逆方向の電車
彼は、疲れていた。
眠っていないわけではない。だが、眠った実感がなかった。朝、電車に乗った記憶はある。だが気づけば、窓の外の景色は見慣れないものに変わっていた。逆走しているように見えたのは、電車のせいではない。彼の内側がずれていた。
次の駅で降りた。理由はなかった。
ホームに吹き込む風が、少し冷たかった。彼はネクタイを緩め、そのまま改札を出た。
知らない道を歩く。足が勝手に進む。止める理由もなかった。
潮の匂いに気づいたのは、十分ほど歩いたあとだった。海があるらしい。
革靴のまま砂浜に入る。足が沈む。粒が入り込む。構わなかった。
彼は鞄を枕にして横になった。空は曇りがちで、色が薄い。風が、スーツの内側に入り込む。
静けさがほしかった。それだけは、はっきりしていた。
目を閉じる。
波の音は一定だ。繰り返す。崩れ、引き、また寄せる。その単調さが、彼の内側のざわつきを少し削る。
どのくらい時間が経ったのか。
水が落ちてきた。冷たいというより、重い。塩が目に染みる。
「そこ、私の場所なんだけど」
声がした。
彼はゆっくり目を開ける。逆光で輪郭しか見えない。少女だった。
「……ごめん」
声はかすれていた。
「勝手に寝られると困る」
「困る?」
「困るの」
彼は起き上がり、シャツを絞る。水が砂に吸われていく。
怒る気にはならなかった。むしろ、水の冷たさが頭をはっきりさせた。
「ここ、誰のものでもないだろ」
少女は少し考えたあと、言った。
「今日だけ」
何の許可かはわからない。だが彼は頷いた。
二人は少し距離を置いて座る。
海は鈍い色をしている。空も同じだ。
「今日は風が優しい」
少女が言う。
彼には違いがわからない。
「風に優しいとかあるのか」
「あるよ」
少女は砂を指でなぞる。
「色が違う」
彼は空を見る。灰色だ。
「見えない」
「見えなくてもいい」
それ以上、説明はなかった。
風が、乾き始めたシャツを揺らす。
「仕事?」
少女が言う。
彼は頷く。
「営業」
「サボり?」
彼は少し笑う。
「たぶん」
少女はそれ以上追及しない。
波の音だけが続く。
「なんで働いてるの」
不意に問われる。
彼は言葉を探す。
「生活のため」
それは半分だけ本当だった。
「それだけ?」
彼は砂を握る。指の間から落ちる。
「どこかで、役に立ちたいとは思ってる」
少女は彼を見る。視線がまっすぐで、逃げ場がない。
「他にもあるかもね」
それだけ言って、海へ目を戻す。
彼は何も返さない。
風が少し強くなる。砂浜には他に誰もいない。静かだった。




