第14話「さよならの総仕上げ」
返答の前夜は、空気の粒がやけに見える。机の上で名札――RENA――の四文字が硬質に呼吸し、引き出しの奥で保留印が薄い朱を乾かしている。私は灯を一段落とし、天板に白紙を広げた。紙は三枚。上端を揃え、左下に小さく日付。右上には、まだ空白の枠――そこに今夜、新しい印が入る予定だ。
返す夜。返す相手は、学院舞台部の備品庫、保健室、そして「誰にともなく預けていた自分」。この三つに返却先を割り振ってから、私は床に麻の敷物を広げ、布袋を三つ並べた。袋の口はまだ開いたまま、その脇に短い札だけが置いてある。〈舞台裏の針山〉〈予備のリボン〉〈救急箱(応急セット)〉。それぞれの札の裏に小さく「由来」を書いた。由来は、手が道具を持った最初の夜の記録だ。誰のために、どこで、どうやって。書くことで、手放す根を作る。
針山は、柘榴の色をした古布に綿を詰め、子どもの頃に祖母と一緒に作ったものだ。舞踏会の幕間、裾のほつれを止めるために幾度も使った。針を戻すたび、私の指は「応援役の姿勢」に立ち戻る。針山は優しいが、優しさの端に細い鉤がある。鉤は、必要とされる側の手の甲に、目に見えない傷を作る。私は針の一本一本を抜き取り、錆の僅かなものは小さな紙に包んで分けた。危ない優しさを、先に切り離しておく。
予備のリボンは、薄い蒼。舞台袖の暗闇でも迷わない色合い。私は何度、この蒼を誰かの背中に結んだだろう。解くのも私。結び直すのも私。私はリボンの端を指にかけ、強く引いて、繊維の鳴る音を確かめた。鳴かない程度に、結ぶ。鳴いた回数を、紙の隅に印で記録する。それは今日で終わる。リボンの両端を軽く結び、台紙に留めた。リボンは、私の応援の筋肉が覚えた「戻す力」を刺激する。戻さない夜を作るために、私はリボンを手放す。
救急箱。小型のハサミ、絆創膏、消毒液、三角巾。舞台の裏で、私は何度も誰かの膝を拭いた。血は紙を汚す前に止める。止める手順の記憶は、私の自尊を裏から支えてくれた。だが、救急箱を持ち歩く人は、いつでも「誰かの痛み」を先に探す。痛みは見つかる。いつでも。そして、見つけた瞬間に自分の痛みを隠す筋肉が、もう身体の枠をはみ出すほど発達しかけている。私は箱の蓋を開け、期限の近いものと遠いものに分け、遠いものだけを袋に戻した。返すために、整える。整えるために、見る。見るために、痛みから目を逸らさない。逸らさないまま、所有を手ばなす。
三つの袋の口を軽く結ぶ前に、私は引き出しから小さな木箱を取り出した。箱の蓋の内側に、真鍮の印面が嵌っている。二文字――〈返却〉。ノエルが作ってくれた生活印のひとつだ。保留印の兄弟。印面の角はやはり丸く、強く押しすぎても紙が泣かない仕様になっている。私は印泥の朱に印面をそっと浸し、紙の右上の枠に押した。ぴたり、と紙が微かに鳴り、朱の二字が現れる。返却印――所有から距離を取る合図。
「返却は、拒否じゃない」と私は口の中で復唱する。「返すのは、帰るため。帰る先は、私の時間割」
紙面の朱が乾く間に、私は上着に腕を通し、三つの袋を抱えた。名札の四文字が胸に当たり、薄く冷たい。扉を開けると、廊下の灯が一段低く、誰もいない。この時間を選んだのは、儀式に見せたくないからだ。返却は、拍手に似合わない。
まず備品庫。舞台部の部屋は、夜でも微かに松脂の匂いが残っている。扉を叩くと、中から穏やかな声。「開いてるよ」。舞台管理の職員――白髪まじりの、針の扱いが踊りに似ている人――が奥で帳面をめくっていた。私は針山とリボンを机に置き、紙を一枚縦に置く。
「返却に来ました。個人持ち込みで運用していたものです。備品として改めて記録に入れてください」
職員は針山を見て、口角を少し上げた。「あぁ、これ。君の手の形をしている」
「それが問題なんです」
私が言うと、彼は笑った。「そうだね。道具は仕事に馴染むと持ち主と似てくる。似てきたころに、手放すのは賢い。――借り受けの札、書こう」
