結核病棟の人々
JR××駅から南へまっすぐ延びた道路を一キロほど行った海岸近くに××病院の分院がある。現在は総合病院として地元民の健康を守っているが、もともとは××研究所・××病院の結核療養所として設立されたものである。一九八〇年代にはまだ結核は法定伝染病だったし、××病院にも病院の建物とは別棟の結核病棟があった。他の病気の患者から隔離した閉鎖病棟で、自由に出入りすることが禁じられていた。
一九八三年の一月、二十五歳になった茅崎は、勤めていた小学校の金をわずかばかり、軽い気持ちでちょろまかしたことがバレて懲戒免職になった。教育委員会はそれ以上追い詰めようとはしなかったが、もう行くところがなかった。盗みの前歴がある茅崎を採用する学校があるとは思えないし、幼い子供の教育のことばかり考えてきた茅崎には、いまさら他の仕事ができるとは思えなかった。これ以上生きていても希望がなかった。子どもの頃、父に「こいつはろくな人間にはならねえ」と罵られて反発したことを思い出したが、この歳になって父の言葉に納得できるような気がした。ただただ思い詰めて、左の手首に刃物を添えてそのまま引こうと思った。そう思ったのだが、引くんだ、引くんだと考えれば考えるほど身体がブルブルと小刻みに震え出して止まらなかった。頭を冷やそうと、凍り付くような冷たい雨に濡れながら、冬の暗い街を一晩中歩いた。翌朝発熱して訪れた××病院の分院で痰を顕微鏡検査すると結核菌が見つかった。病院によると、結核菌を培養して、それが生きている菌なのかどうか調べる必要があるという。培養には三か月かかり、その間結核病棟に入院しなくてはならなかった。「検査入院」というようなことだと思ったが、そういう説明はなく、ただ「入院」とだけ言われた。培養の結果、結核菌は増殖しなかったからすぐに退院することができた。
わずか三か月の入院生活だったが、この短い入院生活は、茅崎にとって忘れられないものになった。トーマス・マンに「魔の山」という小説がある。結核療養所を舞台としたもので、人里離れた山奥の療養所には浮世離れした変人たちが集まっており、世間常識からかけ離れた奇妙な事件が次々と起きた。意味は違うけれど、茅崎も、ここに入院しなければ出会うことがなかっただろう個性的な人々と出会った。
結核病棟は男女それぞれ一つの病室があるに過ぎなかった。男性用の病室には八つのベッドが並べられていたが、茅崎は五番目の患者だった。茅崎が入院しても、まだ半数近くのベッドが空いていた。
入院患者のうち剣ヶ岳は筋肉質で、がっしりした体格の五十歳くらいの男だった。袖口からは刺青が覗いていた。
茅崎が一人きりで落ち込んでいると、剣ヶ岳はさりげなく茅崎のそばに寄って来て隣に座っていた。なにを話すわけでもなく、ただ黙って座っているのだった。なにを落ち込んでいるのか、なにを考えているのか、質問もしなかった。暗く険しい顔をした茅崎に寄り添うように、そっと、剣ヶ岳はそばに座っていた。
剣ヶ岳はいつも週刊誌を読んでいた。横から覗き込むと暴力団の記事ばかり掲載されていた。雑誌名は聞いたこともないものだった。
ある日、剣ヶ岳は茅崎に週刊誌の記事を示して、「これはお前の知り合いだろう?」と言った。どうして彼がそのようなことを知っているのか分からなかったが、そこには小学校から中学校まで一緒だった同級生で、暴力団組長の息子の名前が載っていて、「全国指名手配」と書いてあった。剣ヶ岳によると、その同級生の左右の手にはもう小指がないという話だった。
