけ見た。


「この子を連れていけば、大丈夫な気がする」


 私にはその根拠が分からなかった。


 だが節子は確信を持った顔をしていた。


* * *


 武の家は、郊外の古い住宅街にあった。


 表札には「山田」とある。ハナと同じ苗字が、妙に重く見えた。


 インターホンを押した。


「はい」


 低い声だった。


「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」


 沈黙。


「……何の用ですか」


「お伝えしたいことがあります。直接お話しできますか」


「ハナのことなら、結構です」


 インターホンが切れた。


 私は少し考えた。


 もう一度押した。


「はい」今度は声が硬い。


「ハナさんは十一月三日に逝去されました」


 長い沈黙だった。


 インターホンは切れなかった。


* * *


 五分後、ドアが開いた。


 八十代の男性だった。背が高く、頬がこけている。私の顔を見て、それからハルを見た。


 何も言わなかった。


 だがドアは開いたままだった。


 私は中へ入った。


* * *


 居間には仏壇があった。


 古い写真が飾られている。若い男女が並んでいる。男性の方は、武の若い頃に似ていた。隣の女性は、私の知らない顔だった。


 部屋の隅に、将棋盤があった。駒が途中で止まったままになっている。対局の痕跡だけがあって、対局相手の気配はなかった。


「奥様ですか」


 武は答えなかった。


 椅子に座り、腕を組んだまま私を見ている。


「用件を言いなさい」


「ハナさんから、伝えるよう指示を受けています」


「何を」


「感謝と、謝罪です」


 武の眉が動いた。


「謝罪」


「はい。結婚を反対されたにもかかわらず、長年連絡をしなかったことへの」


 武は鼻を鳴らした。


「今さら」


「はい。今さらです」


 武が私を見た。


「それを、あなたに言わせるのか」


「はい」


「……薄情な人だ。最後まで」


 私はその言葉を記録した。怒りなのか、別の何かなのか、分類が難しかった。


「武さんは」と私は言った。「結婚に反対した理由を、教えていただけますか」


「関係ない」


「ハナさんを理解するために必要です」


 武はしばらく黙っていた。


「弟が馬鹿だったからだ」


 私は続きを待った。


「あんな駆け落ちなんかして、ハナさんを不幸にするに決まってると思った。だから反対した」


「ハナさんのために、反対したのですか」


 武は答えなかった。


「弟は、どのような人でしたか」


「不器用な人間だった」武は低く言った。「口より先に身体が動く。謝り方も知らない。でも」


 そこで止まった。


「でも?」


「一度決めたことは、死んでも曲げない人間だった」


 私はその言葉を記録した。


「一年間、私はハナさんと暮らしました。穏やかで、口数の少ない方でした。しかし後から振り返ると、ハナさんの判断の方が正しかったことが多かった」


 武が顔を上げた。


「お二人は、似ていたのかもしれません」


 長い沈黙だった。


 その時、ハルが動いた。


 するすると武の足元へ歩いていく。武は視線だけ落とした。


「来るな」


 ハルは止まらない。


「来るなと言っている」


 ハルは武の膝に前足をかけた。武は払いのけようとした。


 だがハルは引かなかった。


 じっと武を見上げている。


 武の手が、宙で止まった。


「……しつこい猫だ」


 ハルはそのまま膝に乗った。


 武は払いのけなかった。


 ただ、窓の外を見ていた。その目が、少し遠くなった。


「幸せだったのか」


 小さな声だった。私に聞いているのか、別の誰かに聞いているのか、判断できなかった。


「はい」と私は答えた。「ハルを見ながら、よく笑っていました。写真を眺めることもありました。古い写真です」


 武は黙っている。


「一度だけ、ハナさんが言っていました」


 武が私を見た。


「『頑固な人たちに囲まれて、幸せだった』と」


 それは事実だった。ある夜、ハナがひとりごとのように言った言葉だった。誰に向けた言葉か、その時の私には分からなかった。


 今も、完全には分からない。


 だが伝えるべき言葉だと思った。


 武は黙ったまま、窓の外を見ていた。


 ハルは膝の上で丸くなっていた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 時計の音だけが聞こえた。


「帰りなさい」


 武はそう言った。声が、少し変わっていた。


「はい」


 私は立ち上がった。ハルを抱き上げようとすると、武が低く言った。


「少し、置いていきなさい」


「次の訪問があります」


「少しでいい」


 私は判断した。


「三十分だけ」


 武は答えなかった。それが承諾だと判断した。


 私は居間を出て、玄関で待った。


 廊下の向こうで、武がハルに低く話しかけているのが聞こえた。何を言っているのかは、聞き取れなかった。


 聞き取らない方がいい気がした。その判断の根拠が、私には分からなかった。


 三十分後、武は無言でハルを返した。


「もう来なくていい」


「はい」


「……ご苦労だった」


 それだけ言って、ドアを閉めた。


 私はしばらく、閉まったドアの前に立っていた。


 ご苦労だった。


 その言葉の分類に、少し時間がかかった。


* * *


 久子の家は、海の近くにあった。


 潮の匂いがした。私のセンサーが「塩分濃度、通常より高め」と記録した。それ以上の分類はできなかった。


 古いマンションの三階。チャイムを押すと、すぐに出た。


「はい」


「山田ハナさんのご依頼で参りました。HM-7と申します」


 少し間があった。


「……来てくれたのね」


 ドアが開いた。


 七十代後半の女性だった。白髪を後ろで束ね、目が細くて優しい。私の顔を見て、それからハルを見た。


