第10話「再会は事件の形で」
王都へ戻ると、石畳の湿度が夏から一段落して、靴底の音がよく響いた。秋の光は低く、影は長い。その影の長さが、出来事の輪郭をくっきりさせもすれば、余計な憶測を伸ばしもする。学院の門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。人の声が波打ち、波頭にだけ泡の光が立っている――あれは、噂の泡ではない。緊張の泡だ。
「文書、紛失。学院記録課と史料院の連携に穴。責任はどこだ」
掲示板の脇で、短い言葉が飛び交っていた。紙の端がちぎれている。ちぎれは不安の癖だ。私は足を速めず、まず職員棟に向かった。こういうとき、早歩きは人の脳に「炎上」を知らせる。私は自分の脳に「整頓」を知らせたい。
記録課の部屋は、いつもの匂い――紙粉と糊と、人の体温の乾いた成分。それに混じって、焦げではない熱の匂いがあった。机の上に封書が積まれている。宛名のところに薄い赤線。〈未読〉。印字ではなく、手書きの赤。積まれた未読通達の束は、積み木の塔のように不安定で、しかし誰も倒さないように気をつけて傍らを通っている。
「レーナ。戻ってきたのね」
記録課の先輩――眉間の皺に理性が宿る女性――が、私を一目見て頷いた。彼女の声は熱ではなく針金でできている。「史料院との受け渡し袋、ナンバーH-27。昨日の夕刻、学院側で受領印。今朝、袋の中身の一部――『学内事故報告・旧様式写し二点』が欠落。袋の封は破られていない。……連携に穴があると言われている」
「穴は、連結部だけに開くとは限りません」
私は机の上の未読の束に視線を落とした。〈通達〉〈連絡票〉〈差替案〉〈臨時回覧〉――厚みと種類がバラバラの紙たち。積まれた紙の重みで、下の通達の角が潰れている。潰れは、言葉の骨折だ。骨折は痛いが、折れた場所を固定すれば治る。私は手袋を取り、束を左右に分けた。左に「未読」、右に「既読」。その手前に「未処理/既処理」の箱を置く。未読が積もると、真実は沈む。沈んだものは、発掘より先に採掘図を描くべきだ。
「責任者会議、やる? と聞かれたら?」
先輩が言う。「出ます。けれど、言うことは一つ。――“まず、未読をゼロに”」
「燃えるわよ」
「燃える場所を決めれば、消せます」
私は未読の一枚目を引き抜いた。〈受け渡し袋の暫定封印強化(仮)〉。封印の蝋の配合を変更し、痕跡の見やすい粉を混ぜる提案。日付が二週間前。既読印なし。付箋に「後で」と青いインク。後で――最も危険な言葉。私は赤い鉛筆で「先に」と小さく書き換え、既読箱へ滑らせた。
二枚目。〈搬送経路の迂回について〉。夜間、音楽棟の脇を通るルートが工事で塞がれている。代替経路は人通りの多い中庭沿い。注意喚起。日付は一週間前。これも未読。三枚目。〈旧様式写しの取り扱い〉。原本ではなく写しの扱い時の封印手順が旧手順のまま残っている箇所があると指摘。改訂案添付。未読。四枚目。〈広報局から:展示用ダミー袋の導入〉。袋と中身の分離テストを行う旨。未読。――未読の積層は、層状の断層となって、今日の「穴」に連続していた。穴は一点ではない。層が滑ったのだ。
「未読ゼロ、やるの?」
「やります。――全部、読みます」
私は椅子に腰を下ろし、砂時計を置いた。砂が落ちる間に三枚。息を整え、読み、既読印を押し、必要な箇所に赤を置き、関係者の欄に札を付ける。〈史料院〉〈記録課〉〈運搬〉〈広報〉〈警備〉。札の重みが、紙の上で均されていく。私はその途中で、ある報告に手を止めた。