こんな週刊誌を愛読している剣ヶ岳のことが気にかかった。しかし、暗い顔で考え込んでいる茅崎に声を掛けることもなく、ただ寄り添って座っている剣ヶ岳に訊くこともできなかった。
ある日、昼食を食べ終えると、彼はすぐに着替えて外出して行った。結核患者が自由に外出できるはずはない。それなのに彼は平然と外出して行った。
肺結核はもう不治の病ではない。病院は見て見ぬ振りをしていたが、夕飯の時刻までに帰らなければ表沙汰にせざるを得ない。病院だけで済む話ではなかった。病院の責任問題にもなるだろうし、法定伝染病の感染者が病院の回りを自由に歩き回っているといって周辺の住民も騒ぐかも知れない。夕飯にもう少しという時刻に剣ヶ岳は血を吐きながら帰ってきた。競艇に行ってきたのだという。近くの町に競艇場はないから、どこか遠くの競艇場まで行ったのだろう。そこで、血を吐いた。
救急車を呼ぶのが普通なのだが、それでは入院している病院に迷惑が掛かる。口の血をティッシュで拭いて隠し、駅までは電車に乗り、駅からはタクシーに乗って帰ってきたのだと言う。「夕飯に間に合って良かった」と顔を不気味に歪めてニッコリと微笑んだ。
二人目の入院患者は黒岩という名前の八十歳くらいの老人で、肺結核の他に糖尿病を患っており、糖尿病は進行していたから杖を突かなければ歩くこともできなかった。
午後になると、黒岩のところには腰の曲がった奥さんがやって来た。夕方六時近く、面会時間が終わるまで二人で何か話し込み、それから帰って行った。毎日のことで雨や風の日も欠かすことがなかった。
茅崎は別段気にならなかったのだが、毎日奥さんが来ていることに本人が気になったのだろう。ある日黒岩は身の上話を始めた。
黒岩は孤児院の前に捨てられていた捨て子だった。戦前の生まれなのだが、誕生日も年齢も分かっていない。
黒岩は孤児院で育った。戦前の孤児院は、尋常小学校を卒業する十二歳までしかいられない。十二歳を過ぎ、尋常小学校を卒業すると、孤児院を追い出されて、丁稚奉公に出された。
丁稚は彼のように孤児院から来た者ばかりではない。ほかにも何人かの丁稚がいたが、他の丁稚は盆暮には家に帰ることができる。幾許かの給金をもらって、嬉しそうに嬉々として両親のもとに帰っていった。
しかし、黒岩には帰る家がない。たとえ孤児院に帰ったとしても、孤児院に彼を泊めるスペースはないのである。ほかの丁稚がいなくなった奉公先に、友達もないまま、彼一人が取り残された。彼は「盆暮が嫌いだった」と言った。
やがて、同じような境遇で、同じ孤児院出身の奥さんと結婚した。子供はできなかった。だから、今でも家族は二人だけで、親戚というものがない。その妻と助け合って、長い人生を生きてきた。
八十歳を過ぎてから糖尿病になり、肺結核を患ってここに入院した。しかし、二人だけで生きてきて、親類はおろか頼れる人もいない。思い出話をする相手もいない。そこで、妻は、午前中に家事を済ませて、午後になると、思い出話をするために病院に来る。面会時間が終るギリギリまでベッドの脇に腰かけて思い出話にふけるのである。
しかし、黒岩は肺結核の上に糖尿病を患っている。糖尿病は糖分や脂肪を摂ってはいけない病気だが、逆に肺結核はたくさん栄養を摂って体力をつけなければいけない。そのために、糖尿病が少し改善したら栄養を摂って肺結核を治療し、肺結核が少し改善したら栄養を控えて糖尿病を治療する。しかし、八十歳を過ぎており、糖尿病はもう足に来ているから、自分は退院することがなく、おそらく、この病院の中で死ぬだろう。しかし、そうやって自分が死んでしまうと、妻はまったくの天涯孤独で、話し相手さえいなくなってしまう。