私たちは机の上で、静かな手順を進めた。品名、数量、状態、由来。そして備考欄に短い文――〈応援役の道具として個人運用/今後は部署管理にて〉。欄外に私は返却印を一度、静かに押した。職員は受領印を重ねる。二つの朱が紙の上で交差し、所有の引力が弱まっていくのが目で分かる。
「君は、戻らないのかい?」職員が針山を布で包みながら訊いた。悪意ではない。筋肉の記憶で出てきた言葉だ。
「戻れる道は、残しておきません」
「道に柵をする?」
「柵じゃなくて、標識を立てる。“ここから先は私の仕事ではない”」
「良い。標識は人を守る」
針山は、棚の一角に収まった。棚は誰のものでもなく、誰でも触れる。誰でも触れる物に、私は自分の指紋を残さない。布の包みの上から一度だけ指を置き、「ありがとう」と言い、手を離した。離した指が軽い。
次に、保健室。夜の保健室は、薬品の匂いが薄く冷たい。私は救急箱をカウンターに置き、返却の紙を差し出した。白衣の先生は、私の顔をひと目見て頷く。「返すのね」
「はい。個人で持ち歩くには、もう重い」
「重さを感じられる人は、傷を見逃さない。――でも、あなたはもう“見つける人”でいなくていい」
「そう思います」
保健室の帳面に、同じ手順で記入する。状態欄に「減耗少」。備考欄に〈個人携行を終了〉。返却印を押す。また朱が置かれ、紙の向こうで何かが閉じる音がした。先生は箱の中身をざっと点検し、「良い整え方ね」と微笑んだ。「次に使う人が、あなたに甘えずに済む」
「甘えさせないために、先に整えました」
「だから、あなたは現場向きなのよ」
現場向き――褒め言葉だ。けれど、今は距離を置く。「現場」と「私」は近いが、同じではない。その微差を保つために、返却印はある。私は先生と短い挨拶を交わし、廊下に出た。廊下の先、窓から秋の星がいくつか見えた。星の数は多くないが、呼吸のタイミングを示すには十分だ。
最後の返却先は、私自身。これは窓口がない。受付カウンターも、帳面も、受領印も。だから、私が窓口を作る。史料院に戻り、夜間出入口の裏にある小さな書見台に白紙を置いた。〈相手:RENA(応援役の持ち主)〉と書き、備品名には〈役割の続け方の癖〉と記す。笑えるようで、笑わない。笑うと、制度が崩れる。私は、癖の中身を三つだけ書いた。時間の余白を他人の都合で埋める癖。噂の泡に反応して火消しをする癖。誰かの痛みに手を伸ばす前に自分の痛みを失明させる癖。――三つを書き、返却印を押す。朱の二字が、自分の紙の上に落ちる。自分に返す。持ち主に返す。持ち主は私。だから、受領印も私が押す。二つの朱が、無署名で重なる。
「儀式を作るのが上手い」
背後でノエルの声がした。驚かない。彼はいつでも、人の背中の温度が下がる頃に現れる。「返却印、使い心地は?」
「軽いのに、重い。他の印より、紙の方が先に呼吸する」
「返却は、紙の気配で進む。所有が移るとき、紙は強くなる」
「印面の角が丸いの、効いてる」
「“返す”で傷をつけるのは、儀式として最悪だから」
ノエルは書見台の紙を覗き込み、「持ち主:RENA」に目を細めた。「自分への返却は、返金のない返金処理だ」
「損失計上」
「同時に、資産計上」
押し付けがましくない二言が、紙の端を冷やし、印の朱に落ち着きを与えた。私はペンを置き、紙を半分に折った。折る音が、夜の石壁に小さく跳ねる。跳ねて、すぐ沈む。沈む音は、安堵の音だ。
「これで、応援役の道具は全部?」
「ほぼ。――あと一つ、見えないやつ」
「何?」
「拍手の手」
ノエルは笑い、掌を見せた。「それは返却不可。使用方法の更新だけ」
「“置いていく拍手”を、これからも続ける」
「そう。君の拍手は、もともと音が小さい」
私も笑った。小さい音は、紙に近い。紙に近い音は、長持ちする。私は返却印を布で拭き、木箱に戻した。箱の内側で真鍮がひときわ冷たく、心地よい。印の隣に合鍵の袋、そして封緘した手紙の袋。三つは触れ合わない程度の距離。距離がきれいだと、夜は短い。