〈舞踏会場使用許可に伴う動線変更報告〉――報告者:アナスタシア・ロウズ。彼女の名が活字でここにあるのを見て、私は背筋の筋肉がわずかに反応するのを感じた。報告は冷静で、簡潔だった。〈許可関連で週末に中庭の片側が観客導線に転用されるため、搬送台車は回廊二番を使用すること。回廊二番は段差が一段あり、袋の積み位置を低く保つこと。従来の「目立たない」という利点は失われるが、「目立つ」ことで逆に安全になる場面がある〉。日付は三日前。既読印は――ない。
私は立ち上がり、報告を先輩に示した。「これ、未読です」
先輩は短く息をのみ、顎で隣室を指した。「報告者は今、責任者会議に呼ばれているわ」
私は報告書を持ち、責任者会議の部屋へ向かった。廊下の角を曲がると、扉の隙間から複数の声が漏れている。
「史料院の運搬がぞんざいだったのでは?」
「学院側の受領印が遅かったのでは?」
「夜間の警備が薄いのでは?」
「広報がダミー袋の導入を勝手に進めたのでは?」
押し付け合いの声は、正義の衣を着ていても、音に粘りがある。粘りは、紙面に広がる前に空気を曇らせる。私は扉の外で一度深呼吸をし、ノックを二回。短く開け、報告書を胸の前に掲げた。
「未読通達です。まず、読みましょう」
視線が集まり、温度が跳ねた。アナスタシアが机の端、窓際に座っていた。彼女の顔は舞台の照明がないときの顔――影と筋肉で支えられている。手元には自分の報告の控え。私は彼女と目を合わせ、彼女がわずかに頷くのを見てから、報告書を会議卓の中央へ置いた。
「搬送経路の変更について、三日前に報告が出ています。未読です。――今朝の受け渡しに関与した部署のうち、どこがこの報告を既読にしていましたか?」
沈黙。誰も手を挙げない。先輩が静かに答えた。「記録課、未読。――史料院も、未読でしょう」
「未読が積もると、真実は沈みます」
私は言った。「沈んだ真実の上で押し付け合いをしても、掬い上げる手は濁るだけ。まず、未読をゼロにしましょう」
副司書長(史料院からの出席者)が目を細めた。「言い切るな、実習生」
「言い切りません。手順を提案します」
私は机の端の砂時計を指さした。「今から三十分。関係通達を全員で読み、各部署の『既読の印』を押す。次の三十分で『改訂案』の矢印を揃える。押し付け合いは、その後に」
「後にも要るのか?」と誰かが皮肉を言った。私は肩をすくめ、「要るなら」とだけ返す。アナスタシアが控えめに手を挙げた。
「私の報告、読み上げてもよろしい?」
副司書長が顎で合図する。アナスタシアは立ち上がり、紙を持つ手に無駄な力を入れず、淡々と読み始めた。読み上げの速度は、内容に対してわずかに遅い。遅い読みは、言葉が腑に落ちる速度と合う。彼女は舞踏会で人を動かすときの声ではなく、舞台裏で段取りを確認するときの声を使っていた。主役も、段取りを知っている。
読み終わると、私は「ありがとうございます」と言い、空いている席に座るよう目で示す。彼女は頷き、座った。副司書長がため息と一緒に腕を組み、「三十分」と言った。砂時計が逆さになり、砂が落ち始める。私は通達の束を配り、各自に割り当て、既読欄にそれぞれの部署名を書き込む。押印を気持ちよく鳴らす人、静かに押す人。音で性格が分かる。音の乱反射が落ち着くにつれ、部屋の空気が一度沈んだ。沈むのは悪くない。落ちる砂みたいに、層ができる。
「“未読をゼロにする”なんて、単純すぎる」と広報の青年が呟いた。
「単純が難しい。難しいことを単純にするのが、手順」
「君は現場の人間だな」
「RENAです」
私は名札の四文字で、自分を紹介する。家名も肩書も要らない場面。場面が名札の使い方を決める。砂が落ち切る頃、通達の既読欄は赤い印で埋まっていた。副司書長が口を開く。