彼はそう言って肩を落とした。
黒岩の話を聞いていた北里が、自分も人並み以上に苦労してきたのだ、と言って身の上話を始めた。六十歳を少し超えて、背中が少し丸まった小柄な男だった。
北里は、戦前、東北の農家の末っ子に生まれた。
戦前の日本は、長子相続だから、親の遺産はすべて長男が相続する。というより、戦前は「家」が大事なのであって、この「家」を長男が継ぐのが原則だったのである。
長男以外の男子は、家を出て独立するか、他の家の養子となるしか方法がなかった。
そうでなければ、家を継いだ長男の使用人として一生を過ごすことになる。しかし、使用人を食わせることのできる農家はほんのわずかで、ほとんどの場合、邪魔者扱いされながら、奴隷のような生活に甘んじるしかないのだった。
そのため、十代の後半になると、長男以外の男子は自分の行先を決める必要に迫られた。まさか長男の使用人として邪魔者扱いされながら一生を過ごすわけにはいかないから、養子先がなければ独立するしか方法がなかった。とにかく東京や大阪などの都会に出て、そこで仕事を探すほかにないのである。
そんなとき、陸軍が満州開拓団を募集している、という話が伝わってきた。満州は広く、その開拓団に加わると、耕す畑をもらうことができる。借りるのではないし、他人の使用人として耕すのでもない。畑が自分のものになるのである。貧しい農家の末っ子である自分が土地持ちになれるのである。
もちろん、ためらいもあった。満州がどのようなところかも分からないし、陸軍の説明がどこまで本当なのかという点も分からない。それでも、一旦開拓団に加入すればもう元には戻れないのである。
そこで、同じ村の同じような境遇の友人たちと相談し、仲間を募って開拓団に応募することにした。仲間がいればこころ強かった。
連れていかれた満州は寒かった。満州は北海道より緯度が高いのである。
同じ村から参加した仲間はひとまとまりにされて、そのひとまとまりの仲間たちに土地が与えられた。しかし、その土地は「畑」などというものではなく、背丈まであるような草が生い茂り、巨木が生えた密林だった。寒さで凍り付いた密林から木を引き抜き、草をむしり、痩せた土地を耕さなければ畑にならない。畑にならなければ食べるものさえ手にはいらないのだった。
開拓団の中には充分耕された畑を与えられた村もあった。最初のうち、そういう村を羨ましいと思った。しかし、その畑は陸軍が元の持ち主の中国人からむりやり取り上げたものだった。現地人の恨みを買っても畑を与えられたことが幸福なのかどうか、判断がつかなかった。
密林から木と草とを除去して、畑らしいものにするまでに何年もかかった。
これから作物を育てようというときにソ連が参戦した。気が付くと、威張っていた陸軍の人間はもうだれもいなくなっていた。
身一つで逃げてきた。日本につくまで一年以上の時間が必要だった。長い時間を掛けて帰ってくると、開拓団に参加した仲間のうち故郷の村に帰ってきたのは北里が初めてだと分かった。
北里は家を継いだ長兄の手伝いをしながら、開拓団に参加した仲間の帰りを待った。時間が経てば開拓団に参加した仲間も帰ってくるに違いないと期待した。しかし、誰も帰って来なかった。一年経っても二年経っても誰も帰ってこなかった。
北里は村の中で白い目で見られた。なぜ、あいつだけが帰ってきたのだろう? どうやって帰ってこられたのだろう? あいつは、他の仲間をどうしてしまったのだろう?
