第5話「推薦状と対価」
推薦状は、次の手すりになる。掴める高さの段差を、転ばずに超えさせてくれる。けれど、手すりは無料ではない。設置にも、維持にも、握りしめる手の筋肉にも、必ず対価が生じる。
王立文庫からの推薦状が届いて三日目、私は王都史料院の仮採用窓口に呼ばれた。臨時雇い――期末までの短期。業務内容は「搬入記録の清書と目録の補助、軽作業中心」。文言は軽やかだが、期末前は何事も詰まりがちだ。詰まりは軽作業を重くする。私は境界線の地図を机に広げ、時間割の余白と見比べ、脳内の棚から小さな札束を取り出した。値札。私自身に貼るための値札。
――私の労力:高値。
――人の期待:相場。
――罪悪感:在庫処分。
手放しがたい“良い顔”は、往々にして赤字の源泉だ。値札がないと、心はすぐ叩き売りを始める。叩き売りの声は景気が良さそうだが、棚は空になる。補充のコストは高い。私の体力、集中力、睡眠。仕入れの手間は、店主しか知らない。
史料院の面接室は、石造りの建物の一階、南向きの窓が二つ。光は控えめ、机はどっしり、紙は厚手。担当官は髭を整えた初老の男性で、声に紙の耐久度みたいな弾力があった。
「君がレーナ・グランツ嬢か。王立文庫の推薦状、拝見した。『観察・推定・介入最小化の三原則に誠実』――よい。ここでは“最小化”が嫌われることもあるが、私は好きだ。余計な修飾は後世の邪魔になる」
「ありがとうございます」
「授業との両立は可能か?」
「可能にするための条件を事前に決めます。週あたりの勤務時間は八時間まで、期末前二週は四時間までに減らせること。急な呼び出しは禁止。持ち帰り作業は、原則なし」
担当官は眉を上げ、すぐに戻した。「値札を貼って来たな」
「はい」
「よろしい。こちらの希望は、搬入記録の清書を今月中に終えること、それから来月の“巡回史料箱”の準備。机は二階の窓際が空いている。賃金は……相場どおり。追加の手当はない」
「わかりました。私は私の労力に高値を付けています。なので、時間内で最高の仕事をします。その代わり、値段以上の在庫放出はしません」
担当官は口の端で笑った。「商人の言い回しだ」
「商人みたいだ、とよく言われます」
「史料の商いは、地味でいて光栄だ。ようこそ」
握手は短く、固さは過不足なかった。私の掌に残る圧力は、値札の裏面の糊のように、仕事の現実を静かに貼り付けた。
*
学院へ戻る途中、アナスタシアに会った。正門前の花壇、白いスズランの列。彼女はしゃがんで、花の梗を一本だけ横へずらした。花は群れで美しいが、群れの中の一本が呼吸しづらいと群れ全体が濁る。そんな身振り。
「あなた、最近きれいね」
毒のない笑顔で言う。「やつれていないのに、顔の線が締まった。疲労の種類が変わったのね」
「見える?」
「舞踏会の夜、あなたが拍手を置いていった時から。疲労にも品種があるわ。『承認待ち疲労』は顔の周縁に出る。『自分の選択疲労』は中心に出る。中心で熱を出す人は、きれい」
言い草は舞台の台詞みたいだが、確かに身体は違う方角で疲れている。人の目を気にしてへとへとになるのではなく、自分の筋肉で疲れる。筋肉痛は、悪くない。
「史料院から臨時の打診が来たの」
「行くの?」
「行く。値札を貼って」
「値札のついた女は、好きよ」
「値札のない女は?」
「高価すぎるものは、買えない。安すぎるものは、怖い」
私は笑って頷いた。彼女の扇の骨の件は、来週の“余白”にまだ載っている。
*
放課後、《王立文庫》地下作業室へ顔を出すと、ノエルが温湿度計を指で弾いていた。
「史料院、決まったんですね」
「うん。週八時間、期末前は四時間」
「よかった。条件づけは、仕事の倫理です。自分の値札を先に貼ってきた人は、ここでも長持ちします」
ノエルは小さな箱を指さした。「君に渡したいものがある。『値札の束』」
箱の中には、薄い羊皮紙で作られた札が幾枚も入っていた。細い紐を通す穴があり、片面に金具で「□」「△」「×」の三種の刻印。裏面には白紙の欄。
「文庫で使う“介入度”の札を、生活用に転用すると便利です。□は『相場』、△は『様子見』、×は『取り扱い注意/在庫処分』。表に刻印、裏に具体を書く」
私は一枚をつまみ、裏に細字で書いた。
――人の期待:□(相場)。返せない恩義は契約に置き換える。
もう一枚。
――罪悪感:×(在庫処分)。抱えず、棚に上げ、“在庫一掃セール”で流す。
最後に。
――私の労力:□→□+。基礎単価は相場、熟練で少しずつ上げる。
