第2話「境界線の引き方教室」
翌日の午前、委員会室の空気は熱い湯気のようにもやり、窓硝子は外気との温度差でうっすら曇っていた。壁際の掲示板には「春季舞踏会 反省点/改善案」がびっしり貼られ、赤いピンが密林のように刺さっている。机をコの字に並べた中央に、私は立った。昨日の封書――「来季補佐長不就任」の紙は、職員の受領印が押され、淡く乾いている。
最初のざわめきは、椅子の脚が石床を擦る音と一緒に立ち上がった。
「嘘だろ、レーナがいないと回らないよ」
「皆のために考えてよ。今までだって――」
「替わりが……」
「その“皆”に、私自身は含まれていますか?」
静かに切り返すと、声が一つずつ席へ戻っていく気配がした。私は丁寧に笑って、ホワイトボードの前へ歩き、黒いマーカーのキャップを外す。昨日の夜、封蝋を押した時と同じ種類の緊張が指先を通り過ぎた。鍵を回す前の、あの一拍。
「回らない体制は、誰か一人の善意で延命させない方が安全です」
マーカーがボードに円を描く。ひとつ、ふたつ、みっつ。三つの円はほどよく重なり、真ん中にアーモンド形の交差部分を作った。
「これは境界の図です。左の円は《学院の要務》――公的な仕事。右の円は《友人への好意》――私的な手助け。下の円は《自分の成長》――学びと休息。重なる部分はありますが、三重奏を常に演奏することはできません」
ペン先でそれぞれの円に番号を置く。1、2、3。上から順に小さな矢印を描いて、週の枠を線で区切る。
「提案があります。どの円をどの週に優先するか、あらかじめ決めておく。例えば、今月の第一週は学院の要務を最優先、第二週は自分の成長、第三週は友人への好意、第四週は再び要務――交代制です。各週に“枠”を設け、越境は事前申請にする。善意は、ときに交通事故です。信号機がない交差点で、互いの『いまならいける』がぶつかる。好意を構造化することは、冷たさではなく、事故防止です」
部屋の空気がひと段、冷静に下がったのが分かった。委員長のイザークが腕を組み、顎に指を当てる。「だが、緊急時はどうする? 昨夜のように楽師のテンポが狂った時、君の合図がなければ崩壊していた」
「緊急時の優先順位こそ、先に決めます。――“誰でも分かる合図”だけを残す」
私はボードの端に、四角の中に丸を描き、〈○=テンポ+1、□=テンポ—1〉と記した。「合図を私の癖に紐づけず、記号に置き換える。人に貼られたラベルではなく、全員が読める標識へ。『レーナがいないと回らない』の正体を分解したら、『合図の非共有』『段取りの非言語化』でした。だから、言語化して共有しましょう」
机の向こうで、同級生のアメリアが俯いていた顔を上げる。彼女は昨日、私が一歩引いたことで余計に走り回る羽目になった子だ。申し訳なさもある、だが敢えて見つめ返す。
「……でも、レーナは、わたしたちより速いし、正確だし」
「それは訓練の差です。訓練は、分割して配ることができます」
私は机に置いてきたファイルから紙束を取り出し、「段取りの言語化――初級編」と表紙に書かれた冊子を人数分配った。裏方の基礎――足場の視覚化、視線による指示の限界、譜面の読み替え、緊急時の判断基準。昨夜まで私の頭の中に散らばっていたものを、夜更けに整理して印刷した。眠れてはいない。でも、この眠れなさは自分のためのものだ。
「……“皆のために考えてよ”という言葉を、私もたくさん使ってきました。でも、その“皆”に“私自身”が含まれていないことが多かった。だから今、境界線の地図を引きます。私は来季、委員の業務から降ります。その穴は、図で埋めてください。人ではなく、仕組みで」
イザークは長く息を吐き、「やってみよう」と言った。予想より早い。彼の目の奥には保守と現実の両方が同居していて、数字で殴れば引くが、感情で責めると固くなる人だ。数字と記号で押す。それが境界の地図を読む者の最低限の礼儀だ。
議論は一時間続いた。反論、懸念、質問。私はできるだけ端的に答えた。「週の優先枠は個々の状況と照合して自己申告。嘘を前提にしないが、嘘に対する罰則ではなく、再調整を標準化」「恩義と交換を分ける。恩義は返礼に縛られやすいので、交換契約で吸収する」。言葉は冷たくなり過ぎないよう、結論の前に短い前置きを置いた。音符の前の吸い息みたいなものだ。人は吸い息の音があるだけで、次の音を受け取りやすくなる。
会議の最後、「境界の地図」と題したホワイトボードの隅に、小さく鍵のマークを描いた。鍵は、開けるためにある。閉めるだけの鍵はただの重りだ。
*
