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好きな人の“好き”を、私は尊重しない自由を選ぶ  作者: 妙原奇天


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第13話「小さな断罪は自分へ」

 秋雨が一日おきに石畳を洗い、王都の空の解像度を上げたり下げたりしていた。史料院と学院をまたぐ小規模紛失事件は、表向き「保留」のまま、内部では地層のように薄い層を重ねていた。通達は読み直され、動線は引き直され、封緘の配合は修正された。表の泡は引いた。けれど、泡を掬った桶の底に薄い膜が残っている――そんな手触りが拭えない。


 副司書長は淡々とした口調で言った。「結論は、おそらく“全員の少しずつの怠慢”だ。穴は一点ではなく、連結面で起きた微小な滑りが重なって、紙一枚ぶんの隙を作った。誰か一人を悪に仕立てれば楽だが、それは劇でしかない」


 劇――舞台の暗転の間に「犯人役」を立てて、観客の正義感に拍手をさせる手順。私は舞台袖の手順を好む。暗転の間に照明の角度を戻し、段差に足を取られないように蛇行の角度を浅くする。その地味な修正は、拍手にならない。けれど、日常はそれで長持ちする。


 責任者会議の机に、私は一枚の白い紙を置いた。〈鏡点検〉と表紙にだけ書いた。ノエルが隣で、薄く頷く。アナスタシアは窓際で腕を組み、視線だけこちらへ。


 「“鏡点検”?」広報の青年が首を傾げる。


 「鏡です。――現場の鏡を拭く、という意味ではありません。各人が自分の作業の鏡を拭く。曇りを『誰かの息』のせいにする前に、拭いて、それでも曇るなら外気を疑う」


 私は紙をめくった。中身は短い。三つだけ。


 ――自分の未読/既読の閾値を今週だけ二段厳しくする(“後で”をゼロに)

 ――受け渡し袋の「触れたログ」を二重化(受領印+触指の“拭き跡”を残す)

 ――動線上の立ち止まり一回につき、心の中で“保留”を押す(反応を三拍遅らせる)


 「“触指の拭き跡”?」警備の隊長が眉を上げる。


 「はい。封緘の上に薄い皮膜を置きます。触れる前に一度、鏡を拭くように、指を布で拭ってから触れる。拭いた布に粉を軽く振り、何人が何度“触ったか”を累積で残す。誰が、ではなく『何回』を可視化する方法です。――犯人探しの証拠ではなく、作業の癖を見える化する掃除」


 「犯人を特定しないのか?」と誰かが、いつもの角度で訊く。正義の衣にアイロンをかけ終えた口調だ。


「特定は最後でいい。最初に必要なのは、運用の“筋肉痛が出る場所”の特定です。筋肉は、正しい負荷でしか育たない」



 副司書長が腕を組み、「やれ」と短く言った。承認の声は、舞台裏の合図に似ている。派手ではないが、重さがある。私は首を垂れ、黒板の〈未読ゼロ・即読票〉に今日の日付を入れた。筆の先は、静かだった。


 *


 鏡は、史料院の小さな洗い場にある。壁に掛けられた長方形の古い鏡。角に小さな欠け。私は朝、そこに向かった。濡らした布を固く絞り、鏡の中央から外へ螺旋を描くように拭く。曇りが薄く剥がれて、細い筋が現れる。筋は規則正しい。指の幅で並んでいる。私の指――昨日、ここで髪を直すとき、息の曇りをそのままにして鏡をなでたらしい。曇りの正体は、誰かの息ではなく、私の指紋だった。


 布の湿りが冷えて、掌の熱と拮抗する。鏡の中のRENA(胸の名札)は、私と同じ速さで息を吐き、同じ速さで息を吸う。自分の「見て見ぬふり」を先に裁く。小さな断罪は、自分へ。――この鏡は法廷ではない。けれど、真実の照明はここから出る。私は拭き跡の筋を、最後の一本まで消した。鏡は、私の背中に貼られた紙を映す。〈未読ゼロ:運用中〉。裏返しの文字が、背骨に触れる。


