第8話「史料院の夏」
夏の入り口は、紙の匂いにも季節を混ぜる。王都史料院の石段を上ると、吹き抜けの空気が冬より軽く、けれど湿り方は鋭い。私は受付で実習生用の作業服を受け取り、着替え室で袖を通した。生成りの綿、肘だけ革で補強。胸ポケットの上に、小さな金具で名札を留める。
――RENA。
家名はない。学院名も肩書も、どこにも刻まれていない。ただ、私の名だけ。制度という保護膜が剥がれ、皮膚が外気に触れる感じ。緊張と解放が同時に喉の奥へ押し寄せ、私は一度、息の形を整えた。名札は鍵穴の位置を教える札でもある。誰がここを開け、誰が開けないか。自分を他人のラベルで守らない日、扉はいつもより正直だ。
「おはよう、レーナ」
ノエルが廊下の曲がり角から現れ、いつもどおり、押しつけがましくない明るさで言った。彼の胸にも名札がある――NOEL。肩章はない。彼が同僚として振る舞うスイッチを入れているのが分かった。好意は感じるが、役割の邪魔をしない距離。実習が始まる前に、私がもっとも欲しかった温度だ。
現場は初日から忙しい。エントランス脇の飾り棚に並ぶ「見せる史料」の目録を更新する作業。寄贈の多い季節で、箱が毎日のように届く。木箱の釘を外す音、麻紐を解く手、羊皮紙のざらりとした感触。目録の書式は、史料院の古い流儀と王都標準のあいだに揺れていて、私は二つのフォーマットを照合しながら、ラベルの矢印を少しずつ揃えた。矢印が揃うと、棚全体の呼吸が合う。舞台と同じだ。矢印の乱れは、観客に見えないところから全体を濁らせる。
次は貸出データのクレンジング。貸出帳は古い文字と新しい筆記が混在していて、「同名異人」「異名同人」の罠が多い。私は「重複疑い」の札を用意し、姓名の排列、住居の町丁、職業の欄、借り癖(返却日ぎりぎり/延長癖)の記号から、同一人物の可能性を線でつないだ。線が増えすぎると頭が膨張する。だから、私の机の右上には小さな砂時計を置いた。砂が落ち切る前に線を三本以上引かない。遅いほうが速い、ここでも生きる。クレンジングは、相手の人生の砂利を取り除く作業に似ている。砂利まで歴史と言い張るのは、傲慢だ。
午後には寄贈品の真正性チェック。街の商家から出た古い契約書と称する束。紙質、インクの濃さ、筆圧。私は光に透かし、水の痕跡を指の腹で追った。裏に蝋が微かに沁みている。蝋の配合が王都の標準と違う。匂いも違う。羊脂より蜂蝋が勝っている。
「古都の配合だ」と、隣で見ていた年長の職員が言う。「百年前の古都、商家同士の契約に使われていた」
「でも、筆の癖は、もっと新しい気がする」
「古都の蝋を真似したのかもしれん」
真贋の判断は、匂いと線の交差点に置く。私は「保留」の札を重ねた。科学的遅延は、勇気だ。急いで結論を出せば、誰かの名札に傷がつく。傷は履歴だが、残し方を間違えると、次に手にする人の可動域を奪う。午前のうちに「保留」の箱が二つ増え、私はその重みを片手で持ち上げ、腕の筋の位置を確かめた。
「昼は食べた?」
ノエルが訊く。「食べた。硬いパンと、すっぱい果物」
「それは“速いほうがいい”」
「ええ。午後は“遅いほうがいい”が待ってるから」
彼は笑い、距離を一歩だけ詰めるでもなく、離れるでもなく、作業表を私の机の端に置いた。視線が一瞬だけ交わる。心がざわつかない。名札の効用は、こういう瞬間の輪郭をくっきりさせる。私たちは同僚だ。好意は、同僚の礼儀を壊さない形に折りたたむ。
*
三日目の午後、事件は起きた。重要史料――王都成立初期に関する公的書状の写し――が、商家から出土したと持ち込まれた。書式は完璧に見え、筆致は達者、紙は古い。先輩の職員――眉間に皺の刻まれた女性――が捲りながら言った。