放課後、図書棟のアーチをくぐると、冷んやりした空気が襟元から胸へ落ちる。紙の匂いと、革の背表紙に染みた古い雨の匂い。高窓から射す光が、梯子と棚の影に筋を作っていた。私は貸出カウンターの脇に鞄を置き、記録局関連の資料棚へ向かう。昨日見た掲示――《事績記録室》の募集。舞台裏を記号と数で記す仕事。主演でも裏方でもない、第三の場所。私はそこへ歩を進めたい。
角を曲がると、ユリウスがいた。棚の列のあいだで高いところの本を取ろうとして、背伸びをしている。彼の背は十分高いのに、届かない振りをして誰かを呼ぶのが昔の癖だった。今は手近な踏み台をちゃんと使っている。彼も少しずつ更新されている。
視線が合う。彼は笑って手を振った。軽く、けれど躊躇いの影が混じる笑い。
「最近、距離を置いている?」
探りを入れる声は、正直だ。詰問ではない。私は逃げないと決めた。胸の中の地図を広げて、指を置く。
「あなたの“好き”がどこへ向いても、私は私の“好き”を犠牲にしない練習を始めたの」
「俺の好みなんて、君の自由に関係ないさ」
冗談めかして肩をすくめる。言葉の端に「だろ?」の笑みが引っかかっている。関係あるから距離を測るのだ、と喉元まで出かかったが、飲み込む。説明を強要されたくないのは、彼も私も同じだ。境界線の説明は、それ自体が越境行為になりうる。地図は持っている人間のためのもの。相手を責める弾ではない。
代わりに、私はカウンターから借りてきた貸出票を差し出した。そこには「今月の優先枠――自修/外部講義/休息」の欄を作り、日付と時間帯がきっちり埋められている。既に参加申請済みの外部講義名《統計入門》《記述の倫理》、自修のテーマ《事実の時系列化》。余白に小さく「蒼い紙片への返信は今月末」と書いた。誰にともなく。
「これは私の“境界の地図”。今月は自修と外部講義を優先する」
ユリウスは受け取り、眉を少し上げた。「貸出票が地図?」
「返却期限があるものは、優先が見えるの。期限のない頼み事ほど、人は自分に有利な期限をでっち上げる。それを避けるために、私は返却日のあるものへ時間を投資する。そう決めたの」
「俺は――」
彼は言葉を探して、指で貸出票の端を撫でた。彼の指には昨夜の蒼いリボンは結ばれていない。代わりに紙粉が薄くつく。彼は本来、紙より動物に好かれる人間だ。紙の上で話すのは不得手だ。だから私は紙の上に言葉を置く。彼が無理をしないように。
「話したいことがある時は、この地図の“余白”を探して。空白は、私が自分で用意する」
「……分かった」
誠実が、短く頷いた形になって返ってきた。わからないまま従う頷きではなく、わからないことを保持したまま尊重する頷き。彼の良さが、そのまま音になった。図書棟の奥で、古い時計が二度鳴る。午後二時。私の今日の地図は、このあと《事績記録室》の説明会に一本の線を引いている。
別れ際、私は訊かなかった。「昨夜、君の指に結ばれていた紙片は何?」と。訊くのは簡単だ。だが、私の地図の線は、そこに向かっていない。地図外の景色を、地図に描くために引き寄せてはならない。描きたいと思った瞬間はある。けれど、その衝動に名を与えず、息を通す。境界の練習は、まず呼吸から。
*
《事績記録室》の説明会は、講堂裏の小部屋で行われた。机が四つ、壁に新しいコルクボード。担当職員は、昨日私の辞退を受け取ったあの人だ。目が合うと、彼は微かに笑って頷いた。私に対する感情は混ざっているだろう――惜しい、理解できる、困る、助かる。混ざり合う感情の器を、人は「現実」と呼ぶ。
「記録室は、舞台裏の“事実の交通整理”を担う。拍手の数、動員の推移、必要物資の移動、事故報告の形式。主観の温度を下げるのではなく、温度計の目盛りを揃える仕事です。関心がある人?」
私は手を上げた。他にも三人。アメリアもいる。嬉しいような、試されるような。私が降りることで空いた空白に、彼女が足を踏み入れようとしている。私は私の地図を持ち、彼女は彼女の地図を描きはじめる。二枚の地図が重ねられる未来を想像して、少しだけ息が軽くなった。
説明会の最後に、職員は一枚の紙を配った。タイトルは「境界の地図――記録の倫理」。項目は短いが、鋭い言葉で構成されていた。〈記録は武器になりうる。だから安全栓をつける〉〈“誰のため”を常に三つ以上思い浮かべる〉〈自分の疲労を“皆のため”に偽装しない〉。読んで、胸の奥で静かに頷く感触がした。これは、私が昨夜自分の机で書いた便箋の裏面とよく似ている。境界は、別々に引かれても似る。似るからこそ、重ねてみてずれが分かる。
