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好きな人の“好き”を、私は尊重しない自由を選ぶ  作者: 妙原奇天


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第7話「告白しない告白」

 学期末の鐘は、塔の石壁に沿って滑り落ちるように鳴った。空気は夏の手前で止まっていて、風はまだ細い。私は屋上の縁まで歩き、古い胸壁に背を預ける。指先に石灰の粉が移り、白い粉は爪の縁に沿って細い月になる。鞄から封をした手紙を取り出した。封蝋は灰青。印章は、鳥とも花ともつかぬ抽象の渦。差出人も宛名も、表面には書いていない。裏面の端にだけ、小さく――〈ユリウスへ〉。

 

 中身は空白だ。紙は三枚入っているけれど、どれにも文字はない。言葉を欠くことそのものが、告白になるように。私があなたを好きだった時間、あなたの幸福を願った節々、そのたびに私の幸福を置き去りにした交差点――全部を書けば紙が足りない。紙が足りないと言い訳して、実は言葉が溢れるのが嫌なのだと知っている。だから書かない。封緘だけが事実。封は、音がしない誓いだ。鍵穴に鍵を差し込む前の、手の温度だけで交わす意思表示。私は封蝋の縁を親指で撫で、蝋の冷たさが肌の温度でほぐれるのを待った。


 階段の上に、靴音が一段ぶんずつ現れる。ユリウスだ。彼の足音は、子どもの頃から、踏み外しがない。躊躇えば止まり、決めれば迷わない。背の高い影が屋上に生まれ、風が少し強くなった。彼は私を見る前に空を見た。目の前の空は薄い錫色で、鳥が二羽、雲の手前で弧を描く。彼は相変わらず、入り方がいい。


 「終わったな」


 「終わったわ」


 それだけで、今学期のすべての小さい重みが互いの足元に分散された気がする。私は封筒を彼に渡さない代わりに、見せた。風が封筒の角を持ち上げ、印章の渦が一瞬だけ光る。


 「これは、出さない手紙」


 ユリウスは眉を寄せた。彼の眉は思考の丁番だ。理解が追いつかないと音もなく締まり、解けると静かに開く。「それは……告白、なのか?」


 「告白をしない自由の証明」


 私は首を横に振った。風が髪の輪郭を崩す。彼は黙って、封筒から視線を私の顔に戻す。その顔は、私がよく知っている。誠実で、努力家で、少し鈍い――鈍さは、悪徳ではない。電球に必要なフィラメントの厚みみたいなもので、その鈍さが、彼の優しさを焦がさずに灯す。


 「出さない手紙を、見せる?」


 「出さないことを、知ってほしいの」


 言いながら、胸の内側で沈黙の桶を一度だけ持ち上げる。噂の火は今はここまで来ていない。ここは高い。高い場所のほうが、火の勢いは読める。私は桶を屋上の真ん中に置き、風の流れを感じる。酸素の向き。延焼の方向。何も置かない、という選択に伴う責任を、息で計る。


 「中身は?」


 「空白」


 「空白か」


 彼は小さく笑った。肩がほんの少し落ちる。寂しさと、理解が半分ずつ混ざった笑いだ。彼は半年のあいだに、誤魔化さない笑い方を覚えた。遅いが確実な筋肉が、顔の内側に付いたのだと思う。


 「君は君のままでいてほしい」


 「ありがとう。あなたも、あなたのままで」


 返しながら、自分の言葉が滑らかすぎるのを自覚する。滑らかさは時々、真実の角を削る。だが今日の角は、削ってもいい。ぶつけないほうがいい角もある。


 「俺は、たぶん、君に“待っていてほしい”と言う準備をしてきた」


 彼は風から目を逸らさないで言った。「でも、その手紙を見て、言わないことにする」


 「それは、いい選択」


 「いい選択かどうかは、あとで決まる。君が決める。俺は、俺の宿題をやる。……二拍三連も」


 彼は笑い、わざと軽口に逃げない声で続けた。「それから、噂のこと。俺、二回しゃべりかけて、一回噛んだ。君の“沈黙の桶”、たぶん、見えてきた」


 「噛むのは上等よ。沈黙は滑舌より難しい」


 「練習する」


 私たちはそこで一度、会話を置いた。置いた場所を覚えておく。拾いに戻る必要がある会話と、そのまま風に解く会話は、見た目が似ている。私はポケットから小さなカードを取り出し、封筒の下に滑り込ませた。カードには短い文だけ――〈開封は、私ひとりの権利〉。カードの角が封蝋に触れ、軽い音がした。