同じような目で見られている娘が隣村にいた。ある日、二人は村を逃げ出して東京にやってきた。
東京での生活も楽ではなかった。就職先を探し、四畳半一間のアパートに住んで二人で働いた。
やがて子供が生まれた。子供は三人生まれた。三人の子供を寝かせると、夫婦二人が横になるスペースがなかった。夫婦は交代で壁に寄りかかって眠った。
子供達が大きくなり、社会人となった。定年を迎えたとき、その退職金を頭金として銀行のローンを組んで、自分の家を持つことができた。退職の後、警備員として働いて、ローンを返済していた。
その矢先に肺結核の宣告をうけて入院した。ローンはほとんど手付かずのまま残っていた。
成人した子供達が支援してくれているが、自分も早く退院しては働かなくてはならない。
この二人の話を聞いて、ヘラヘラと笑いながら身の上話を始めたのは、七十歳くらいの齢の小柄な狸洞だった。しかし、狸洞の話は黒岩や北里の話とは大きく違っていた。彼がなぜ場違いな話を持ち出したのか分からない。しかし、彼の話は茅崎を驚かせた。それはいわゆる過保護の話だったのである。
黒岩や北里と異なり、狸洞は裕福な家の長男に生まれた。父親は男爵だった。狸洞はその後継ぎだった。
男爵家にはたくさんの使用人がいた。たくさんの使用人に囲まれて、狸洞は、坊っちゃん、坊っちゃん、と持ち上げられた。すべては使用人がやった。自分では何もする必要がなかった。自分もやりたいと言っても、使用人たちは「坊っちゃんはそんなことをやる必要はありません」とか、「坊っちゃんがやるようなことではありません」とか言って、狸洞が手を出すのを妨げた。
そんなわけで、狸洞は何もする必要がなかったし、したくてもできなかった。一日中何もせずにぼんやりして過ごすことも多かった。男爵の父は、しきりに「勉強しろ」と言ったから、勉強だけはした。そんな狸洞を見て、使用人たちは「坊っちゃんは勉強好きだ。すごい。やっぱり普通の子供とは違う」とうわさした。
遊ぶこともせずに一日中勉強ばかりしていたから、狸洞は簡単に地元の公立大学に合格した。戦前のことで、大学に進学できる者は裕福な者に限られていた。孤児院で育った黒岩はもちろん、貧乏な農家の末っ子として生まれた北里にも、大学進学など夢に見ることさえできなかったはずである。そんな黒岩や北里を相手に、狸洞は平然と「自分は公立大学を卒業した」と説明した。ヘラヘラと笑いながら無神経にそんな話をする狸洞を眺めて、茅崎は、彼は大学に進学した自分を自慢しているのではないか、と疑った。
しかし、すぐにそんなはずはないと思い直した。おそらく彼はその話を聞く黒岩や北里の気持ちに気が付いていないのだ。彼は回りの人間に配慮することを知っておらず、悪意のないまま無邪気に説明しているだけなのだ。その意味では赤ん坊と変わりがないように思われた。
大学を卒業した後、狸洞は民間企業に就職したが、その企業を数か月で首になった。狸洞の話からすると試用期間中に首になったに違いない。企業はことばを濁して、詳しい理由を説明しなかったという。
止むを得ず別の企業に就職した。しかし、その企業もすぐに首になった。理由は分からなかった。
繰り返して何度も就職した。しかし、狸洞を雇う企業はなかった。
父親は男爵で名士だったから、人脈を生かして息子を雇ってもらおうとした。
しかし、それでも狸洞を雇う企業はなかった。最後は新聞配達までやったという。しかし、新聞配達の仕事もわずかな期間で首になった。
父親は親族一同を集めて親族会議を開催した。勤めができず、すぐに首になる息子をどうしたらよいか? 首になる理由は分からなかったが、結婚させれば落ち着くのではないか、というのが親族会議の結論だった。若いからまだ尻が落ち着かない。しかし、結婚して家族ができれば責任感も出てくるのではないか。そうすれば落ち着いて仕事に励むのに違いない。
狸洞は結婚した。戦前のことだから結婚する当事者に意見などきかなかった。二人は結婚式の当日までほとんど口をきいたことがなかった。
