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タイトル未定2026/03/22 21:45

「お前のせいやぞ!聞いてんのか杉原!」


オフィスに響き渡る、上司の怒声。

俺は黙って頭を下げた。

ここは都心から少し離れた場所にある中小企業。

機械の設計図を書く会社だ。

幼いころに叶えたかった夢はあまりにも非現実的で

現実的な道を歩んでいたら、気づいたらブラック企業に勤めていた。

設計図の中にミスがあった。俺のミスじゃないけど、俺の担当している新人のミスではあった。

ヒステリックな上司は、すぐに怒鳴る。

「ありえない」を連呼する。

もう40過ぎた俺のような社員は慣れた態度で頭を下げ

入ってきたばかりの新人は恐怖で縮こまりながら必死で謝り

次々とやめていく。

今更転職なんてできなくて、ただこの会社で死んだように仕事をする。

(…疲れたな)

再び聞こえてきた上司の怒声に、俺は再び頭を下げた。


「はぁ……」

駅までの道。重い体を引きずって歩いた。

時期が冬だからか、余計に体が重い。できれば歩きたくない。

疲れのせいか、頭が上手く働かない。

帰りにコンビニにでも寄ってビールでも買って帰ろう。

十字路を右に曲がって少し進んで、そうして左に曲がれば…。


コンビニだと思っていた場所に、コンビニがなかった。


「…疲れてるな」

疲れすぎてついに道を間違えてしまった。

曲がる場所が違ったのだろうか。

似たような家が多いから、間違えたことに気付かなかった。

さて、引き返してコンビニを探そう。

振り返って引き返そうとしたとき、視界の端に赤い屋根が映った。


「…」

カランコロン。

軽い鈴の音が耳に入ってきた。

『赤い屋根の家』。ショーケースの中にケーキが入っている。ということは、ケーキ屋だろうか。

店内の明るさにつられて、気づいたら店に入っていた。

やはり疲れている。店主も見当たらないし、早く帰ろう。

引き返そうとしたとき、店の奥から声が聞こえてきた。

「あら、お客さんですか?ごめんなさいね、さっきまで奥にいて…」

奥から出てきたのは、人のよさそうな若い女性だった。

おっとりとした若葉色の垂れ目、肩まで伸びた柔らかな栗色の髪、

幼さの残る丸顔、少し低い背。

俺は女性に向かって首を横に振った。

「いえ、ちょうど帰ろうとしていたところなので」

「えぇ?もったいないですよ。せっかくだし、1つどうですか?

ちょうど今が旬の果物を使ったケーキがあるんです」

「…そこまで言うなら」

ショーケースの中を見てみた。

宝石みたいに輝くイチゴのタルト、レモンの形をしたシンプルなレモンケーキ

飾り気のないロールケーキ、かわいらしい桃のムース…。

その中で、目にとまったケーキが1つあった。

バターケーキ。

横幅が10㎝くらいの長方形で、生クリームに見た目を寄せているくせに

実際に食べたら固くて、冷蔵庫に入れなくても腐らない、

全然おいしくないバターケーキ。

昔、母さんが会社帰りに買って帰ってきて

クリスマスケーキがこのバターケーキだったことがよくあった。

(…そんなにおいしくないって、あの時は不満言ってたっけ)

今考えたら、買ってくれていただけありがたかった。

そういえば、ケーキなんてしばらく食べていない。

甘いものが胃の負担になるし、お金ももったいなくて

バターケーキなんて重いもの、余計に食べられなかった。

「そちらにされますか?」

「え…いや、食べきれないので」

店員から目をそらすと、彼女はにこっと笑った。

「では、切り分けて提供いたしましょうか?