 「鏡点検の導入、面白い」ノエルが背後で言う。彼は私に布のもう一枚を渡した。「“指紋”という言葉は、犯人探しの象徴になりがちだけど、指紋は“生きた証拠”でもある。見える化は、罪状書ではなく生活記録で」


 「罪状書は、最後でいい」


 「うん。――それと、君の“保留印”は、今日机の上に出しておくといい。押す日だ」


 私たちは鏡を拭き終え、洗い場の床を乾いた布で撫でた。拭き跡が斜光の中で薄くつながって、蛇行の角度のように美しかった。美の半分は「止め」。止めた先に、次の動きが生まれる。


 *


 運用で示す扉を開けるには、具体がいる。私は〈受け渡し袋の触れログ〉を紙ではなく「紐」に付けた。袋の持ち手に細い白紐を一本通し、触れた人は紐の結び目を一段ずらす。ずらし方は、鏡の拭き跡と同じ、中央から外へ。ずらしすぎたら戻す。戻すには、二人でやる。――四眼原則ダブルチェックを紐の動作に落とす。誰がやったか、ではなく「結び目が何段動いたか」が、一日の終わりに見える。


 記録課の先輩は紐を摘み、「地味に良い」と言った。「紙の欄を埋めるより、身体が覚える。――それと、“立ち止まりの保留”」


 「段差の前で、三拍遅らせる」


 私は回廊の二番に小さな白い丸を貼り、そこを「保留位置」と呼ぶことにした。貼り紙ではない。床の石に馴染む、小さな丸。そこに足が一度だけ触れる。触れて、呼吸がそろう。丸は見えない人には見えない。けれど、見える人には合図になる。


 午前の搬送は、丸が効いた。台車の速度が一段落ち、段差での持ち上げが一度で決まる。誰も時計を見ないのに、所要時間は逆に短くなった。遅いほうが速い。これも、鏡の拭き跡と同じだ。拭かないより、拭いたほうが、鏡に触れる回数が減る。


 「レーナ、会議の前に広報が一枚だって」


 アナスタシアが二枚の紙を持って、現れた。〈夜会反省会:写真掲示の運用変更案〉とある。写真を撮る側の倫理。被写体の「不可侵のサイン」をどう可視化するか。彼女の文は相変わらず無駄がない。彼女は紙を渡し、淡く笑った。「鏡、拭いた顔」


 「拭いたわ。曇りは私の指紋だった」


 「わたしも、照明のガラスを拭いた。――曇りの半分は、舞台袖の私の手脂」


 私たちは短く頷き合い、言葉を足さずに別れた。見せない連帯は、拭き跡の細さで伝わる。


 *


 午後の責任者会議。机上の空気は、朝より乾いていた。誰も“犯人”という言葉を先に出さない。代わりに「結び目が今日三段」「保留位置での停止率七割」「受け渡し袋の紐戻しに二人」。数字は穏やかで、しかし手触りがあった。私は机の端に保留印を置いて、朱をほんの少し含ませた。印面を紙に押す準備。その朱色は、断罪の血ではない。運用の朱だ。


 「話を戻すが――」副司書長が言葉を拾う。「紛失の真相は“全員の少しずつの怠慢”でよいか?」


 「はい」と私は言う前に、鏡の拭き跡を思い出した。自分の指紋が残る鏡は、曇りに誰かの名を走り書きしたくなる。そこをこらえる筋肉がいる。


 「よいです」と私は言い直した。「ただし、『怠慢』という語の見出しを『習慣の穴』に差し替えませんか。怠慢は倫理の問題に見えるけれど、実際に穴を埋めるのは運用です。――“小さな断罪”を言葉ではなく、手順に向けてください」


