第4話「噂の火消しは、しない」
昼休みの回廊は、スープを温め直したみたいな湿度で、人の声が天井のアーチに薄くたまっていた。石壁のレリーフの陰を、小さな言葉が跳ねていく。
「捨てられたんだって」
「負けたのよ、きっと」
「拗ねてるだけでしょ」
誰かの囁きに、別の誰かの笑いが継ぎ足され、語尾に装飾が増える。物語は観客の手で勝手に脚色される。舞台に上がっていない人ほど、筋書きを巧みに盛り上げる。昨日までの私なら、誤解の火を見つけるたびに水を抱えて走っていた。一次情報、二次情報、噂の根の所在。相関と因果を整理して、掲示板に「事実」のメモを貼る。火消し三点セット――丁寧な説明、やさしいユーモア、最後に「気にしていませんよ」の笑顔。火は一度鎮まる。でも、そのたびに私は煤を吸い込み、肺が少しずつ黒くなった。
今日は、しない。
私は回廊の窓側、光の帯の中に立ち、胸の内側に「沈黙の桶」を置く。桶は乾いている。そこに水を張る。水は時間と同じで、表面に程よく埃を浮かべ、音を静かにする。火は酸素――反応で生きる。水の上で火花は一度はじけ、沈む。沈黙は敗北ではなく、選択だ。私は反応のための酸素を抜く。延焼先を見極める。燃えうつる先が紙でできているのか、石でできているのか。紙なら距離を取り、石なら見ているだけで鎮まる。
「レーナ、聞いた?」と、同級生のサーラが腕を組んで寄ってきた。目尻に「知ってるけど確認したい」の笑いが乗っている。
「何を?」
「ユリウスと、その……距離、って話」
私は笑った。笑いの角度は四十五度、声の温度は常温。桶の水面に、さざ波は立てない。
「あなたが気になるなら、彼に訊いて。私が気になるときは、私が彼に訊くわ」
「あ……うん」
会話は綺麗に終わらない。不満の余白は残る。でも、余白は彼女自身の課題だ。人は自分の空白を自分で埋める。私が他人の空白を埋め続けると、私の時間割の空白が消える。空白は窒息の始まりでもあるが、呼吸の始まりでもある。私は呼吸を選ぶ。
昼の鐘が二度鳴る。食堂の窓から、スープの湯気が流れ出る。私は盆を返さず、回廊を横切って記録局の掲示を一瞥する。新設《事績記録室》の掲示板に、昨日より一枚、新しい用紙――「資料搬送ボランティア募集」。小さな輪ができつつある。噂の輪から遠い場所で、本当の輪が増える。輪の中心は沈黙だ。黙って運ぶ手が、輪を締める。
*
午後の王立文庫は、地上の喧騒と無関係に、温度計と湿度計の針だけが感情を持って動いている。作業室で腕章を巻くと、司書補のノエルが、いつもどおりの声で「おかえり」と言った。その言い方は、不思議と胸があたたかくなる。職場に「おかえり」は似合わないはずなのに、ここでは似合う。帰り着く場所の条件は、静けさと手順だ。
「今日は背綴じの補修が二件、見返し紙の貼り直しが一件。それから、外部からの相談が一つ入っています」
「外部?」
「学院――じゃなく、街の扇具店から。骨の割れた扇の修理。紙と骨の接着は古写本と似てますから、助言がほしいんですって」
アナスタシアの顔が脳裏をよぎった。彼女の扇。骨の一本。先週、紹介を約束した。約束は、私の時間割の“余白”に記した。余白は贈り物でも譲渡品でもない。私が自分のために確保した空気を、相手の呼吸と重ねることはできるけれど、渡してしまってはいけない。
ノエルは作業台に羊皮紙の冊子を置き、薄い膠を湯煎にかけた。匂いが微かに立ち上る。透明な、しかし動物の気配のある匂い。彼は膠の表面の泡をすくい、匙の裏でそっと潰す。