「結論を急ぐのはやめよう。――“保留”」
あの二文字が、会議室の中央に置かれた。科学的遅延は勇気だ。私は胸の内側で、札を一枚増やす音を聞いた。〈未読ゼロ:運用開始〉。
会議が解散した後、私は紙を集めて箱に入れた。アナスタシアが近づいてくる足音は、舞台の下手から上手へ移動するときの音と違った。石床の上では、踵が浅く鳴る。
「あなたの“未読ゼロ”は、よかった」
彼女は言った。「『早く』『もっと』『全部』に、ブレーキをかけたのはあなたね」
「『ブレーキ』という言葉、好き」
「足を止めるのは、主役には難しいの。止まると、照明が迷子になるから」
彼女は最初に、舞台の比喩を使わなかった。主役の筋肉で日常を歩く人は、日常で主役を名乗らない礼儀を持つ。私は廊下の窓際に視線を落とし、外の中庭に走る台車の動きを見た。二番回廊に段差。通達どおり。押しながら、持ち上げるタイミングを合わせる二人。足の位置。可動域。――私は言葉を選び、それから口を開いた。
「“主役でいる負担”、ありますよね」
アナスタシアは目を細め、そして軽く笑った。「“裏方でいる負担”も、あるでしょ」
「あります。でも、今の私は“RENAでいる負担”を選んでる」
「肩書を降ろすと、寒い」
「寒いのは嫌いじゃない。温度管理の練習になる」
私たちはそこで一度、言葉を置いた。置く場所を間違えない。押し付け合いの声から距離を取り、窓枠の角に肘を置く。アナスタシアが視線だけで尋ねる。「あなた、話す?」
「話す。――あなたは、どうですか」
「話す」
アナスタシアの呼吸が一段、静かになった。「主役の仕事は、“私だけが前に出る”ことじゃない。前に出て、他の人の位置をズラす。ズラしたまま終わると、明日が壊れる。戻す筋肉も要る。わたしは、その“戻す筋肉”でいちばん疲れるの」
「戻す筋肉は、指に出ます」
「わかる?」
「ええ。あなたの指、扇の骨に当てるときの力が強かった。でも、今は強すぎない」
「文庫での修理の助言、効いたわ」
私は笑う。「扇の骨は、綴じ糸と同じ。可動域がある」
「あなたは、可動域を地図に描けるひと」
アナスタシアの言葉は、甘くない。砂糖を使わない菓子に似ている。口の中で長く持つ。彼女は続ける。「私も、未読がたまるの。『主役であるべき姿』の通達、観客から、同僚から、自分から。未読が積もると、踊りが沈む。沈むと、照明に頼りすぎる」
「照明は、未読を焼く」
「焼け跡は綺麗。だから危ない」
私たちは同時に小さく笑い、笑いを長引かせない。笑いは泡に似ていて、先に掬えば曇らない。
「あなたの報告、未読だった」と私は言った。「私は“未読ゼロ”を提案したけど、あなたは“未読でも踊る”をやっている」
「怖いわよ」
「知ってる」
「同盟を組む?」
彼女はあっさりと言った。舞台の上での彼女なら、もっと美しい比喩を探すだろう。廊下の石の上では、彼女は短く言う。「“未読をゼロにしてから動く人”と、“未読の中で動ける人”。両方が必要。扉は二枚ある」
「同盟、組みたい」
返事は短く。短さは、約束の密度を上げる。私は名札の位置を指で押さえ、四文字の温度を確かめた。RENA。彼女は頷き、扇のない手で空中に小さく印を描いた。鍵の印。鍵は未読通達の束――紙の重みが、扉の蝶番に力を渡す。
「手順を共有しましょう」と私は提案した。「未読ゼロの運用表と、踊りの動線の変更表。互いに“誰でも読める標識”にする」
「標識、好き」
「標識は人に貼らない。“場所に貼る”」
「ええ。――午後、空いてる?」
「空いてる。空白の一マスは、同盟のために」