何切れ食べたいですか?」

「…じゃあ、二切れで」

店員はナイフで丁寧にバターケーキを切り、

二切れだけ皿にのせた。

「お席があちらにありますので、お好きなお席にお座りください」

指をさされた先には、いくつかのテーブルとイスがあった。

よく見ればおしゃれな店内だ。どこかレトロな雰囲気で、落ち着く。

ケーキの甘い匂いと、家具に使われている木のにおいが鼻をかすめた。

渡されたバターケーキを持って、ひとまずカウンターに座った。

フォークでバターケーキを小さく切り分け、一口食べる。

「…なつかしい」

美味しくはない。決して。どちらかというと不味い。

さっきのイチゴタルトの方が絶対美味しいし

そもそもバターケーキはこの年になるとちょっと重すぎる。

それでも、悪い気はしなかった。

胃に重たくて、ずっしりとしたケーキが

なぜか俺の心を軽くしていた。

「これ、サービスです」

店員が紅茶を出してくれた。

紅茶の良い香りが店内を包む。暖かい湯気が顔にかかる。

紅茶を一口飲んだ。体が少し温まった。

冷たかった指先がじんわりと温まって、血が巡る感覚がした。

俺が人知れず穏やかな気持ちになっていると、店員が俺に微笑みかけた。

「それ、ダージリンティーっていう紅茶なんです。

ストレス緩和の効果があるんですよ」

「…そうなんですか」

「なんだか疲れていたようなので。

表情が和らいでよかったです」

店員の言葉を聞いて、俺は少しだけ目を見開いた。

疲れている顔をしていたのか、俺は。

他人を心配させるほど。そんなにひどい顔をしていただろうか。

店員はクスッと笑ってバターケーキを見た。

「それ、全然おいしくないですよね。

私、あんまり好きじゃないんです。…でも、なんでか食べたくなっちゃうんですよね」

「…分かります」

思い出の味だからかもしれない。

ほかの理由があるからかもしれない。

ただ、今はこのバターケーキの味に救われていて

その事実だけで十分だった。

二切れのバターケーキを食べ終わって、俺は席を立った。

「すみません。お会計を…」

「お代は大丈夫ですよ。私が無理を言って勧めた節もありますし」

「ですが…」

申し訳なさそうな俺の顔を見て、店員はにこっと笑った。

「いつも頑張っているお兄さんへのエールです!」

「…!」

お兄さん。久しぶりに言われた。

もうお兄さんという年齢でもないというのに。

「…お兄さんは、無理がありますよ」

「ええ?そうですか?結構若く見えますけど…」

「もう四十過ぎですから」

「えぇ!?全然見えない!」

元気な店員の態度に、思わず笑ってしまった。

「…そうだ。店員さん。あなたのお名前は?」

「私ですか?天堂 サキです!このお店のお手伝いをさせてもらっています!」

「…店長じゃないんですか?」

「はい!店長さんは別にいて…って、どうしよう、勝手に店長のダージリンティー出しちゃった…。

店長に怒られるかな…」

急に不安そうになるサキさんに、俺は微笑みかける。

「やっぱりお代、受け取ってください。店長さんに怒られますよ」

「えぇ!?でも…」

俺はサキさんの手にお代の400円を握らせる。

サキさんの笑顔で、明日も頑張ろうと思えた。

そのお礼の気持ちが伝わるように、しっかりと握らせた。

「エール、しっかりもらいました」

「…!」

サキさんは少し驚いたように目を開いて、

花が咲くように笑った。

「…はい!またのご来店、お待ちしています!」



「おや、お客さん、もう帰ったのかい?」

奥から出てきた店長に、サキは頷く。

「はい!ちゃんと対応しました!」

「そうかい。お代を受け取ろうとしなかったのは聞こえていたがね」

「うっ…。受け取らなくて、ちゃんと自腹でいれてましたよお…」

「ならいいんだがね」

真っ白な髪、赤い瞳、どこか威圧感を感じる細い切れ目

日焼けやシミを知らぬ白い肌、真っ赤な唇、高い身長。

年齢不詳、正体不明の『赤い屋根の家』の店長、白沢。

彼女は店の出入り口を見ながらライターでタバコに火をつけ、ゆっくりと吸って、はいた。


『赤い屋根の家』

それは、疲れた人の前に現れて


二度訪れることができない店だ。






「…ない」

次の日。会社帰りに何度も道を確認したが

そこにはコンビニが一軒あるだけだった。

他のケーキも気になったし、もう一度サキさんに会いたかったが

何度探しても見つからない。

俺はため息をついて、駅の方向に歩いた。

ダージリンティーの香りが、まだスーツに残っている気がした。

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