しかし、結婚して一週間の後、花嫁は泣きながら実家に帰っていった。驚いた実家が問い質しても、花嫁は泣きじゃくるばかりで、口を閉ざして理由を話さなかったという。
狸洞の父親は再び親族会議を開いた。
今度の会議の目的は、狸洞をどう処遇しようか、ということではなかった。父親は狸洞の処遇を会議を開く前に決めていた。会議はその承認を得るためだけに開いたのだった。
その会議の結果、狸洞は廃除された。
「廃除」は子供を相続人から除外する法律上の手続きである。俗に「廃嫡」ともいう。狸洞の場合には、親子の縁を切るだけでなく、親族全体から絶縁する「勘当」だった。
こうして、狸洞は両親を含めた親族の一切から追い出された。生まれ育った家の敷居も二度と踏むことが許されなかった。
親族から縁を切られた後、狸洞は生活保護を受けて今日まで生活してきた。
生活保護の他に収入はなかった。四十年以上の時間を生活保護だけで生きてきた。生活保護が狸洞の人生のすべてだった。
その間には多くの人から蔑まれたり、後ろ指を指されたりしたに違いない。しかし、狸洞にはほかに生きる方法がなかっただろう。四十年を超える長い期間、どれほどみじめな思いを堪えてきたのだろうか。しかし、狸洞はヘラヘラと頼りなく笑うばかりで、みじめな思いは一切説明しなかった。
狸洞の身の上話を聞いて、みなしごだったという黒岩が、突然、大きな声で、「ざまあみろ!」と叫んだ。
「こいつはお坊ちゃんだったんだ! いいところのお坊ちゃんで、さんざん甘やかされたんだ。誰かが助けてくれるのを当たり前と思っている甘ったれなんだ。だから、こんな風になったんだ! いいざまだ!」
狸洞はなにを言われても気にならないふうに曖昧にヘラヘラと笑っていたが、茅崎には我慢できなかった。思わず大きな声で叫んだ。
「違う!」
叫ばずにはいられなかった。大学で学び、自分でも何度も何度も繰り返して考えてきた教育学のことを思い浮かべた。
違う。この人はそんな人じゃない。おそらくこの人は世間から捨てられた人なのだ。世間に捨てられ、世間を捨てて、一人きりで生きてきた人なのだ。
「年寄りの中には、自分の苦労話ばかり自慢したり、努力ばかり強調したりする人がいる。でも、そういう苦労至上主義や努力万能主義の年寄りは、大抵、他の人から受けた教育のことをすっかり忘れていて、自分の努力、自分の才能、自分の運、要するに自分一人だけでこの世を生きてきたみたいに傲慢に振る舞って、涼しい顔で平然と弱いものいじめをするんだ。教育は長い時間を掛けて人類が蓄積してきた叡知を伝えるものだから、個人の苦労や努力なんかよりはるかに大切なもので、年寄りだってそういう教育の世話になっていないはずがないのだけれど、わがままな年寄りはまるで自分一人ですべてを発明してきたように考えている。教育は人間を牢獄から解き放って自由にするもので、航海のときの羅針盤みたいにこの世を生きるために絶対に必要なものなんだ」
茅崎は興奮して早口で話し続けた。話すことが思考に追いつかなかった。言葉は茅崎の思考よりもずっと遅れてしまっていて、脈絡がついていないような気がした。
「フランソワ・トリュフォーの『野生の少年』という映画があったと思う。子どもに教育を施さないでほったらかしにしておくと、二本足で歩くことさえできなくなってしまう。野生のビクトールがどれほど努力をしても、教育を受けなければ歩き方さえ分かるはずがない。ちゃんとした教育を受けなければ牢獄に閉じ込められたのと同じで、なにかをやろうとしてもなにもできなくなってしまうんだ。反対に色々な知識や能力を身に付ければ身に付けるほどいろんなことをできるようになる。いつか科学や技術が進んで、しかも教育体制が整えば、誰だって月や火星に行けるようになるかも知れない。教育や知識は人間を解き放って、自由にいろいろなことができるようにするものなんだ。金持ちや偉い人の子供はなんでも思うとおりになると考えている人がいるけれど、本当は逆で、金持ちや偉い人の子供は普通の子供と同じ教育を受けていないことが多くて、そうすると、極端な場合には、自分では何もできなくなってしまうし、好きなものも手に入らなくなってしまう。鎖で牢獄につながれたようなもので、自由なんて全然なくなってしまうんだ。おまけに、牢獄の外がどうなっているのか分からなければ、牢獄から出ることが怖くて、自分でなにかしたいなんて考えずに、誰か頼りになる人に従うだけになってしまうかも知れない」
