第11話「彼の告白、私の返答」
秋の光は書架の背に沿って斜めに落ち、紙の目に筋を一本描く。午前の王都史料院は、温湿度計の針が安定していて、仕事が捗る合図だった。私は「未読ゼロ」の運用票を棚の端に貼り直し、貸出簿の余白に「返却予定・交渉可」の印を押して回る。印泥は薄い蒼。強く押せば滲み、弱いと読めない。適度に、まっすぐ。均すたび、胸の奥で砂時計がひっくり返る。
ノエルが机の角に肘を置いて、私の手元を眺めた。「その押し方、迷いがない」
「迷いは一度だけ、手前で済ませたの」
「印を“押す前に決める”は、印の基本です」
彼は薄い木箱から、小さな包みを取り出した。白紙に麻紐。包みを解くと、掌に収まる木の持ち手と、真鍮に彫られた印面が現れた。印面には二文字――「保留」。
「君用、作っておいた。館内で正式使用はしない、生活用。印面の角は丸めた。強すぎる人が使っても紙を傷めないように」
「保留印……」
私は思わず笑った。今の私に必要な道具を、言葉の形のまま手渡された気がした。印は鍵だ。押すと、その場の扉が一旦閉まり、開ける順番を選び直せる。
「“保留”は弱さじゃない」とノエル。「遅らせることを、手順にする印」
「ありがとう。――今日、たぶん使うわ」
「今日?」
「予感の種類が、変わったから」
ノエルはそれ以上訊かなかった。押し付けがましくない沈黙は、人に息継ぎを思い出させる。私は保留印を布で包み、名札と同じ引き出しの右手前に置いた。そこは、封緘した手紙の上でも、合鍵の袋の上でもない。印は印。鍵とも封とも隣り合わない距離。距離がきれいだと、あとで迷わない。
*
夕刻、学院の中庭は風の音が主役になっていた。紅の端を含んだ木の葉が、まだ落ちる前の練習みたいに、上下する。私は回廊の二番を歩き、段差の手前で足の角度を整えた。段差は関係の比喩に似て、上るときより降りるときのほうが危ない。手すりは、あるときにだけ握る。
塔の影の方から、靴音が一つ分ずつ近づいてくる。音の重みで、誰か当てられるようになったのは、夏の終わりの収穫だ。ユリウスだ。子どもの頃と変わらない踏み外しのないテンポ、そこに日照りの匂いが混ざっている。巡業の土地の風を連れてきたのだろう。
「レーナ」
呼ばれて振り向く。彼は光の側から影へ入ってきて、輪郭が少し遅れて目に合う。額に一筋、汗の乾いた跡。手には何も持っていない。空の両手は、礼儀だ。私は心のどこかで、ありがたいと呟いた。
「時間、くれる?」
「十五分」
「足りるかな」
「足りない話は、切り分ける」
そう返すと、彼は短く息を吸って、正面から言った。
「好きだ」
言葉が、石の上で跳ねずにまっすぐ落ちて、私の靴のつま先に触れた。遅れて届いた熱。巡業の土地土地で、彼の中で発酵して、泡を掬い、澄んだ液体だけにしたのだろう。そういう手間が、彼には似合う。
「遅いのは分かってる。君に“待っていてほしい”と言わないことも決めた。でも、『今』の俺を君に渡したい」
言葉は淡く震えた。責任の受け渡しではなく、現状の手渡し。夏の終わりに、塔の屋上で見せた「出さない手紙」の封蝋の冷たさが、指に蘇る。私は息を整え、心の中でゆっくり引き出しを開けた。名札の隣、布に包んだもの。――保留印。
「受け取ったわ」
私ははっきり言い、十分間沈黙を置く代わりに、十文字ぶんの間を開けた。「――私は、保留する」
ユリウスの眉が、一度だけ丁番のようにきしみ、すぐに戻る。彼は逃げない。「理由を聞いても?」
「あなたの『今』を疑っているのではない。私の『今』を大切にしているの」
彼は小さく頷いた。「続けて」
「あなたが『好きだ』と言う資格は、あなたの中で時間をかけて育てられた。私が『受け取る』と言う資格も、私の中で時間をかけて育てたい。即答は、今の私の練習を壊す。だから、“保留印”を押す。紙を守る印。関係を焦がさない印」
「……印、か」
「ええ」
「保留、は、『No』じゃない?」
「『No』ではない。『まだ決めない』。――これは、拒否でなく選択」
「選択、のために、何を?」
「一定期間、互いの生活を観察する“お試し契約”を提案する」
彼は目を瞬く。私の言い方は事務的に聞こえるかもしれない。淡白さの外側に、熱の保温を仕込むのが、今の私のやり方だ。
「契約」