申込書に署名をして部屋を出ると、廊下でアナスタシアとすれ違った。蒼のドレスではなく、紺の制服。髪は後ろで簡素にまとめられている。扇は持っていない。代わりに細い鉛筆を耳に挟み、手にはインデックス票。彼女もここへ来るのか、と考える前に、彼女のほうが口を開いた。
「拍手の向き、変えたのね」
「地図の向きを変えただけです」
彼女はあごを引いて、わずかに笑う。「あなたの地図、いつか見せて。こちらも、私の地図を見せるから」
「地図は、持ち主のためのものです」
「だから、地図交換は礼儀がいる。礼儀は嫌いじゃないの」
彼女は軽く会釈し、講堂の方へ去った。彼女の歩幅は、昨日の舞踏会のステップより現実的だ。日常の歩みは、踊りほど華やかではないが、落ちる汗の質がいい。私は廊下の角で立ち止まり、耳の奥に鍵の音を探した。扉はどこにある? 音は近い。たぶん、自分の部屋のドア。
*
夜。寄宿舎の机に、私は古い手紙を束ねて並べた。ユリウスからではない。もっと古い、名前のない時期の私が、誰かの幸福を祈って自分を少しずつ欠損させていった頃の、日々のメモ、祈りの欠片、謝罪の定型文。封緘を切らず、紐で結わえる。読むのをやめるのも、境界だ。過去の私に「ありがとう」は言っても、「いつまでも」居座らせない。さよならに鍵が必要なら、今、紐はその代用品だ。結び目に手をかけるのは私だけでいい。
机の隅には、貸出票の控えと、明日の時間割の下書きが置いてある。《自修:記述の倫理 第三章/外部講義:統計入門 連関と因果》。その下に、細い線で「休息(必須)」と枠を取る。休息を“余白”としてではなく、“項目”として記すこと。昨日までの私にはなかった書き方だ。余白は、すぐ他人のために埋まる。項目は、尊重される。尊重は、強制と紙一重だが、「自分が選んだ」ことの重さが釣り合わせてくれる。
「境界の地図」
口に出してみる。言葉に息を渡すと、紙の上の線が指先に温度を持つ。私は便箋の端に小さく鍵の絵を描いた。昨日の印章の模様を真似て、抽象の鳥とも、花ともつかぬ形が鍵の頭に宿る。鍵は、綺麗なほうがいい。綺麗だと、回す時に躊躇いが減る。
窓を少し開けると、夜風が紙の角を持ち上げた。紙の乾いた音がドアノブまで滑っていく。ドアノブに、地図の影がかかる。影は細いが、はっきりしている。私は椅子から立ち、部屋のドアを開けてみた。廊下は静かで、遠くの共同洗面台から水の音がする。扉を閉める。閉めるときのラッチの音が、鍵が正しくハマる確信をくれた。
机に戻り、私は一枚、新しいカードを取り出した。蒼い細いリボン――昨日アナスタシアの扇に挟まっていた紙片と同じ色で結ぶ。そこに短い文を書く。
――境界線は、あなたから遠ざかるためではなく、私が迷子にならないために引きます。
宛先は書かない。自分宛てであって、世界宛てでもあるから。封はしない。鍵はここではいらない。開いたままの地図を、私は机の上の中央に置いた。視線がそこに落ちるたび、胸の中の湿った藁が乾いていくのが分かる。
打ち鳴らす必要のない拍手が、静かに胸の内側で生まれた。誰かに聞かせる音ではない。自分の選択に向けた、最小単位の賛同。昨日は拍手を置いていった。今夜は、拍手の向きを反転させる。外へ向けていた両手を、内側へ返す。叩かず、合わせる。合掌。祈りではなく、確認。私がここにいる、と。
灯を落とす前に、明日の時間割を更新する。《午前:記録室見習い手伝い(見学)》《午後:自修》《夕刻:散歩(必須)》。散歩に“必須”を付けるのは、少し照れくさい。でも、地図に書かれないものは弱い。私は弱いものを、あらかじめ強くしておきたい。強さは筋肉ではなく、手順のことだと、最近ようやく分かってきた。
寝台に潜り、天井を見上げる。寮の部屋は、天井の角に小さなヒビが一本走っている。昨日までは気づかなかった。視線の余裕が戻ると、世界の細部が戻ってくる。細部は、境界とよく似ている。遠くからは見えないが、近づくほど不可欠になる。
目を閉じる前、私は明日の自分に短い伝言を置いた。
――扉は焦らず一枚ずつ。鍵は、今日削った一本を使うこと。
返事は、眠りの手前でやってきた。大丈夫。地図がある。境界線の地図は、逃げるためではなく、帰るためのもの。世界のどこにいても、私は私の中心へ帰れる。ドアノブにかかった影は、夜のあいだもゆっくりと位置を変え、朝になれば東の光に薄く溶けるだろう。溶けるから消えるのではない。次の線を引き直すためのスペースができるだけ。
次に開く扉は、時間割のアップデートから。私は静かに息を吐き、拍手を胸の奥にたたんで眠った。音楽が終わっても、合図は続く。今度は、地図の上で。