話し終って深い息をつくと、病室の中はシンと静まり返っていた。
北里がおそるおそる口を開いた。
「茅崎さんの言っていることは難しくて、俺にはさっぱり分からねえ。要するにどういうことを言っているんだ? 分かり易く簡単に説明してくれねえか」
要するに、と言って、茅崎は言葉に詰まった。どう説明したら理解してもらえるのだろう。田舎の百姓の出身で、満州で原野の開拓に苦労してきた北里に分かってもらうのにはどうしたらいいだろう。
「要するに、狸洞さんは家族から放りっぱなしにされていて、何も教えられてこなかったんだ。きっと、偉い人の子供だからといって敬遠されて誰も寄り付かず、ずっと一人ぼっちで放り出されていたんだ。そんなふうになにも教えられないと、大人になってもなにも知らないし、誰かの助けがなければなにもできなくなってしまうんだ」
すると、黒岩が反論した。
「あんたの言うことはまったく分からねえ。俺には親なんかいねえ。どこの馬の骨とも分からねえ捨て子だぞ。だけど、こいつには立派な親がいるじゃねえか。それも貴族じゃねえか。あんたは教育、教育ってバカの一つ覚えみたいに言うけど、いいか、こいつは大学まで出ているんだぞ。それで教育になんの不服があるんだ。いい大人のくせに甘ったれたことを言うな」
茅崎が口を開こうとすると、黒岩はそれを遮り、悲鳴のように感情的な大声を上げた。
「おれは苦労して苦労して苦労して手に職をつけてきたんだ。辛抱して辛抱して辛抱してやっと世間をわたってきたんだ。こいつみてえに恵まれていたわけじゃねえ。おれみてえな孤児院出身の人間の苦労があんたに分かってたまるか。おれは身寄りもなけりゃ、嫌だって出ていくところもなかったんだぞ。いくら辛くたって我慢するしかねえんだぞ。我慢して我慢して我慢して必死で仕事を覚えたんだぞ。こいつは回りに甘えてやってもらっているだけじゃねえか。自分勝手で、他人のことなんか考えていないのはこいつの方だぞ。親が偉いからなんでも誰かにやってもらうのが当たり前と思っていて、やってもらってもありがとうと言うことさえ知らねえんだぞ」
黒岩の興奮を冷ますように静かに、順序立てて、「そうじゃないよ」と反論した。「親にもいろいろな親がいるし、家庭にもいろいろな家庭がある。実の両親が揃っていることがいつも幸せだとは限っていないんだ。大事なのは、子どもが回りから愛情豊かに見守られて、勉強にしろ、遊びにしろ、その他のことにしろ、誰にも気兼ねなくのびのびと頑張れることなんだ。子どもは誰かがやってくれるのをじっと待っているより、自分の力でなにかにチャレンジしたりする方が好きなんだ。でも、だからと言って、苦しい努力なんかしちゃいけないし、したところでそんな努力が身に付くはずがない。黒岩さん、今までいろんなことがあって、嫌な奴もいただろうし、辛いこともあっただろうけど、そんなことが役に立ったはずはないと思うんです。孤児院や奉公先はあなたを大切に育ててくれたでしょ。みんながあたたかく育ててくれて、いろんなことを教えてくれたからこんなに立派になったんでしょ。それは黒岩さんにだって分かっているでしょ」
狸洞さんに実の両親はいても、大切に育てたり導いたりしてくれる人はおそらくいなかったんだ、と続けようとしたが、その前に狸洞が口を挟んだ。狸洞は自分に味方ができたことに勇気付けられたように、黒岩に反発して、「ばかにするけれど、おれは株主なんだ」と言い出した。その意味を聞くと、わずかな株式を持っているのだ、と弁明した。黒岩は「なんだ、端株じゃねえか」と嘲笑った。それを受け流すように狸洞はヘラヘラと笑い続けた。
