第6話「家の間取りを変える」
机を窓際から壁際へ移した。窓は東向きで、朝の光が卓上をまっすぐ貫いてくる。その光は舞台袖の視界を与え、私はいつも「誰が動き、どこが滞るか」を見てしまう。便利な癖だが、今の私には不要だった。外を眺める席はいったん退く。壁に面した机は、視線の跳ね返りが少ない。紙と向き合う。紙だけと向き合える。
床にハトメの跡が点々とある。以前の本棚を固定していた名残だ。そこへ新しく背の高い棚を導入する。王都史料院で使われる標準箱の寸法――横三十、縦二十、高さ十五――を考慮して、棚の桟の間隔を指で測って印をつけた。箱がすっと入る余白を一センチ余らせる。余白は埃だけでなく、息の通り道でもある。箱は呼吸しないが、紙は呼吸する。「乾いた紙」という言い回しがあるけれど、実際は呼吸の仕方が上手い紙のことだ。私は膠の匂いが移った指で、棚板の木目を撫でた。
暮らしの動線を変えるのは、思考の動線を変えることだ。入口から机までの距離、寝台から棚までの歩数、洗面台から窓へ抜ける風の通り道。私は紙に四角を描き、小さな矢印で「ここで立ち止まる」「ここで回れ右」と自分の行動を書き込んだ。日常の舞台監督を自分一人に戻す。誰かのためでない導線は、迷いを削る。
母は黙って見ていた。部屋の敷居に手を添え、足先を半歩だけ内へ入れた姿。しばらくして、あの人らしい簡潔さで言う。
「あなた、表情が凛としてきたわね」
ほめ言葉の形をしているが、観察の報告だ。私は礼を述べる。「ありがとうございます」。言葉の角度を四十五度に落とす。母の視線が棚と机と私の顔を往復する。
「家の手伝いの範囲を、明文化したいの」
はっきり言うと、母はまぶたを一度だけ遅く閉じ、また開けた。驚きは短い。「書いてみなさい」
私は机に座り、便箋の余白に見出しを置いた。〈家内協力の枠組み(暫定)〉。箇条書きは短く、しかし退路は作らない。
――週二回の買い出し(市場一往復、重い荷は手押し車で/代替不可、日程は前週に合意)
――月一の親族会議の同席(記録および議事整理/発言は必要時のみ)
――それ以外の時間帯は「自修の不可侵」(室内の出入り、呼び出しは事前申請制)
「不可侵」という言葉が強すぎるか、と一瞬迷い、横に小さく注記を添える。〈“不可侵”は“非協力”を意味しません。救急・緊急は別枠〉。母は紙を読み、唇の端を少しだけ上げた。
「言葉が硬いわ」
「硬い言葉は、音で丸めるわ」
「あなたは昔から言葉で手すりを作る」
母はそう言って、窓の錠を確かめた。薄く鍵の油が光る。子どもの頃、私はその匂いが好きだった。金属と油の匂いは「準備」の匂いだ。母は窓から視線を戻し、笑った。残念そうに、けれど承認の温度で。
「いいわ。承認します」
そして、少し悪戯っぽい口調で付け足した。「合鍵を作りなさい。自分の部屋のだけど、未来のために」
私が瞬きをするのを見て、母は肩をすくめる。「鍵は、いちど失ったときに困るもの。あなたが自分の時間の鍵をやっと手に入れたのなら、予備は要る。未来で怖くなるのは、だいたい夜。夜は誰かに頼る前に、自分で扉を開けられるようにしなさい」
母は部屋を出た。足音が廊下の奥で消えて、私は窓の枠に手を置いた。鍵の金属が、体温で少し温かい。合鍵。誰かに渡すためではない合鍵。未来の私に渡すための鍵。
*
家具の移動は、思ったよりも肉体を使った。背の高い棚を設置し、金具を壁の下地に噛ませる。椅子の脚にフェルトを貼り、床の音を柔らげる。寝台の位置を十センチずらしただけで、目覚めたときの視界が変わる。朝の光は以前より斜めに差し込み、机の白紙を滑る光の角度が優しくなった。光は紙面の手触りだ。光を管理できると、紙が機嫌を直す。
