第9話「帰郷と旧友」
秋は、紙の角をやわらかくする。王都から東へ二日の道のりを帰郷すると、平野の空が低くなっていて、稲の匂いと、乾いた土の粉が肺の奥で穏やかに重なった。停留所で降りると、風は夏の膠の甘さではなく、焚き初めの藁の匂いを運んでくる。祭の週だ。町内の神輿蔵が開き、子どもたちは紙垂を振り、路地の角ごとに太鼓の皮が鳴る。私は鞄を肩から下ろし、実家の暖簾をくぐった。
「おかえり」
母の声は、前回より半音低く、落ち着いていた。台所には栗の皮が山になり、父の書斎からは帳簿の紙をめくる音がする。私の部屋――夏に間取りを変えたあの配置の、簡易版がこちらにも欲しくなり、帰る道中で頭の中の設計図を何度か引き直していた。だが今は、まず町の空気に身体の目盛りを合わせる。祭の週は、町の「時間割」が普段の倍速で進む。私の「空白の一マス」は、最初から神輿蔵行きに決めておいた。
夕方、昔の同級生たちが「帰ってきたなら顔を出せ」と連絡を寄こし、広場の縁で小さな輪になった。焼きとうもろこしの甘い香りと、屋台の油の匂いが重なり、一歩内側にはらっきょう漬けの酸っぱさが居座る。サーラの従姉に似た眉の子が笑って近づいてきて、躊躇のない声で訊いた。
「ユリウスとは?」
質問は、思い切りがよくて清々しい。私はどこから答えるかを迷わないよう、胸の内側に小さな札を用意しておいた。〈現状のみ/評価は持ち帰り〉。手順通りに口を開く。
「彼は王都で舞踏団の地方巡業に帯同している。私は史料院の夏の実習を終えて、秋には郷里の案件をいくつか受ける予定。――連絡は、ときどき。交流は、必要なときに」
「それって、つまり……」
私は首を横に振った。「つまり、の後ろに評価が入るの。評価は今は言わない。言うと、私が私の空白を使い込むから」
輪の空気が少し揺れ、すぐに戻る。祭の音は、余計な間を埋めるのがうまい。たこ焼きの皿を持った青年が「そっか」と頷き、子どもの頃と変わらない癖で、私の髪の先を一本つまんで離した。癖は、悪意がないときだけ懐かしい。
神輿は、まだ蔵の中にいる。町角に据えられた長椅子に腰を下ろした時、背後から肩を軽く叩かれた。小学校からの旧友、ミナだ。彼女は相変わらず、両手の動きが言葉の前に出る。
「噂、持って帰ってない?」
「持って帰るものじゃない」
「だよね」
笑い合い、ミナは手にした藍色の飾り紐を見せた。「蔵に行くけど、一緒に来る?」
もちろん、と答える。噂の飾り紐は、昔の私がよく持ち歩いていた。町の誰かの恋路、商家の値切り合い、学校での小さな派閥。事実に装飾を足して、紐の先に鈴を付け、誰もが触り心地のいいところだけ撫でる。あの紐は軽く、指に絡みやすい。絡んだまま、長い。私はその紐を神輿蔵で外すつもりで帰ってきたのだと、改めて思った。
蔵は、町の中央の小さな社の裏手にある。格子窓から薄い光が差し、内部の埃が穏やかに舞う。扉を開けると、木の香りが濃く、わずかに酒の匂いが混ざる。神輿は布に覆われ、屋根の鳳凰が布越しに影を作っていた。私とミナは靴を脱ぎ、白い手拭いで手を拭いてから、布の端を少しめくる。金具が眠っている。
「毎年、先週のうちに飾り紐を替えるんだけど、今年は誰も手が空かなくて」
ミナは申し訳なさそうに笑った。「いいね、やろう」
私は紐の結び目を見て、ほどく順番を目で数える。古い飾り紐は、町の手つきで結ばれている。王都式の飾りとは違う角度で、余りの処理に土地の癖が出る。私は指を湿らせずに、結び目を一つずつ解いた。解くたびに、古い噂の鈴の音が、頭の中で一個ずつ消える。絡まっていた紐が、するすると伸びる手応えは、夏に名札の裏で集めてきた「しない」のコレクションに並べられる感触だ。私は古い飾り紐を束ね、箱に納める。新しい紐は、藍の濃さがまだ硬い。
「結び方、覚えてる?」
「うん。――ほら」