その後にも、ことあるごとに、黒岩はこれまでの自分の人生への恨みを吐き出して、それをまるごとぶつけるように、響き渡る大きな声で狸洞を非難し、あるいは嘲笑った。その度に茅崎は擁護の声を上げ、狸洞は自分の意思をどこかに置き忘れてしまったようにヘラヘラと受け流した。部屋中を飛び交う黒岩と茅崎の大声に他の入院患者たちは眉をひそめた。仲裁に入るのはたいてい二十歳前後の若い看護婦たちだった。ときによると、腰の曲がった奥さんが黒岩をいさめることもあった。
黒岩との論争が一段落すると、茅崎はたいていぐったりと疲れ切っていた。
自分は子供たちのいい先生になりたかった。自分ならなれるはずだった。寝ても覚めても子供たちのことばかり考えてきた。
「あの事件さえなければ。あれさえなければ」
独り言を繰り返す茅崎の傍らにいつの間にか剣ヶ岳が座っていて、黙って週刊誌を開いていた。
ある日狸洞は腕時計を買いたいと言い出した。
生活保護で生活している狸洞に腕時計は不必要である。まして、結核病棟には時計があるから、個人が腕時計を持つ必要がない。それでも、狸洞は腕時計が欲しいと言った。
病院からおよそ一キロのところにJRの駅があり、その回りを商店が取り囲んでいる。駅ビルもある。この駅ビルの中に時計店があるに違いなかった。
狸洞が腕時計を買うのに茅崎がつきあう必要はない。しかし、狸洞は誰かが付き添わなければ腕時計を買うこともできないのだ。狸洞には時計の買い方さえ分からないのかも知れなかった。昼食を食べてから、茅崎は狸洞と一緒に駅ビルに向った。
時計店で、狸洞はさまざまな腕時計を眺めながら長い間選んでいた。いつまでも買うものが決まらなかった。
いつの間にか夕飯の時刻が迫っていた。それほど長い時間、狸洞は迷っていた。茅崎は、早くしないと夕飯に間に合わない、と狸洞を急かせた。
やっとのことで狸洞は腕時計を選んだ。高い腕時計だった。茅崎は、もっと安いものでよいのではないか、と狸洞を説得した。もともと腕時計は必要なものではない。しかし狸洞は譲らなかった。「生活保護で暮らすようになってから贅沢なものを持ったことがない。一度でいいからこういう高級時計を身に付けてみたかった」と言う。
止むを得ずその腕時計を買うことを了承した。どうしても夕飯の時刻までに帰らなければならないのである。
ところが、ポケットの中からお金を出してみると、狸洞の持っているお金では足りなかった。しかも、そのお金は狸洞の全財産で、病院に戻ってもそれ以上のお金はないという。
茅崎はもう一度説得した。全財産をはたいて高級な腕時計などを買うべきではない。それでも狸洞はその高級時計が欲しいと駄々をこねた。
「だってお金が足りないじゃないか」と言うと、狸洞は何も答えずに、茅崎の顔を正面から見つめて、ねだるようにヘラヘラと笑いかけてきた。
いつまでもぐずぐずしているわけにはいかなかった。夕飯の時刻に遅れたら、狸洞だけでなく、茅崎も問題にされるのに違いなかった。止むを得ず不足する金額を茅崎が補って時計を買った。
もう歩いていては夕飯に間に合わない時刻だった。仕方なく駅前でタクシーを拾った。タクシーが病院の前で止まって、タクシー料金を払おうと茅崎が財布を覗き込んでいる間に、狸洞はさっさと病院の中に姿を消した。払い終わってから狸洞の姿がないことに気が付いて唖然とした。
結核病棟に入院して三か月が過ぎたころ、茅崎の痰から発見された結核菌の培養結果が報告された。結核菌は増殖しなかった。
茅崎が退院する日、黒岩はふとんに顔をうずめたまま、茅崎の方に顔を向けずに「悪かった、おれが間違っていた」と言った。しかし間違っていたのは黒岩だったのか、それとも自分だったのか。自分は大学で学んだだけのただの理屈屋で、頭でっかちの甘ちゃんだったのではないだろうか。そんなふうに考え込んでいると、黒岩は続けて「あんたがいなくなった後でもこいつを大切にするから、心配しないで退院してくれ」
狸洞はいつになく神妙な面持ちで、少しだけ顔を赤らめ、言いにくそうに「今まで本当にありがとう」と感謝の意を表した。しわだらけの年寄りが照れてはにかむ姿はひどく珍妙で、病室中が爆笑に包まれた。黒岩も涙の痕が残る顔をふとんから上げて愉快そうに大声で笑った。茅崎はなんだかどうでもいいような気がした。大きく口を広げて、みんなと一緒に笑った。 了