「本物でいい。陳列候補に回す」
机上の空気が早足になるのが分かった。目録係がラベルの準備を始め、広報の若い男が「王都史料院、夏の目玉です」と小声で言う。私は手のひらに汗が滲むのを感じ、砂時計を逆さにした。
「待ってください」
声は低く。響くほど高くしない。先輩が眉を上げる。「何か?」
「綴じ紐を見てもいいですか」
私は書状の背に顔を近づけた。綴じ紐は麻。だが、撚り方が王都標準の規格成立以前の古式――よりによって古都式。問題はここからだ。王都標準が定着する前の期には、王都の官文書で古都式の紐は極めて稀。さらに、この写しの書き手の癖――文字の「口」の止めの向きと、撚りの向きが合わない。筆圧と紐圧は同じ側の身体の癖から出る。合わない確率は高い。高いが、ゼロではない。
「この綴じ紐は王都標準の規格前です。写しの筆の癖と合わない可能性が高い」
私はそう述べ、証拠を紙に置いた。古都式紐の見本、王都標準移行期の目録、書き手の癖を分類した小冊子。三点を一直線に並べ、矢印で交差を示す。感情で押さない。矢印の角度は、批判ではなく、照明にする。先輩はしばらく黙り、やがて頷いた。
「保留」
紙の上で、その二文字がこんなに重いとは思わなかった。科学的遅延は勇気だ、と私は胸の内で繰り返す。勇気は、押し返す力としてだけではなく、引き留める力として鍛えられる。押して評価される場面より、引いて嫌われない場面のほうが少ない。だから、遅延には筋肉が要る。
「ありがとう、レーナ」
先輩が言った。「“早く”の声に“遅く”を置けるのは、現場の空気を飲み込まない人だけ」
「空気は飲まずに測ります」
「その道具、貸してほしいわね」
冗談めかした一言で、机の上の温度が一度下がる。広報の青年がメモを仕舞い、目録係はラベルの紙を箱に戻した。私は砂時計を倒し、砂が静かに落ちるのを見た。
夜、作業が終わってからノエルが言った。「君の『そうしない勇気』は珍しい」
「私、最近は“しない”を集めてるの」
「収集癖か」
「コレクション棚が満杯になる前に、分類表を作る予定」
ノエルの笑いは短い。「“しない”は“できる”の親族だ」
「親族だけど、同居させると喧嘩する」
「別居させて、休日だけ会わせる」
押し付けがましくない会話。私は名札を指で弾いた。RENAという四文字が、胸の骨の上で少し響く。「肩書きを一枚、今日捨てた気がする」
「拾いに来るかもしれない“誰か”がいる」
「拾われても、再発行はしない」
「賢明」
ノエルはそれだけ言って、背中で手を挙げ、地下の湿度へ消えた。湿度計の針が一ミリ動く。紙が夜に長く伸びをする音がした。
*
実習の四週目、私は日々「新しい名札」に慣れていった。名札には汚れが付く。角が欠ける。欠けの形が日ごとに違うのが、愛しい。朝いちばん、私は布で名札を拭き、指の脂を薄く残す。金属の表面が体温で馴染み、紙に触れる指の温度が一定になる。名札は、温度の管理装置でもある。自分が「誰かの娘」でも「学院の誰か」でもなく、ただのRENAである温度。
忙しさの種類も増えた。飾り棚の目録は、見に来る客の動線に合わせて「立ち止まり位置」を変えた。棚の高さに応じて文言を短くし、子どもの目線の段にだけ「指を使わないで見てみよう」という文を絵のように添えた。読む行為に「身体のしつけ」を混ぜる。人と本の可動域を広げるための小さな工夫。