私は紐の頭を鳳凰の爪の根元へ通し、片結びを二回、余りを内へ隠す。動作の途中で一度だけ止めて、紐のぬめりを指腹に吸わせる。力が入りすぎると繊維が鳴く。鳴かせない。紐が「そこでいい」と頷く場所は、隠した余りの厚みで分かる。私は結び目を軽く押し、最後の微調整をしてから、爪先で「良し」の印を心の中に置いた。
鍵は古い飾り紐を結び替えた感触。――この土地で、子どもの頃から手に馴染んだ手順が、今の私の「鍵」の形を持っている。鍵穴は、昔と同じ場所にあるが、鍵の歯は少し違う形に削れていた。私は布を戻し、深く息をついた。
「やっぱり、あなたは器用だね」
ミナは感心して、紐の端をもう一度撫でた。「器用って、道具の使い方がうまいってことよ。道具には、手順が付いてくる」
「道具、か」
ミナの視線が私の胸元に落ちる。名札は今日は持ってきていない。実習のRENAは王都に置いてきた。代わりに、秋の上着の内ポケットに薄い木札を一枚入れてある。〈RENA/来訪〉。家名のない札は、町では少し浮くかもしれない。浮くなら、浮いた分だけ、私自身の言葉で重さを足せばいい。
蔵を出ると、夕暮れの空が祭の赤に色づいていた。町の広場に戻る途中、二番通りの角で父に会った。肩の線は昔より少し丸く、目の端の皺は深く。でも、握手の圧は変わらない。
「おかえり」
「ただいま」
父はひと呼吸置いてから、私の顔をまっすぐ見た。「週末の商会の仕事、手伝えるか?」
来た。家の商会――農具と紐、紙の卸と、秋の仕入れ。祭の後、帳合いと在庫整理と、取引先への挨拶状の準備が重なる。私は鞄から小さな手帳を出し、時間割のページを開いた。〈家内協力の枠組み(暫定)〉の下に、「帰郷版」の行を追加してある。〈週二回の買い出し/月一の親族会議〉――は既に合意済み。今回は、商会の仕事が新しく入る。私は条件交渉の札を三枚、机の上に並べるときと同じ要領で、父に示した。
「できます。条件は三つ。――一、週あたりの拘束は八時間まで。二、夜間の帳場は不可。三、業務内容は私の専門に寄せる――在庫の目録・取引先の台帳のクレンジング・挨拶状の文案整理。対面交渉は、今回は補助に回ります」
父は眉を片方だけ上げ、すぐに戻した。驚きが短いのは、彼の良さだ。「賃金は?」
「相場で。現金半、紙で半。紙のほうは、文具と封材を希望」
「封材か」
「王都で使えるいい蝋がこちらにあるの。――あと、これはお願い。私の時間割の“自修の不可侵”は持ち込ませてほしい。朝の一時間と、夜の四十五分。祭の週でも」
父は笑い、空を短く仰いだ。「商人みたいだ」
私は笑い、頷く。「それでいい。情には礼を、交渉には条件を」
父はしばらく黙り、祭囃子の間に言った。「合意だ。――ただしひとつ、親としての条件。困ったら言え。困っていない時でも、言え」
「それは、契約条項には入らない」
「だから、親の条項だ」
親の条項は、法より古い。私は笑って頷いた。情に溶かさず合意形成。溶けそうになる温度を、合鍵で冷やす。合鍵は、いつでも掌に戻せるように内ポケットの位置を少し変えた。
*
祭の当日、朝は空気が軽く、昼は太鼓が重い。私は商会の奥に座り、在庫の目録を新しい形式に合わせて整理した。紐の種類――藍/茜/生成り。太さ――細/並/太。用途――飾り/結束/奉書用。管理番号とタグの紐付け(命名はあえてだじゃれにしない)。午前のうちに目録の「同名異品」「異名同品」を潰し、午後には台帳の重複を見つけ、返礼の挨拶状の差出人名のゆらぎを揃える。やることは史料院と同じだ。違うのは、紙に油の指紋が少し多いことと、相手の顔を知っていること。顔を知っているぶん、甘くなりやすい。甘さは、膠の泡と同じだ。先に掬う。