 「言い換えは演出だ」と警備の隊長が唸る。


 「演出です。でも、演出は手順の入口です。入口が鋭すぎると、人が切れる」


 アナスタシアが横から軽く手を挙げた。「同意。舞台の入口の段差を一段下げるのと同じ。観客の足がつまずくと、芝居が始まる前に疲れる」


 「芝居の話は――」副司書長が一瞬笑って、「続けろ」と顎を動かした。


 「“小さな断罪”を自分へ、という原則を運用化します。毎日の最後に “鏡点検”。――各部署、自分の『未読』『触れ回数』『保留位置での停止』の三点を鏡の前で声に出して読む。誰も聞いていなくていい。鏡に向かって言う。鏡の前で言うと、人は少し丁寧になる」


 「儀式化か」と先輩。


 「はい。儀式は、忘れを防ぐ。罪状書ではなく、掃除の時間です」


 副司書長はうなずき、朱の印を紙に押した。〈採用〉。保留印の朱と同じ色。私は胸の内側で一度拍手を畳み、印面を布で軽く拭いた。拭き跡が薄く伸びる。鏡のような朱。朱は朝に乾く。


 *


 会議のあと、ユリウスが中庭の保留位置で私を待っていた。彼は石の丸印が見える人だ。足を丸の内側に置き、三拍遅れて口を開く。


 「『犯人』を作らない方向、よかった」


 「犯人は、舞台の必要悪。――日常には要らない」


 「俺、巡業の先で一度、転倒の原因を『照明係の失策』にしたことがある。……半分、俺の歩幅のミスだった」


 「鏡、拭いた?」


 「昨夜、宿の洗面台で。曇りに自分の名を書きかけて、やめて、拭いた。指が冷たかった」


 「冷たいのは、良い兆候。熱だけで押すと、紙は焦げる」


 彼は頷き、口の端で少し笑う。「君の比喩、好きだ。――“お試し契約”、二週目の現状報告。『よかったこと』から」


 「どうぞ」


 「君が“鏡点検”を提案した時の声が、柔らかかった。断罪ではなく掃除の声。……俺は昨日、五分前に着かない努力を続けられた」


 「私は噂の泡に、桶を二回運んだ。一回だけ持ち上げる位置を間違えて、水が揺れた。反省は朝に読む」


 「朝に読む」


 私たちは復唱し、評価を置かずに散った。置かない評価は、夜の封に吸われる。吸われると、朝の言葉が軽い。


 *


 鏡点検の週は、史料院の空気が一段と静かだった。静けさは、仕事が停滞している印ではない。呼吸が揃った合図だ。私は日々の終わりに洗い場の鏡に向かい、三つの項目を声に出した。


 「未読ゼロ、維持。触れ回数、今日七回。保留位置停止、十のうち九」


 声は、石壁に二回反響した。反響の回数で、一日の重さが測れるような気がする。鏡の拭き跡は、薄く線になって残る。指の幅。誰のでもない幅。RENAの幅。名札を見て、私は鏡の端をもう一度拭いた。自分のためにだけ拭く。誰かに見せるためではない拭き方は、紙の手触りに似ている。自分のためにめくるページは、音が小さい。


 「“鏡点検”、今日からうちの部署でも試す」と記録課の先輩が言った。「最初、みんな照れた。鏡に向かって声を出すのは、芝居みたいで。――でも、三日目には誰も照れない。“自分に向かって”は、芝居じゃない」


 「芝居にすると、拍手が欲しくなる」


 「拍手は、時々毒だ」


 「だから、紙の音でやる」


 先輩は笑い、机の端に置いた鏡拭きの布を指で弾いた。「布の音がいい」


 *


 “全員の少しずつの怠慢”という結論は、掲示板には貼られなかった。貼るべき紙ではなかったから。代わりに、廊下の目立たない場所に小さな標語だけが置かれた。〈鏡を拭く/結び目を戻す/段差で止まる〉。署名なし。鍵の印だけ。見た人は、誰が書いたかを気にしない。やるか、やらないかだけが残る。