外に出る。階段の踊り場に「保留位置」の白い丸が見える。私はそこに足を置き、三拍遅らせる練習を一度だけした。返却の夜に、急ぐ必要はない。急ぐと、何かが戻る。戻りやすいものほど、軽く見える。軽いものほど、手放すのが難しい。
宿舎へ向かう途中、回廊の二番でアナスタシアとすれ違った。彼女は扇のない手で小さな箱を抱え、歩幅は舞台でのそれよりわずかに狭い。
「あなたの顔、空がよく映る」
「鏡を拭いたから」
「わたしも。――“見せ場での連帯”じゃないけれど、ひとつだけ見せるわね」
彼女は箱の蓋を少し開け、中身を見せた。黒い遮光ガラスの小片がいくつか、薄紙に包まれている。「照明のガラス。手脂を拭いて返却。――わたしも、道具を返す夜」
「よく眠れる夜になる」
「ええ。明日の朝、あなたは“返答”を読む?」
「読む。朝に読む。夜は封」
彼女は頷き、扇のない手で空中に鍵の形を描いた。返却印の朱が、私の胸の内側で軽く温まる。二人は言葉を足さずすれ違う。見せない連帯の歩幅は、石畳を傷つけない。
部屋に戻る。机の上に名札、印、木箱。私は白紙を一枚、縦に置き、上端に〈返却目録(私物)〉と書いた。下に、今夜返したものを順に記す。針山、リボン、救急箱、拍手の手(運用更新)、応援役の続け方の癖。最後の行に、空欄。私はペン先を紙から離さず、その空欄に向かって、薄い呼吸を吹きかけた。空欄は怖い。けれど、空欄は未来の棚。
返却印を取り、最後の枠に押す。朱の二字が、脈拍に似たテンポで浮かび上がる。返却印は、鍵。鍵は、所有から距離を取る許可証。距離ができると、目が合う。私は自分の目と合う。合った目が、少し笑う。笑いは音にしない。
引き出しを開け、封緘した手紙を取り出す。夏の屋上で封をした、宛名なしの手紙。あれは返さない。返さないことが、返すことになる紙だ。この紙を「誰か」に渡すと、私はまた応援役に戻る。だから渡さない。封を撫で、引き出しに戻す。戻す音が、鍵の音に似ている。私の構内の扉は、音で識別できるようになってきた。
窓を少し開ける。秋の風が入る。紙の縁がひとつ、震える。震えは恐怖ではない。速度の調整。私は机の隅の小さな鏡を拭き、拭き跡をいったん残し、最後に消した。拭き跡は返却印の朱よりも淡い。淡さは、残しやすく、消しやすい。消えるものを消す。残すべきものを残す。
灯を落としかけたとき、扉が控えめに鳴った。ユリウスではない。ノエルでも、アナスタシアでもない。何もない音。私は開けなかった。夜は封。目を閉じる前に、カードに一行書いた。
――応援役の道具、返却完了。印は朱、小さく静か。さよならの総仕上げ。
カードを名札の台座の下に滑らせる。名札が小さく鳴り、返却印の木箱が音のない息を吐いた気がした。机の上の配置は、前室の図に似ている。最終扉の前室。ここで靴紐を結び直し、ポケットの中の合鍵の向きを揃え、印の蓋を閉める。明日の朝、私は扉の前に立つ。返答を読む。読むのは朝。夜は封。封を守った夜は、扉の蝶番がよく回る。
私は寝台に身体を沈め、胸の内側で最小単位の拍手を一度だけ畳んだ。拍手は、私から私への返却だ。返却された拍手は、誰にも見せない。見せない代わりに、手順が鳴る。手順の音は、私を起こす。明日の朝、私はRENAとして起きる。RENAとして扉に触れる。返却印は引き出しの奥で小さく冷え、鍵はポケットの内側で温かい。二つの温度差が、前室の空気を整える。さよならの総仕上げは、静かだ。静けさは、礼儀の音。礼儀の音は、扉を開ける。私の手は、押す前に呼吸を揃え、押したあとに震えない。名札の四文字が、夜の最後の光を飲み込み、暗闇の中でただの輪郭になる。その輪郭が、明日の朝、ふたたび名前になる。返却の夜は終わった。前室が整った。扉は、音のない準備を完了している。