 「出さないなら、預かろうか」とユリウスが言う。冗談に見せかけた本気だ。彼は誰かの荷物を預かる筋肉がよく発達している。


 「これは、私の筋肉で持つ」


 彼は頷いた。頷いてすぐ、二歩だけ後ろに下がった。距離を取る筋肉も、少しだけ付いたのだと思う。風が私たちのあいだに入ってきて、封筒の蝋を冷やす。蝋は温度で硬さを変える。感情の蝋も同じだ。熱いと柔らかく、冷えると固い。固い蝋は、無理に折ると割れる。だから温度の管理がいる。これは文庫で覚えたことだ。恋にも応用できる。


 「夏は、どこへ行く?」


 「長期実習。史料院から、郊外の小史料庫に派遣が来た。水車の村の、古い納屋を改装した場所。湿度が高いから、紙の機嫌を半年で完全に掴めるらしい」


 「半年で完全? 強気だな」


 「広告文句はだいたい強気」


 彼は肩をすくめた。「俺は夏、舞踏団の地方巡業に帯同する。『群青の間奏』のツアー。二拍三連は、庭で練習しておく」


 「庭は、“散歩(必須)”のコースに入れておくわ」


 「散歩の相場は三十分?」


 「今期は四十五分に値上げ予定」


 「商人」


 笑いが、胸壁の上で跳ねた。跳ねた笑いは、石の表面で丸くなる。私は封筒を胸の前に戻し、踵を返した。「先に降りる」


 「……ああ」


 階段口へ向かう足取りは、軽くもしないし、重くもしない。足裏に石の目を確かめる。段差の端を踏まない。踏み外さない。塔の階段は、降りる時ほど危ない。上る時は呼吸が促してくれるが、降りる時は油断が背中で伸びる。私は手すりに指先だけ触れ、振り返らずに階段を降りた。背中に風が当たる。風は背中を押すだけで、背中を撫でない。撫でない風はありがたい。


 *


 記録室に戻ると、ノエルが机の上に貼紙を一枚、斜めに置いていた。〈夏季・外部実習者向け連絡票〉。日程、宿舎、持参工具、質問の欄。欄外に小さく書き足し――〈“個人的に重い封筒”は、日陰に置くこと。蝋は熱に弱い〉。ノエルの字だ。私はペンで丸をつけた。


 「屋上は、風がいいでしょう」


 「いい。蝋が固まる温度」


 「封は、開けないための技術です」


 「開けるのも技術」


 「どちらも、練習がいる」


 彼の言い回しは相変わらず押し付けがましくない。私は封筒を机の引き出しに入れ、上に薄い紙を一枚かけた。見えると、触りたくなる。触らない練習に、紙一枚が役に立つ。紙は、距離を作る最小単位だ。


 「実習先の環境、少し厳しいらしい」とノエル。「湿度が高く、虫が多い。けれど、紙の“可動域”の勉強には最適」


 「可動域」


 「人も本も、無理をさせない曲がり方がある」


「分かるようになってきた」



 「分かる前より、疲れますよ」


 「種類のいい疲れなら、歓迎」


 ノエルは頷いて、机の端に小さな箱を置いた。「出発祝い。『封緘用道具の小箱』」


 箱の中には、細い蝋、小ぶりの印章、紙やすり、封を剥がすときに使う細刃が入っていた。印章の柄は木で、頭に抽象の模様。私の印章と似ているが、頭の形が少し違う。ノエルは説明に短い言葉を足す。「封は“固いほど強い”ではない。蝋の質と厚み、紙の繊維、温度。ちょうどよくないと、誰の手にも渡らない」