貸出データのクレンジングでは、古い帳面の余白に「貸出理由」の短いメモを見つけるようになった。〈息子の宿題〉〈夫の祖父の話と照合〉〈祭りの演説の準備〉。理由が見えると、返却遅延に色がつく。遅延は怠慢だけではない。誰かの時間が、別の誰かの時間に押し出される現象だ。私は「延長可」の範囲を書式として明示し、相手の遅延を「交渉」に変える。交渉は、善意の泡を先に掬う器だ。
寄贈の真正性チェックは、ときどき外へ出た。ある午後、私は先輩と連れ立って、王都北区の古い商家へ出向いた。提供者の家。青い庇の下、風鈴が高い音を出す。家の人は「祖父の代から伝わる」と言い、茶を出した。私は茶碗の縁を指で持ち、紙の扱いと同じ温度で礼を言った。書状は箱に三つ。綴じ紐、紙、インク、蝋。蝋の配合は古都。筆圧は若い。家の奥から祖母が出てきて、「祖父は古都の出」と笑った。彼は王都で商って古都で老い、その間にきっと何かを写した。それは贋作ではない。起源の複数性。私は「写しの真正」を書き、贋否ではなく「伝来の整合性」に重心を置いた。先輩が帰り道に言った。「あなたの『偽じゃない』は降伏じゃなく、再分類ね」
「分類で救えるものがある」
「分類で傷つくものもある」
「だから、札の言葉を決める人間に、倫理が要る」
私の名札は、その会話のあいだ、胸で軽く震えていた。Rの足が布に引っかかり、ほんの少し糸が出る。私は指先で糸を切らず、裏に織り込んだ。欠けは履歴。履歴は、読みやすく整えて残す。
*
ある夕暮れ、広報の青年が私の机に駆け寄ってきた。「レーナ、今朝の“保留”の件、王都の古文書局が『参照させてほしい』って。古都式の紐と筆癖のズレ、他にも事例がないかと」
「提供します。ただし、『断定の言葉』は貸し出し不可」
「断定、不可?」
「仮説だけ。結論はそれぞれの机で」
青年は目を瞬き、それから笑顔で「了解」と言った。私は「言葉の貸出規定」を小さく書いて机の端に貼った。〈断定:館内のみ参照可/仮説:相互貸出可〉。言葉にも貸出規定を。規定は、名札の裏側に印刷してもいいくらいだ。
夜、館の裏庭でノエルと短い散歩をした。夏の匂いが土から立つ。樹影が長く、蝉の声はまだ来ない。
「名札、似合ってます」
「ありがとう。四文字の重さに慣れた」
「肩書きを脱いだ人は、最初に寒さを覚える」
「寒いのは嫌いじゃない。温度管理の練習になる」
ノエルは頷いた。「君の名札は鍵だ。誰かの目に見せるためではなく、自分の扉を開けるための」
「今日、ひとつ扉が増えた気がする」
「どの扉?」
「『結論を遅らせる』の扉」
「いい扉だ。蝶番がしっかりしている」
「時々、うっかり施錠し忘れる」
「合鍵を作っておきなさい」
彼の言葉に、私は短く笑った。第六話で作った合鍵が、机の引き出しの中で小さく鳴る音がした気がした。合鍵は逃げ場ではなく、選ぶ場を守る道具だ。遅らせることを選ぶ場を、私はこの夏、何度も開けるだろう。
*
学期末に塔で封緘した手紙は、夏のあいだ、引き出しの奥で静かに重かった。重い日は、名札に触れて重みの行き先を変えた。名札は重さの分配器だ。RENAの四文字に、私の一日の重さが少し移る。移したぶん、紙に触れる指の力が一定に戻る。指は、紙に嘘をつけない。名札があると、嘘をつきにくい。名札は、肩書と違って、誰の物語にも裏打ちされていないからだ。嘘で厚みを出すことができない。厚みは、やった仕事でしか増えない。