ノエルは頷いた。「相場は大事です。相場を否定すると孤立する。だが相場に溺れると、自分を見失う。小数点を動かす権利は自分にある」
値札の束をポケットに入れると、不思議と背筋が伸びた。札には、札としての重みがある。自分が自分の商品である、という冷たすぎる言い方を避けるなら――自分の時間が店の棚に並んでいる、くらいの距離感がいい。
*
初任の日。史料院の二階、窓際の机。窓の外には石畳の道と、馬車の車輪の跡。机の上には、搬入記録の束と、古い目録の綴り。筆記具は鉄筆、墨は薄茶のインク。紙は布入り。机の右上に、私は自分の値札を三枚、裏が見えないように伏せて置いた。伏せて置くのは、私だけに見えるため。
勤務開始、すぐに分かった。記録の“軽作業”という名の現場には、軽い瞬間と重い瞬間が混ざる。荷車が遅れれば、記録台は滞り、滞りは人の声を尖らせる。「それ、先に」「いや、こっちが」「いやいや、やっぱり」――矢印の乱れ。私は呼吸を整え、自分の札の位置を確認した。□、□+、×。それから、現場の空気にもう一枚の札を足す。
――緊急:△(様子見)。反応ではなく、観察。
私は最初に「入口」の意味を確認した。史料が納められた木箱の、最初に視線が触れる面。そこに貼られた搬入票が、既に間違っている場合がある。差し替えのルールは簡易に書かれてあるが、誰の責任かが曖昧だ。曖昧さは声を大きくし、声の大きさは正しさに見える。そこで、私は道具に頼る。
「搬入票、ここで一度スキャンして控えを取ります。原本は箱に戻して封。差替は控えに対して実施。原本は後で照合。この手順に変えませんか?」
提案を、担当官に短く出す。反論が来る想定で言い切りにしない。担当官は目を細め、「試せ」と言った。私は淡々と機械を運び、控えを作る。声の棘が少し丸くなった。誰かの人格に頼らず、仕組みに寄る。文庫で学んだやり方が、ここでも有効だ。仕組みが回り出すと、人の良い顔は減る。良い顔を売らなくても、現場が滑る。これは嬉しい“失業”だ。
午後の休憩、窓際で麦茶を飲んでいると、隣の机の女性が話しかけてきた。灰色のジャケット、指に小さな墨のしみ。「あなた、新人?」
「はい、臨時の」
「いきなり提案とは胆が据わってる。見てたわ。あの差替ルール、前から面倒で。『皆のため』って言いながら、実は誰か一人の勘で回してた」
「勘は尊いです。でも、運用は仕組みに貼ります」
「商人みたい」
私は笑った。「よく言われます」
休憩の終わり、担当官が机に封筒を置いた。「初日の手当だ。半日分、相場どおり」
封筒は重くない。けれど、手のひらの中心に、硬い重みが落ちる。紙幣の重みではなく、関係の重み。私は封筒の上に掌を一度置き、胸の内側で値札を一枚貼り直した。
――報酬:□(相場)。受け取る。受け取り損ねない。
受け取り損ねは、あとで大きくなって戻ってくる。受け取ることにも筋肉が必要だ。私は封筒を鞄に入れ、深呼吸をした。
*
その夜。寮の部屋に戻って、机の上に小さな値札の束を置いた。羊皮紙の指触りが、今日の現場の温度を連れてくる。私は札を三枚机の真ん中に並べ、裏に書き足し、順番に紐で綴じる。
――私の労力:高値。基礎単価は相場、熟練に応じて徐々に単価上げ。値上げの告知は一週間前、言葉は短く、礼は長く。
――人の期待:相場。恩義の勘定は別帳簿へ。返礼は“交換契約”に変換。口約束の利率は高すぎる。
――罪悪感:在庫処分。棚卸し日に処分。処分しきれない分は“保留箱”に移し、翌月の空白に回す。
札を綴じる手は、昨夜より速い。速くしていい作業だ。遅いほうが良い作業と、速いほうが良い作業。それを見極めるのも、値札の仕事。私は最後に、机の端に札を一枚貼った。
――良い顔:×(投げ売り禁止)。割引しない。抱き合わせ販売しない。
「良い顔」は、危険な商品だ。仕入れ元が不明、仕入れ価格が不明、なのに売り先が無限。売るほど疲れる。販路を閉じる。閉じるために、札を貼る。
窓に夜風が触れ、札がわずかに揺れた。揺れは、決意の新しさを笑う。笑いは受け流す。笑いに勝とうとすると、笑いのセンターに引きずられる。私は呼吸を落とし、札の影がドアノブにかかるのを見た。影は細く、しかし確かだ。鍵穴はそこにある。鍵は値札。札を貼ることが、鍵の歯を刻むことだ。
*
翌昼、回廊でユリウスに会った。彼は少し拗ねて見えた。拗ねる彼は、悪くない。拗ねる人は、自分の感情に責任を持つ準備をしている。怒る人は、責任を他人に押しつけがちだ。
「会う時間が、減った」