 「封を、誰の手にも渡らせないためにすることがある」


 「その時は、封を二重に。けれど、二重は必ず二通り――“同じ封を重ねる”ではなく、“封の意味を重ねる”。物理の封と、倫理の封」


 私は頷いた。「ありがとう」


 「それと――」ノエルは声を少しだけ丸める。「出さない手紙を持って歩く日、重く感じたら、置いていきなさい。重いのは、善意の泡が残っているから」


 「泡は、先に掬う」


 「ええ。泡立て器はいりません」


 二人で笑い、私は連絡票に必要事項を記入した。宿舎の希望は「窓のある部屋」。備考欄に「鍵の持ち込み可」とメモ。実習先の管理者が笑うだろう。鍵は持ち込み禁止の類いではないけれど、書くことで自分に合図を出す。私の物語は、鍵に沿って進む。封を固めるのも鍵、封を温めるのも鍵。


 *


 夕刻、アナスタシアからの短い便箋が寮に届いた。筆致はいつもどおり。扇の骨は修理が済んだらしい。文末に一言――〈封をしない扇は、ただの紙束。封をしすぎた扇は、開かない扇。舞台は、ほどよい封〉。彼女の言葉は、比喩として正確だ。私は便箋を封筒の上に重ね、一度だけ指で叩いた。拍手ではない。紙同士が出す、音のない合図。


 夜。部屋の間取りは昨日のまま、私の動線が少し洗練された。棚から史料箱を出し、ラベルを貼る。――〈夏季実習用/開封予定未定〉。未定は怖い。怖いを棚に載せる。載せると、戻せる。戻せると、怖いは飼える。飼えると、ときどき可愛い。可愛いは油断の親戚だから、撫で過ぎない。


 机の隅に、合鍵の小袋。袋の中に、封緘した手紙の小袋。二つの袋が触れ合わないように置く。封と鍵は、隣に置くと喧嘩をする。鍵は開けたい、封は閉じたい。意志が互いを消耗させる。間に空白の一マスを置く。空白は、不仲の調停役。


 ランプを絞る前、私は封筒を取り上げて、表面の空白に向かって、小さく会釈をした。空白は、侮らないほうがいい。空白には重さがある。重さは手を鍛える。私は封筒を戻し、引き出しを閉め、ラッチの音を聞いた。いい音。鍵の音に似ている。過不足がない。


 *


 学期末の最終日、塔の屋上で私たちは別々に階段を降りた。彼は西の光へ、私は東の影へ。同じ塔から別の斜面に降りるように。胸の中で、小さな“さよなら”が形を持つ。言葉にならない言葉。言葉にしてしまうと、厚みの足りない別れになる。空白には、厚みがある。厚みは時間を含む。時間は、私の味方だ。味方にするための手順を、私はこの半年で覚えた。


 その夜、史料院から正式な辞令が届いた。〈夏季長期実習・郊外小史料庫――記録・保存補助〉。末尾の欄外に、担当官の手書きの一行――〈封緘は、仕事にも生活にも有効。だが、開封の権利を忘れずに〉。私は便箋を封筒に戻し、封をしなかった。開けておく封もある。開けておく封は、風で飛ばないように文鎮で押さえる。文鎮は父の工具箱から借りたもの。表面に小さな傷があり、光の筋が一本走っている。傷は、使い途の履歴だ。履歴を持つ道具は、信頼できる。


 窓を開けると、夏が少しだけ近くなった匂いがした。砂に水をかける前の匂い。私は胸の内側に拍手の最小単位を一度だけ畳み、灯を落とした。封緘した手紙は、引き出しの中で静かに重く、けれど私の寝息には干渉しない。封は、重しではなく、境界だ。境界は、帰路の目印。鍵は、境界を越えるための許可証。次の扉は、夏の長期実習先。扉の前には、風が通る。風は、蝋を冷やす。蝋がちょうどいい硬さであるうちに、私は眠る。明日の朝、鍵を掌で温め、封の縁を指で撫で、選ぶ。開けないこと、開けること、その両方を。

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