店の前で旧友たちが何人か立ち止まり、差し入れにどら焼きを置いていく。「ユリウスとは?」の問いも二度、三度。私は同じ言葉で返した。〈現状のみ/評価は持ち帰り〉。問いの温度が一度ずつ下がり、最後には「そっか、またね」に変わる。噂の飾り紐は、持って歩かないと決めた日から、指に絡まなくなった。神輿蔵で外した古い紐は、箱の中で静かに重みを増し、手を出さなければ良い。ただ、時々、箱の上に掌を置く。外したまま放っておくのではなく、「外して保管してある」と自分に知らせるために。
午後の山場——神輿出し。私は担ぎ手ではない。蔵の前で紐の最終確認をする係を買って出た。鳳凰の根元、四隅の房、鈴の位置。見慣れた結び目は、指の腹で「そこだ」と知らせてくれる。合図は短く。「良し」。囃子が高くなる。神輿が肩に乗り、波のように動き出す。私は神輿の腹の影で一歩だけ並走し、角を曲がるところで離れた。祭は、個人の物語より長い。だから、個人の拍手は胸の内に畳む。外の拍手は人のために、内の拍手は自分のために。
夕方、店を閉める前に父が帳場から出てきた。「目録、見事だ。――それと、来月、地元の村落文書の簡易整理の依頼が来ている。商会経由で受けようと思うが、どうだ」
私は椅子の背に手を置き、短く息を通した。「受ける。条件は今と同じ。――加えて、報告書の形式をこちらで決めること。『保留』の箱を必ず置くこと。村の古老の『口での証言』を付録として一緒に残すこと」
父は目を細めた。「やっぱり王都の人間になってきたな」
「町の人間でもある」
「両方でいい」
了承の短い頷き。私はその小さな頷きに、子どもの頃の「良し」の印を重ねた。地元案件の小さな仕事の扉が、静かに開く音。ラッチの音は王都と同じだが、湿度が違うぶん、響き方が違う。
夜の灯を落とす頃、ミナがまた店の前に現れた。藍の飾り紐を一本、手にしている。「余ったから。――お守りに、どう?」
私は受け取り、結び目を一度だけほどいて、結び替えた。昔の癖で強く結びすぎそうになって、途中で指を緩める。強さは、ほどけやすさと同盟だ。固くていい場面と、柔らかいほうがいい場面がある。鍵は古い飾り紐を結び替えた感触。私は紐を小さく輪にして、鞄の内ポケットに留めた。鈴は付けない。私はもう、鈴の音で誰かの注意を引く必要がない。
帰り道、町の外れの用水路に沿って歩く。稲刈りが始まる前の田は低く、風がまっすぐ渡ってくる。私は胸の内側の名札を指でなぞった。〈RENA〉。家名のない四文字は、ここでも通用する。ここは私の出生地だが、名札の出自は問わない。問わない場所に、私は自分の条件を置く。置けるだけの準備をしてきた。
家に戻ると、母が寝具を干しから取り込み、食卓に湯気を並べていた。栗ご飯、秋刀魚、青菜の胡麻和え。食後、母が「親族会議の準備を」と言い、私は議事のテンプレートを広げた。叔父はきっと「若いもんは戻ってこん」と嘆く。叔母は「嫁入り道具の紙箱」を探している。祖母は「あの時の寄付金の帳面」を出すよう言う。私はそれぞれに札を付ける。〈嘆き:聞き置き/解決しない〉〈箱:所在調査/保留〉〈帳面:場所特定/翌日持参〉。会議の言葉は、噂の飾り紐に似ている。絡まる前に、紐の端を整える。
夜更け、机に向かい、薄い木札に鉛筆で一行書き足した。
――古い飾り紐:外す/保管/結び替え可。持ち歩かない。
木札を引き出しに入れる。引き出しを閉めるときのラッチの音が、今日の最後の合図になった。内ポケットで、藍の小さな輪が動く。声のない拍手を一度だけ胸に畳み、私は横になった。窓の外で虫の音が重なり、目を閉じる前に、遠くで太鼓の余韻がまだ地面の下に残っているのを感じた。祭は明日も続く。私の仕事も続く。扉は、いくつもある。鍵の歯は、古い紐の繊維で少し磨かれ、次にかみ合う準備をしている。情に溶けない温度で、私は明日も「現状だけ」を言い、「評価」は持ち帰る。持ち帰った評価は、私の時間割の上で意味になる。意味は、飾り紐ではなく、手順に結び直す。小さな仕事の扉が開いた先で、私はまた名札を指で弾くだろう。RENA――四文字の重さは、秋の空気によく馴染む。