「善意の泡は、先に取るんです」
「善意、ですか?」
「泡は、仕上がりを曇らせます。善意も、気持ちよさの泡が混じると、相手の紙面を曇らせる」
私は笑い、作業台にメモを置いた。心の中で、一つの式を立てる。
――善意 −(自己否定)=優しさ。
――善意 −(自己肯定)=従属。
自分の式を間違えると、どれだけ働いても疲労だけが残る。自分を否定したうえでの善意は、相手の紙面に光を広げる。自分を肯定せずに出す善意は、相手の背綴じに自分の糸を通す。見た目は整っても、可動域を奪う。
ノエルが針を私のほうへ差し出す。「今日は、あなたに通してもらいましょう。『可能でもやらない』を判断する指を使うとき」
私は手袋をはめ、呼吸を一度深くした。針孔は古いほうを探す。新しい孔を開ける誘惑はいつもある。新しく開けると、自分の痕跡が残るからだ。痕跡は快楽だ。だが、ここでは快楽は後回しだ。背の糸が必要とするところにだけ、指を入れる。可能でも、やらない。やらないためには、よく見ることが要る。見れば、やる必要のないことが見えてくる。
「沈黙、得意ですね」と、ノエルが言った。
「……噂のこと?」
「噂は地下でも聞こえます。紙は耳がいい」
私は肩をすくめた。「火消しは、しません」
「よかった。ここでは、水は桶で使う」
「沈黙の桶」
「そう。火に近づけすぎると水が沸きます。沸いた水は、噴きこぼれて火を広げる。離して置く。延焼先を見ながら、桶を移動させる」
作業は、静かに進む。羊皮紙には微かな毛の流れがあり、手のひらの汗の温度が低いと不機嫌になる。膠は温度が少し下がると粘りが出て、糸に絡みつく。糸の張りは弦楽器に似ていて、手の甲で音を聴くように調整する。私は音のしない音を聴く。聴けたとき、手は「少し遅い」動きを選ぶ。遅いほうが速い結果を呼ぶのは、舞台でも同じだった。焦って一歩を狂わせるほうが、全体の遅延は大きい。
午後の終わり、ノエルは外部相談の紙を机に置いた。「扇具店から。骨は桑、紙は雁皮。膠の濃度は低めが推奨だが、破れが筋状ならパッチを重ねないほうが美しい。あなたの友人に伝える際、言い回しを貸します」
私は頷いた。言い回しは工具だ。工具は丁寧に渡す。刃物は、刃の向きを手渡しで示す。誰かを傷つけないために。
*
放課後、校門の陰にユリウスが立っていた。影の中に立つと、彼の存在は少し薄くなる。昔から、彼は影に立つとき、光のほうを守る人だった。私は歩幅を変えず、その前に立つ。
「誤解が広がるのは、不本意だ」と、彼は切り出した。「釈明しようか?」
「私の人生のスポークスマンは、私です」
私は静かに微笑んだ。「必要なら、私が話すわ」
「でも、今……」
「今は、話さない」
彼の眉がわずかに動いた。「沈黙、か」
「沈黙は、相手を殴るための棍棒じゃない。酸素を抜くための選択。火が広がる経路を見ている」
「俺が黙ることで、君が燃えるなら?」
「その時は、私が水を運ぶ。私が、ね」
彼はうなずいた。遅いが、正確な頷き。遅い頷きは、筋肉が動いている証拠だ。反射ではない。
「俺も、黙るほうを選ぶ。黙るって、なかなか難しいな」
「難しい。だから練習中」
私たちはそこで会話を切った。説明を続けると、沈黙の桶の水面にさざ波が立つ。桶の水は、火から距離をとって置く。会話も、距離を計るのが練習だ。
別れ際、彼は思い出したように言った。「来週の“余白”、空いてる?」
「空いてるかどうかは、来週の私が決める」
「だよな」