「減った」
「なんていうか……君の背中だけ、遠くなった気がする」
「背中は、私のものだから」
言いながら、私はポケットから羊皮紙の札を取り出した。彼に見せるためではなく、自分に見せるため。裏にはこう書いてある。
――“一緒に過ごす時間”:□(相場)。あなたの時間と私の時間は、それぞれ別の財布。財布の口は各自が決める。
「君、商人みたいだ」
「それでいい。私は“交換”より“創造”を選んでいる。だから、原資は自分で用意する」
彼は笑って、肩の力を少し抜いた。「創造の原資。格好いい言葉だな」
「格好つけでもいい。言葉は先に格好を作って、行動が後から追いつくことがある」
「じゃあ――『俺の“余白”を、君の“余白”に合わせて換金できるか?』」
「換金じゃない。交換なら、条件を先に決める。――来週の第三日、夕刻。図書棟の裏庭で三十分。内容は彼の二拍三連の足運びの相談。報酬は、あなたが私の『散歩(必須)』に一緒に歩調を合わせること。歩幅は私に合わせて」
ユリウスは目を瞬いて、それから真面目に頷いた。「了解。歩幅は君に合わせる」
彼は本気の顔をして、指を一本立てた。「ただし、一回だけは俺の歩幅にも合わせてくれ」
「一回だけなら、特価。二回目からは相場」
「商人!」
笑いが、回廊の天井に薄く反射した。笑いは善意の泡に似ている。泡は先に掬えば、曇らない。掬う作業は、もう癖になっている。
*
土曜の夜、史料院の搬入が一段落した後、担当官に呼ばれた。小さな部屋、壁には古い街の図。机の上に置かれた帳簿、開かれたページに数字が整然と並ぶ。担当官は帳簿の端に指を置いた。
「今週、君の提案で“差替は控えに対して実施”が定着しつつある。現場からの“声の量”が下がった」
「よかったです」
「そこで一つ、相談がある。来月からの“巡回史料箱”――各区役所を回って史料を回収する箱だが、従来は“良い顔の係”が全て抱えていた。君が“仕組み”に強いなら、箱に『値札』を付けないか」
「値札?」
「箱ごとに明確な『取扱注意』『破損の看過可』『優先度低』を札として付ける。現場の判断を楽にする」
私はゆっくり頷いた。「付けます。札の表は刻印、裏に具体。――ただし、一枚条件があります」
「言ってみなさい」
「札の“×(取り扱い注意)”が『現場の怠慢』を意味するような運用は、しない。×は現場を責めるためではなく、現場を守るために付ける」
担当官は短く笑った。「君は“値札”に倫理を付けるのか」
「値札が倫理です。勝手に値が付くと、誰かが赤字になります」
「よろしい。任せる」
部屋を出るとき、窓の外で雨が降り始めた。石畳が黒くなり、音が静かに増える。雨は、沈黙の桶の外側に張られた水だ。延焼は、今夜は起きない。
*
寮の部屋に戻ると、机の上の値札の束の端に、アナスタシアの細い字の紙片が差さっていた。扉の下から滑り込ませたのだろう。
――扇の骨、来週の第三日。午後、あなたの“余白”に合わせる。報酬は、あなたがわたしの“練習”を十五分見ること。舞台ではなく、廊下で。歩幅はあなたに合わせる。
私は笑って、札の裏に「相互見学:□」と書き足した。相互の見学は、相場がいい。主役の筋肉と記録の筋肉は、使い方が違う。違う筋肉は、互いに敬意の輪を作る。
今日の最後の作業として、机の端に小さなプレートを立てた。薄い木に彫った文字。彫り跡のざらつきが好きだ。
――“無値の奉仕”は、今夜で閉店。
小さな“さよなら”は、無値の奉仕。棚に戻さない。在庫処分の札を貼り、最後の一点は“寄贈”の箱へ。寄贈は、見返りを求めないための仕組みだ。見返りが最初からないことを明示する。心の狡さを、先に封じる。
ランプを落とし、椅子を引く。ドアノブに値札の影がかかった。影は細いが、重さが出てきた。鍵穴の縁が、冷たく整っていくのが分かる。鍵は値札。値札を貼るたび、鍵の歯が削れて形になる。次に開くのは、報酬と自尊の通用口。正面玄関ではなく、働く人間が出入りする扉。拍手の音がしない側の扉だ。けれど、音のない合図はここに満ちる。温度計の針、糸の張り、札のめくれ。私はそれらを胸の中で数え、深く息をした。
翌朝、時間割の隅に、鉛筆で小さな文字を一つだけ書いた。
――値上げの練習。
値上げは、強欲の手段ではない。自分の労力の価値を正確に測るための、定期点検だ。値札は、私の世界の鍵。鍵は、回すためにある。私は鍵を掌で温め、扉の前に立つ。歯は合う。ラッチが鳴る。通用口の向こうに、淡く、働く光が差していた。