午後、私たちは小さな部屋を借りた。壁にホワイトボード。私は〈未読ゼロ連絡票〉の草稿を出し、アナスタシアは〈動線変更速報〉のテンプレートを広げる。項目を合わせ、言い回しを揃える。〈誰が〉〈いつ〉〈どこ〉〈何を〉〈どの順に〉。自分の専門の言葉は、相手の専門の耳で聞いたときに刺さらない角度に調整する。彼女は自分の文の「美しい剰余」を削り、私は自分の文の「冷たい空隙」を埋める。二人の文体は、交差点で速度を合わせる。
「“保留”欄、入れて」とアナスタシアが言う。「『判断保留』じゃなくて、『感情保留』。舞台の現場は、感情が先に来る。それを可視化する欄がいる」
「入れる。『感情の温度』を三段階で」
「わたしは蒼、あなたは灰」
「色分けは、主観に寄りすぎる」
「じゃあ“言葉の長さ”。十字以内、二十字以内、三十字以内」
「それだ」
私たちはペンを走らせ、項目のラベルに小さな鍵のアイコンを付けた。鍵は、開けるための合図。封は、閉じるための合図。合図は、誰の名前にも属さない場所に置く。場所に置けば、人が交代しても残る。
夕刻、連絡票の雛型が二枚できあがった。〈未読通達・即読票〉と〈動線変更・速報票〉。私は二枚を重ね、角に穴を開け、細い紐で結んだ。紐の結びは、故郷の神輿蔵で手に戻した結び目。強すぎず、弱すぎず。紐を引くと、二枚は軽くずれる。ずれても、ほどけない。アナスタシアが満足げに頷き、「どちらの票も、わたしたちの名札から離す」と言った。「票に“RENA”も“ANASTASIA”も書かない。署名は最後に、結果だけに」
「同盟は、名札の外側に置く」
「そう。名札は、内側の扉を開ける道具だから」
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。中庭はすでに薄暗く、運搬の台車が一台、ゆっくりと石段を降りるところだった。段差で止まり、持ち上げ、足を合わせ、降ろす。見事な動き。彼女は小さく拍手した。音のしない拍手。私も胸の内側で一度叩き、畳んだ。
「ユリウスは」
彼女が突然、言った。声に刺はない。「巡業から戻ったら、あなたに“評価”を訊くかもしれない」
「そのときは、現状だけを言う」
「“評価”は持ち帰り」
「ええ。未読にしておいて、必要な朝に読む」
アナスタシアは笑い、扉へ向かった。「同盟者、明日も“保留”を置きに行くわ」
「RENAも行きます」
扉のラッチが鳴り、部屋に静けさが戻る。私の机の隅に、未読通達の束――もう束ではない。二枚の票と、既読の印面。鍵は未読の束だった。束をほどき、読みに変え、標識に変える。開いたのは、同盟の扉だ。扉の向こうで、紙と人が正しい速度で動く未来が、手順の形で薄く見えた。
夜、寮に戻って、机の上の名札を指で弾いた。RENA。四文字の輪郭は、昼より冷たく、しかし硬くなかった。冷たさは、明日の体温でちょうどよくなる。引き出しから封緘した手紙を取り出し、封の縁に指を置く。開けない。開けないことを、今日も選ぶ。その選択が、今日の同盟に寄与していると感じられる夜は、良い。未読の通達を積まない夜は、眠りが軽い。
灯を落とす前に、小さなカードに一行書く。
――未読ゼロ、同盟開始。評価は朝に読む。夜は封を守る。
カードを名札の台座の下に差し込み、深く息をする。扉は、明日もある。扉の前で、鍵の歯を確かめる。未読の束は、もう鍵束だ。必要な扉にだけ、一本ずつ差し込む。押し付け合いの声は、扉の外で風にほどける。風は、紙を冷やし、蝋を守る。私は目を閉じ、音のない合図を胸に畳んだ。明朝、まず読む。読むことは、鍵を回すこと。回した先に、同盟の仕事が待っている。