段取りが一巡した頃、玄関のチャイムが鳴いた。小さな音。気配は薄いが、丁寧さがある。扉を開けると、ユリウスが立っていた。手ぶら。余計な贈り物を持たない来訪は、好感が持てる。
「間取りを変えると聞いて」
「噂は早いわね」
「いや、サーラが『レーナが机を壁に向けたらしい。たぶん世界が変わる』と」
私は笑った。サーラの誇張は悪意がない。世界はそんな簡単に変わらない。でも、机は世界に向ける顔を変える。
「手伝おうか?」
「ありがとう。でも、これ、私の仕事。私の筋肉で疲れたいの」
ユリウスは頷き、靴音を立てずに一歩だけ下がった。「じゃあ、見学料として一言だけ。棚の上段、箱の前に指一本ぶんの空隙を残すと、出し入れが楽だ。剣の鞘と一緒」
「採用」
彼は軽く会釈して帰った。彼の「手伝おうか?」は、昔の私なら受け取っていた。受け取って、自分の負担を目減りさせ、その代わりに返礼の義務を背負っていた。今は、受け取らない。返礼は“交換契約”の枠でやる。好意を構造化することは冷たさではなく、事故防止だ。
*
夕刻、王都の職人工房通りに出かけた。鍵屋は通りの角、古い鐘の舌を磨く職人の真向かいにある。扉の上に吊られた真鍮の鍵が風に揺れて、涼しい音を出す。小さな店内には鍵の型が壁いっぱいに並び、金属の冷たい光が沈んでいる。
「合鍵を一本」
「どれを複製します?」と、店主は丸い眼鏡越しに私を見た。目は年季の入った工具みたいに落ち着いている。私はポケットから部屋の鍵を出し、差し出す。店主は鍵の歯を光にかざし、角度を二度変えて見た。
「丁寧な歯だ。誰が削った?」
「父です。昔」
「いい手。歯の端に少し遊びを残している。抜き差しが優しい。――同じように作りましょうか」
「お願いします。ただ、歯の一本、ほんの少しだけ深く。未来で怖くなっても、回るように」
「怖い時の鍵は、手汗で滑りますからね。柄に目の粗い革を巻きましょう」
店主は鍵の材を選び、台に固定し、金属の痕跡を音に変えた。削る音は、紙をめくる音の親戚だ。私は作業台の端で、その音に耳を澄ませた。合鍵は、誰かに渡すためではない。いつか「怖くなった私」に渡すため。記録室で知った――「怖いは、飼うと愛着が湧く」。愛着が湧きすぎたら、鍵で部屋に戻す。戻せる場所を作る。戻すための手順を、今、準備する。
店主は鍵を磨き、革を巻き、試しの鍵穴に差し込んでゆっくり回した。ラッチが控えめな音で応える。「いい音だ」
「鍵の音に“いい音”があるの?」
「ありますとも。歯が鍵穴の小さな山を越える音。過不足がない。過不足がないものは、音まで正確になる」
私は代金を払い、領収札にサインをした。値札の感覚が身体に残っている。支払いは相場。相場を侮らない。店主は革の小袋を渡した。「夜に冷える鉄は手を驚かせます。温めてから使いなさい」
「ありがとうございます」
店を出ると、通りの空気が少し冷たく、夜の気配に金属のにおいが混ざっていた。私は合鍵の入った小袋を握り、ポケットにしまう。鍵はポケットの中で温かい。体温が「準備」の匂いに変わる。
*
家に戻ると、母が台所で鍋の底を木杓子で撫でていた。火は弱く、湯気は穏やか。夕食の香りが廊下に漏れている。私は合鍵を取り出して見せた。
「作ってきたわ」
母は頷き、小さな箱を持ってきた。蓋を開けると、布の仕切りに細い紐と札が数枚入っていた。羊皮紙。文庫の値札と同じ手触り。
「鍵に札を付けるといい。“返却する”“貸出中”“緊急用”。台所の引き出しに『緊急用』をひとつ、あなたの机に『自分のため』をひとつ。残りは箱に」
「札にも名前が要る」
私は札の裏に小さく書く。
――自分のため(不可侵)
――緊急用(家族共有)
――貸出中(期間明記)