「うん。内容は簡単。期間は一か月。――一、互いの時間割を尊重すること。約束の上書きをしない。二、週に一度だけ『現状報告』を交わすこと。評価は朝に読む。夜には読まない。三、互いの“しない”を尊重する。会わない日を罪にしない。四、噂の飾り紐を持ち歩かない。五、“独占”や“宣言”は、その後に話す。先にやらない」
ユリウスは黙って聞き、途中で何度か呼吸の位置を変えた。呼吸の位置が変わると、彼の背中の筋肉が小さく移動する。舞踏の癖だ。身体が言葉の隙間で位置を探す。探せる人は、信頼できる。
「週一の現状報告、いつ?」
「日曜の朝。散歩の後」
「方法は?」
「紙じゃなくて声。紙は残る。残すのは、まだ待ちたい」
「わかった」
「禁止事項をもう一つ。――相手の生活を、評価の材料にしない。観察はする。でも判定は置く。『よくできました』『もう少し』は言わない」
「それ、俺に一番必要な項目だ」
彼は苦笑した。自覚は力だ。私は彼の苦笑が反射でないことを知っている。彼はこの半年で、反射を遅らせる練習をしてきた。遅い頷きは、筋肉が生えた証拠だ。
「もう一つ。――“好意の泡”を先に掬う。『嬉しい』や『楽しい』は、報告の最初に置く。反省はその後」
「君らしい」
「私のための契約でもあるから」
彼はふっと笑い、しかし逃げなかった。「俺のための条項を、俺からも足していい?」
「聞く」
「“待ち合わせの五分前に着かない努力”。俺、いつも早すぎるから。君の余白を侵食する癖がある。五分を埋めるための歩幅は、自分で持つ」
「採用」
「もう一つ。“君の『散歩(必須)』に俺が同行するとき、話す割合を三割に抑える”。俺はしゃべりすぎる」
「採用。――君の三割、たぶんちょうどいい」
「契約は、いつから?」
「今日から。――そのための印を、押す」
私は鞄から小さな布包みを出し、保留印を取り出した。印泥は持ち歩き用の薄い朱。名札に触れたときと同じ慎重さで、印面に朱を含ませ、薄いカードに押す。〈保留〉の二字が、秋の光の中に浮かぶ。紙が小さく呼吸する音が、指先に伝わる。私はカードの余白に、短い文を添えた。
――お試し契約(仮)。一か月。週一報告。観察はするが、判定は置く。未読は朝に読む。
カードを彼に手渡すのではなく、間に置く。石の縁。彼はカードを覗き込み、指で空中に印を押す真似をした。「いい音だ」
「印に音があるの?」
「あるよ。君の押す『保留』は、俺の足の三拍目に似てる」
「二拍三連」
「そう。三つ目で踏み込まない練習」
私たちは同時に小さく笑い、笑いをごく短く終わらせた。泡を掬う。掬ってから、残りを味わう。残りは甘くない。甘くなくても、いい。
「ひとつだけ、確認」
ユリウスの声が、影から光へ滑った。「『保留』の間、俺たちは、他の誰かと“特別”を作らない、でいい?」
「それは“宣言”に近い。――提案。『保留』の間は、特別を作るかどうかについて毎回互いに“未読”のままでいる。未読は朝に読む。夜は、封を守る。……できる?」
彼は考え、ゆっくり頷いた。「やってみる」
「やってみる、は、いい言葉」
「君に教わった」
風が少し強くなり、木の葉が音符のように揺れた。塔の鐘が、遠くで二度。十五分の終わりが近い。我ながら、これは美しい締め方だと思う。美しいからと言って延長しない。契約は、約束の長さも守る。
「じゃあ、今週は“現状報告”なし。今日の話は、契約の準備。――来週、散歩のあとに」
「了解」
彼は一歩下がり、目だけで会釈をした。「ありがとう、レーナ」
「こちらこそ。――君は君のままで」
「君も君のままで」
彼の言い回しに、夏の屋上の空気が薄く混ざる。過去の空気に、現在の温度。混ぜすぎないのが、今の私たちの礼儀だ。ユリウスは光へ戻り、私は影へ戻る。反対の傾斜に降りても、同じ塔から降りている。
*
部屋へ戻る道すがら、アナスタシアとすれ違った。彼女は扇を持っていない。代わりに、細い連絡票の束。〈動線変更・速報票〉。同盟の札は働いている。
「顔が静か」
彼女が私をひと目見て言った。「印を押した顔」
「“保留”を、押した」
「相手は?」
「ユリウス」
彼女は頷き、余計な表情を加えなかった。「保留は、主役の仕事の半分。――舞踏では『止め』が美の半分」
「紙でも同じ。『置く』が強い」
「同盟者、契約条項の雛型を共有して」