彼は笑って、影から出た。光に戻った彼は、やっぱり光のほうを見ていた。光は彼に似合う。私に似合うのは、光ではなく、温度だ。温度を測り、温度を決める。温度計の目盛りを揃え、桶の水を冷やす。
*
寄宿舎に戻ると、机の上の時間割の“空白の一マス”に、今日の印影が薄くついていた。膠の匂い、羊皮紙の粉、糸のささくれが、指先の記憶にまつわりつく。私は時間割の隅に小さく書き足す。
――空白:沈黙の桶を置く位置の検討。
噂の火は、今日、二つの角を曲がって弱まった。私は火の動線をメモし、酸素の出入り口を地図に点で記す。人の集まる場所は吸気口になりやすい。掲示板、食堂の窓辺、舞踏室の出入口。出入口に桶を置くイメージを、頭の中で何度か試す。噂の地図は、実地の地図と似ている。入口と出口、上昇気流と滞留、避難路と暗渠。地図が好きなのは、私の性質だ。性質は、噂では変わらない。
ランプを少し暗くした時、ドアが二度、やさしく鳴った。私は取っ手に手を置き、開ける。廊下に、記録局の職員――あの、受領印を押した人が立っていた。手には封書。封蝋は灰青、印章の模様は鳥とも花ともつかぬ抽象の渦。私の印章と似ているが、違う。
「王立文庫より、推薦状が届いています。見習い勤務の態度について。事績記録室・仮任用を前提とした推薦です」
胸の内側で、鍵穴の縁がすっと冷えるのを感じた。沈黙の桶の水が、鍵穴を冷やす。熱い鍵は回らない。落ち着いた温度で、はじめて歯が噛み合う。
「ありがとうございます」
封を切らず、私は一礼して受け取る。職員は短く頷き、廊下を去った。扉を閉める。ラッチの音が、今日の最後の拍手になった。
机に戻り、封を切る。紙は厚手で、角がわずかに丸い。文面は簡潔だった。
――レーナ・グランツ殿。貴殿は観察・推定・介入最小化の三原則に対し誠実であり、業務に際して沈黙を有効に用いる術を知る。人に頼らず、仕組みに寄る姿勢は、記録室の倫理に適う。推薦する。
署名、王立文庫副司書長。印影が二つ重ねに押されている。二つ目の印は、ノエルのものだろう。彼の名は書かれていない。裏方の名は、多くの紙に記されない。記されないから、記録する部署が要る。私は便箋を静かに戻し、封書を机の隅に置いた。
沈黙の桶が鍵穴を冷やし、今度は仕事場の扉が開いた。開いた扉の向こうは、拍手の音がしない場所だ。拍手のない場所は寂しいと昔は思ったが、今は、音のしない音がよく響く。紙が呼吸し、糸が張り、温度計の針が一ミリ動く。音ではない合図が、そこかしこに満ちる。
私は時間割を取り、週末の欄に「記録室・仮任用手続き」と書き足した。空白の一マスは、今週は使い切った。空白は消費ではなく、使用だ。使うほど、次の空白の質が上がる。器は磨くと、少ない水でもよく映す。私は鉛筆で小さな鍵の歯を一本描き加え、指でなぞる。歯の形が、昨日より整っている。整っているが、ぴかぴかではない。磨き過ぎると滑る。鍵に必要なのは、わずかな摩擦だ。
窓の外で、鳥が二度、短く鳴いた。私は胸の内側に、最小単位の拍手を一度だけ畳み、灯を落とした。火消しはしない。火の経路を知る。桶を置く。鍵穴を冷やす。鍵を回す。――その順序で、私は私の物語を進める。明日の回廊にどんな言葉が浮かんでも、私の声は私が決める。沈黙は空白の一種だ。空白は、扉の形を教える。扉の向こうで待っているのは、次の仕事だ。次の仕事は、私の好きだ。好きは、私の義務ではない。けれど、私が選ぶ。選ぶことを、私は今日も練習できた。