 その瞬間、女性の表情が崩れた。


「ハル……」


 震える声だった。


 ハルが私の腕の中で、短く鳴いた。


* * *


 居間は明るかった。


 窓から海が見えた。光が水面で散らばっている。私のセンサーには意味のないデータだったが、なぜか記録に残しておきたいと思った。


 テーブルの上に、見慣れない形のカップが置かれていた。取っ手がなく、藍色の幾何学模様が入っている。


「どちらの国のものですか」


「モロッコよ」久子は少し懐かしそうに言った。「長く住んでいたから」


 それだけで、会話は終わった。


 久子はハルを膝に乗せたまま、動かなかった。


 ハルも動かなかった。


 ただ、久子の手が背中の上をゆっくり往復している。


 私は黙って待った。


 しばらくして、久子が言った。


「ハナちゃんは、最後まで元気でしたか」


「はい。大きな病気はありませんでした」


「そう」


「よく笑っていました」


 久子は目を細めた。


「それは良かった」


「ハルを、大切にしていました」


 久子の手が止まった。


「……そうでしょうね」


 久子はハルの顎の下をそっと撫でた。ハルは目を細めた。


「海外へ発つ前、この子をハナちゃんに託したんです。『帰ってきたら一緒にお茶を飲みましょう』と言い残して」


 私は黙って聞いていた。


「帰国したのは、三年前です。連絡しようと思って、できなかった。時間が経ちすぎて、怖くて」


 久子は続きを言わなかった。


 私も聞かなかった。


「ハナさんは変わっていました」


 久子が私を見た。


「穏やかな方でした。ただ、訪問先の方々が語る若い頃のハナさんとは、別人のようでした」


 久子は小さく笑った。


「そうね。昔のハナちゃんはそうだった」


「ねえ、HM-7さん」


「はい」


「ハナちゃんは、寂しくなかったかしら」


 私は少し考えた。


「寂しそうにしている時もありました」


 久子が顔を上げる。


「しかし」と私は続けた。「ハルがいました。いつも傍にいました」


 久子の目に、光が滲んだ。


「そう」


「それから」


 私は記録を辿った。


「ハナさんは時々、独り言を言っていました。私に向けているのか、別の誰かに向けているのか、判断できない言葉でした」


「どんな言葉ですか」


「『頑固な人たちに囲まれて、幸せだった』」


 久子は息を呑んだ。


「それから」と私は続けた。「『久子は元気にしているかしら』と」


 久子の手が、ハルの背中の上で止まった。


「……何度もですか」


「はい。記録では、三十七回です」


 久子は声を上げて泣いた。


 適切な応答が、見つからなかった。


 それが正しい気がした。


 ハルは久子の膝の上で、ただ喉を鳴らしていた。


* * *


 しばらくして、久子は目を拭いた。


「ごめんなさい」


「謝罪は不要です」


 久子は少し笑った。


「ハナちゃんの指示は、それだけでしたか」


「もう一つあります」


 私は記録を確認した。


「『ハルをよろしく』と」


 久子が顔を上げた。


「……私に?」


「はい」


 久子はハルを見た。ハルは久子を見た。


「でも、私には」久子は戸惑った顔をした。「もう年だし、最後まで面倒を見られるか」


 それから少し間を置いて、小さく言った。


「この建物、ペット禁止なのよ」


 私は黙った。


 久子も黙った。


 ハルが久子の胸に顔を埋めた。


 長い沈黙だった。


「……管理人に頼んでみる」


 久子は小さく、しかし確かな声で言った。


 ハルをぎゅっと抱いた。


「……ありがとう、ハナちゃん」


 窓の外で、光が海に揺れていた。


 私のセンサーには意味のないデータだった。


 それでも、記録に残しておきたいと思った。


* * *


 帰り道、私はハルを抱えずに歩いた。


 久子の腕の中に、ハルはいる。


 腕が、軽かった。


 重心バランスが四・三キログラム分、左に傾いている。データとしては正常だった。だが私のシステムは、その軽さを何度も再計測した。


 私は歩きながら、この三週間を辿った。


 妹は「幸せだったのか」と聞いた。

 節子は「変わったのね」と言った。

 武は「ご苦労だった」と言った。

 久子は三十七回分の言葉を、今日初めて受け取った。


 ハナは全員に同じ言葉を残していた。


 「頑固な人たちに囲まれて、幸せだった」


 私はようやく気づいた。


 この言葉は、全員に向けられていたのではない。


 全員への、ありがとうだったのだ。


 ハナが私に、この旅をさせた理由。


 それは伝言を届けるためだけではなかった。


 あなたには意味が分からないかもしれないけれど。


 便箋の最後の一行を、私は今になって理解した。


 分からなくていい、と言っていたのではない。


 旅をすれば、分かると言っていたのだ。


 私は立ち止まった。


 海が見えた。


 光が水面で揺れている。


 風が吹いた。


 私のセンサーは「風速三・二メートル」と記録した。


 それ以上のことは、記録できなかった。


 でも。


 悪くない、と思った。


 初めて、そう思った。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


人の感情を理解できないAIが、人間たちの「言えなかった言葉」を運んでいく話を書きたくて、この物語を書きました。


誰かを大切に思う気持ちは、必ずしも上手に伝わるわけではありません。

時間が経ってしまったり、意地を張ってしまったり、会えないまま終わってしまうこともあります。


それでも、想っていた事実だけは消えないのだと思います。


ハルが少しでも、その想いを繋ぐ存在として感じてもらえたなら嬉しいです。

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