 同盟の黒板にも、三行が増えた。アナスタシアの筆致で、〈照明のガラスを拭く/照明の“戻し”を誰とやるか先に決める/“主役の息”で曇ったことを先に認める〉。彼女は舞台の鏡に向かって声を出したのだろう。「主役の息」は、舞台を曇らせる。曇らせたら、先に拭く。拭いてから、踊る。踊ってから、戻す。


 夜、私は寮の部屋の鏡を拭いた。夏に間取りを変えてから、鏡は窓の光を斜めに受ける位置にある。布で螺旋を描く。筋が浮いては消え、最後に薄い筋だけが残る。薄い筋は、今日の「小さな断罪」が通った跡。自己断罪は、自己尊重の裏面だ。自分に厳しいふりをして他者に甘さを要求しないために、まず自分の拭き跡を見せずに済ます。見せない綺麗さは、朝の仕事を軽くする。


 机に戻って、保留印の位置を少し奥へずらした。今日、印は押さなかった。押さないことも運用だ。代わりに、共有メモの余白に一行書く。


 ――小さな断罪は自分へ/大きな断罪は手順へ。


 断罪の宛先を、言葉から運用へ。運用は、責任の共有を言葉でなく、動きで示す。動きが揃うと、音が揃う。音が揃うと、拍手がいらない。拍手がいらない夜は、眠りが深い。


 *


 週末。学院の小さな展示〈都市の道具〉の一角に、鏡が一枚置かれた。「あなたの“見て見ぬふり”を一つ書いて、拭いてください」という小さな札。粉筆は一本、白。小さな子が書いた。「宿題をあとで」。大人が書いた。「噂の確かめ」。年配の男が書いた。「『ありがとう』の先延ばし」。書いた人は、布で拭く。拭くと、白い粉の跡が布に移る。跡は残らない。けれど、拭いた人の手にだけ、粉が残る。その粉が、翌朝の台所のコップに付く。付いた粉に気づいた人は、布を手に取る。拭く。拭き跡は広がる。運用は、感染の逆回しだ。


 アナスタシアが展示を見に来て、鏡の前で立ち止まった。彼女は粉筆で何も書かず、布だけ取って拭いた。「“主役の息”」と口の中で言い、布を戻した。私たちは目だけで合図し、何も言わず別れた。見せない連帯は、鏡の清澄で伝わる。


 *


 秋の終わり、紛失事件の報告書が内々に回った。最終ページに結論がある。〈一、旧手順の残存/二、動線の不一致/三、広報の“見せる袋”との運用衝突/四、各員の“後で”の累積〉。最後の行に、誰の名もない。「再発防止策」は、鏡点検、結び目の戻し、保留位置の設置。誰の名もない。名がない報告は、良い。名がないから、読む人の名が鏡に映る。


 私は報告書を読み終え、名札の台座に戻した。RENA。四文字の重みは、紙の重みと合算され、胸の骨の上で均される。均しすぎない。重みは、少し偏っているほうが、人は歩く。


 窓の外、石畳に薄い雨。雨は鏡を曇らせる。曇りは拭ける。拭き跡は残る。残った跡は、鍵の歯の形に似ている。歯は少しずつ整い、扉のラッチに合う。責任の共有を言葉でなく運用で示す扉は、派手に開かない。音を最小にして、しかし確実に回る。


 私は胸の内側に拍手の最小単位を一度だけ畳み、カードに一行書いた。


 ――鏡を拭く/まず自分。鍵は拭き跡。扉は運用。


 カードを名札の下に滑らせる。名札が小さく鳴る。真鍮と紙の音。聞こえないほどの音。聞こえない音が、日常にはよく効く。私は灯を落とし、鏡の中の暗さに、自分の指紋がないのを確かめてから、目を閉じた。明朝、また拭く。拭くことは、罰ではない。拭くことは、生き延びるための礼儀だ。鏡は、正確に正直だ。正直さは、運用に変わる。運用は、扉を開ける。鍵は、鏡の拭き跡。拭き跡の細い光が、寝息の奥で、静かに扉の蝶番を磨いていた。

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