私は頷き、鞄から控えのカードを一枚出して見せた。彼女は目で読み、目で笑った。「『噂の飾り紐を持ち歩かない』、好き」
「祭で紐を結び替えたの。――蛇足は付けない」
「蛇足のない踊りは、呼吸が見える」
石畳の上で、私たちは短い会話だけ置いて別れた。言葉の長さを調整できる同盟は、長持ちする。
*
夜。寮の机の上に、保留印を置く。布を外して、印面を灯の下で覗く。真鍮の「保留」が、私の顔の少し下の位置で光る。印面の角は丸い。角が丸いと、紙が泣かない。私は試し押し用の紙を出し、四隅に淡く押した。印の色は、今日の朱より落ち着いた茶赤。押すたび、胸の中で扉の蝶番が鳴る。音は小さい。扉は小さい。小さな扉がいくつも開閉する住まいは、風通しがいい。
引き出しを開け、封緘した手紙の袋を一度持ち上げ、戻す。合鍵の袋を取り出し、掌で温める。鍵と印は隣に置かない。隣に置くと、お互いの仕事を取り合う。印は扉を「開けない」ための道具であり、鍵は「開ける」ための道具。今日は印の日だ。私は鍵を戻し、印の位置を手前にずらした。
ペンを取り、カードに短く書く。
――お試し契約(仮)開始。期間:一か月。週一報告。未読は朝。夜は封。噂の紐は持たない。歩幅は各自。
文末に小さな鍵の絵。鍵は、印の相棒。印を押し、鍵を回す日も、来るだろう。けれど今日は、押すだけの日。押すだけの日を美しくするのは、技術だ。技術は、私の得意な領域だ。
灯を落とす前、窓の外で、誰かが階段を降りる音がした。テンポは踏み外しがなく、二段目で一瞬だけ迷う癖。ユリウスの足音は、私の保留に間に合うように変わりつつあるのかもしれない。かもしれない、に印は押さない。印は事実に押す。今日押した印は、事実に触れた。
私は胸の内側に最小単位の拍手を一度だけ畳み、目を閉じた。印の朱が、まだ指に薄く残っている。朱は朝には消えるだろう。消えるから、また押せる。押せるという安心は、眠りを軽くする。
*
一週間後の朝。霧の中の散歩道、石畳が湿り、靴底は静かに鳴る。約束の時間、ユリウスは「五分前に着かない努力」を守り、私の視界に「時間ちょうど」で滑り込んできた。私たちは並んで歩き、最初の二十分は、私が七割、彼が三割、話した。彼は三割をきちんと守った。守る人だ、と思う。
「現状報告」
私は合図を出す。「よかったことを先に」
「君が笑うタイミングが、前より静かになった。音のない笑いが増えた。……俺は、舞踏の練習で『止め』を褒められた」
「よかった。――私は、君が『五分前に着かない努力』を守ったのを見て、安心した。散歩の“余白”が守られた。あと、私は“噂の紐”を持ち歩かなかった。誰にも、あなたの話をしなかった」
「ありがとう」
私たちは短く頷き合い、評価を置いた。置く場所を何度も確認する。感情の温度は三段――十字以内、二十字以内、三十字以内。私は十字以内で言った。「今は、心地よい」。彼は二十字以内で言った。「今は、焦らないでいられる」。どちらも朝に読むにふさわしい短さだった。
散歩の終わり、私は保留印のカードを取り出し、裏に小さく「一週目終了」と書いて、印を一度だけ押した。印面の朱は淡く、紙に沈む。「保留」の二字が、霧の白に溶けていく。押した瞬間、扉が一枚、音もなく開いた気がした。見極めの扉。扉の向こうには、「好き」と「生活」の両方が置いてある机がある。机の上に、名札と印と鍵がきちんと並び、過不足がない。
ユリウスが言った。「二週目も、散歩の後に」
「ええ。朝に読む」
「夜は封」
「夜は封」
私たちは声に出して確認し、別々の方向へ歩いた。階段を降りるとき、私は手すりに指先だけ触れた。印を押す指、鍵を回す指、扇を持つ指、糸を通す指、誰かの手を握る指――全部、同じ手にある。手は、練習でしか整わない。私はその事実に、軽い拍手を胸で打った。
保留印は、鍵。今日の鍵は、扉を開けるためではなく、扉を「開けない」自由を守るために働いた。見極めの扉は、焦らないで立っている。扉の蝶番には油がさしてあり、いつでも静かに回る準備がある。その準備の音を聴きながら、私は歩幅を私に合わせて歩く。契約は、約束の運動。運動は、日々の姿勢の総和だ。私はRENAとして、今日も姿勢を整える。印はポケットで温まり、朱は朝日に乾く。乾いた朱は、次の朝にも使える。次の朝にも、私は押す。押して、選ぶ。選んで、進む。進む速度は、今日の私が決める。