五週目の終わり、先の「重要史料」の件に続報が来た。古文書局との共同で、綴じ紐の撚りと筆癖のズレを統計的に整理した結果、「写しの過程での紐交換」の可能性が高いとされた。つまり、贋作ではない。原本の背が破損し、写しの段階で古い紐を別系統から持ってきた――歴史の台所仕事だ。私は安堵し、同時に自分の遅延が「正しかった」のではなく「正しく“ない”と言い切るのを遅らせた」だけだと確認した。事実の側に立つとき、私は自分の名札が少し誇らしかった。家名ではなく、肩書でもない、その日付と四文字の重み。
「君の札、傷増えた」とノエルが指さした。
「増やしてるの」
「収集癖」
「傷は、名札の履歴。履歴は他人に見せるためじゃない。自分が翌朝もこの四文字で仕事を始められる程度に、整える」
彼は頷き、ほんの少しだけ距離を詰めて言った。「君に“役職”が付く日が来ても、札は変えないといい」
「付いた肩書は“取り外し可能”にします」
「賢明」
その会話はそれ以上膨らまなかった。同僚でいることと、好意を持つことは、同時に成立するが、混ぜると品質が落ちる。私は“混ぜない勇気”も、夏のコレクション棚に追加した。
*
ある日の終業間際、史料院の副司書長が小さな木箱を私の机に置いた。箱の蓋には焼印で〈実習・RENA〉。縁が少し焦げ、金具は控えめに光る。
「夏の前半の評。目録、貸出、真正性の判断、いずれもよくやっている。特に“保留”の運用が良い。――中に名札が入っている。好きに使いなさい」
蓋を開けると、磨かれた木の台座と、差し替え可能な小さな金属片が三つ。ひとつはRENA。ひとつはRENA・記録補。ひとつはRENA・現場。肩書は「差し替え式」。私は笑って、最初の片だけを台座に差し込んだ。RENA。四文字だけの札が、木の台座の上で自立する。机の右上に置く。その小ささに、胸がすっと広がった。名札は「見られるため」ではなく、「見るため」に置く。自分を見るため、机を見るため、今日の仕事を見るため。
「小さな“さよなら”を言える人に、現場は静かに味方する」
副司書長はそう言った。「『早く』『もっと』『全部』に“さよなら”を言えると、仕事は長持ちする」
「“さよなら”は鍵です」
「鍵は扉を選ぶ権利。君はそれを持っている」
木箱を閉じ、私は名札に視線を落とした。新しい名札は鍵だ。鍵は、職能としての私の扉を開ける。家名に頼らず、学院名に寄りかからず、肩書で飾らない四文字。扉の向こうで待っているのは、拍手のない作業と、音のない合図。私はそれを好む。
夜、寮に戻って机の配置を少しだけ変えた。新しい名札がすっと目に入る位置――視線の端で拾える高さ――に置き直す。窓からの風が札の角を撫で、四文字の輪郭を冷やす。冷えた金属は朝に温める楽しみを持っている。私は封緘した手紙のある引き出しに鍵をかけ、合鍵を掌で温めた。名札と鍵。札は外へ見せるために、鍵は内へ渡すために。二つは隣に置かない。間に空白の一マスを置く。空白は、衝突を防ぐクッションだ。
灯を落とす前、私は名札に向かって短い文を声にしないで置いた。
――RENA、明日もあなたでいること。
名札は返事をしない。返事をしない相手に向かって誓う言葉は、銘刻になる。銘刻は、紙より長持ちする。私は寝台に入り、胸の内側で最小単位の拍手を一度だけ畳んだ。夏の夜の空気は厚く、けれど名札の周りだけ、薄い風が通っている。新しい名札は、鍵。鍵は、私の手の温度で回る。扉は、明日もある。私は明日、RENAとして出勤し、RENAとして“保留”を選び、RENAとして“遅く”を置き、RENAとして“しない”を集めるだろう。集めた“しない”の隙間に、“する”が芽吹く。芽吹いた“する”は、私が選んだ仕事だけだ。拍手の音はなくても、音のない合図が、机と棚と札のあいだで、確かに響いている。