鍵に紐を通し、札を結ぶ。紙の重さが鍵に礼儀をつける。私は「自分のため」の鍵を自室の壁に打った小さな釘にかけた。釘の頭が月の光を少しだけ返す。
「家の手伝いの範囲、さっきの書き付け。親族にも回しておきなさい」
母の声には熱がないが、芯がある。私は「はい」と答えた。家族の期待は、優しい拘束具だ。拘束具を否定しない。必要な支えなのだと認める。そのうえで、留め具の位置を自分で決める。緩めたり締めたりする権利だけ、返してもらう。合鍵はそのための道具だ。
「夕食のあと、親族会議の資料、ここに置いておくわ」
「ありがとう。議事録のテンプレート、作っておく」
母はスープ皿をテーブルに置き、微笑んだ。「あなたの凛とした顔、父が見たら、ひどく喜ぶでしょうね」
父の名が出ると、胸が少し痛んだ。父は旅先の仕事で、家を長く空ける。鍵の削り方を教えてくれたのは父で、歯の端に「遊び」を残すのがコツだと言っていた。遊び。今の私は、遊びを予定に刻んだ。空白の一マス。鍵の歯にも、空白は要る。
*
夜。机の上に、合鍵を置く。羊皮紙の小札が、鍵の柄に触れて音を殺す。私はランプを絞り、封筒を取り出した。差出人欄は空白。宛先も空白。本文は短い。
――いつか怖くなった私へ。これはあなたのための鍵です。逃げるためではなく、選ぶために使ってください。
手紙を折り、鍵の袋に一緒に入れる。誰かに渡すためではない儀式は、静かに身体に沁みる。私は袋を引き出しにしまい、もう一本の鍵――「緊急用」のほうを台所の引き出しに移した。家全体の動線にも鍵を置く。家族のための空白も、鍵で守る。
戻る途中、廊下でアナスタシアからの紙片が床に落ちているのを見つけた。扉の隙間から滑り込んだのだろう。拾い上げて開く。
――合鍵を作ったとサーラから。わたしも一本、合鍵を持っているの。舞台の裏扉の鍵。誰にも渡さない。逃げるためではなく、休むため。いつか、交換しましょう。見せるだけ。渡さない交換。
私は笑って、紙片を机の引き出しの端に重ね、薄く鍵の絵を描いた。交換は契約。契約は境界。境界は、礼儀だ。礼儀は、疲れを軽くする。
合鍵をもう一度手のひらに取り、目を閉じる。鍵の歯の段差が指腹に触れ、今日動かした家具の重さが腕に残っているのを感じた。暮らしの間取りを変える作業は、部屋の景色だけでなく、心の家具の位置も変えた。罪悪感の椅子は壁際へ。良い顔の飾り棚は解体。「散歩(必須)」のベンチを窓際に置き、沈黙の桶を玄関の傍に。値札は、棚の縁に整然と並ぶ。時間割の隅には、空白の一マス。鍵穴の位置が、記憶に刻まれていく。
寝台に腰を下ろし、深く息をした。扉に視線を向ける。ドアノブの金属がランプの残光を返し、合鍵の影が薄く重なる。影はふたつ。私の鍵と、未来の私の鍵。ふたつが重なる地点に、選択の気配が立つ。
小さな“さよなら”は、家の中の“いつもの私”。いつもの私が勝手に受け取っていた用件、いつもの私が反射でやっていた笑顔、いつもの私が夜更けに抱えていた皿の枚数。皿は今夜、数を減らした。減らしたぶん、棚に空きができた。空きは、恐れでもあり、自由でもある。自由は、鍵がなければ散る。鍵は合鍵。開くのは、逃げ場ではなく、選ぶ場だ。
灯を落とす前に、時間割を更新する。〈家内協力の枠組み〉の下に、小さく追記。
――合鍵の所在:自室/台所(緊急)/母。貸出は期間明記。返却遅延は「声」で通知、責めない。鍵は人を責めない。
記し終え、ランプを吹き消す。暗闇の中で、鍵の金属が少しだけ冷える。冷えるぶんだけ、朝に温める楽しみも増える。私は合鍵を枕の下には置かず、机の端に戻した。ごく短い拍手を胸の内側に畳み、目を閉じる。扉の向こうに広がる廊下は、今日から少し広い。明日は、扉を回す練習をもう一度。鍵穴は、逃げ道の反対側にも、在る。選ぶための方向に。




