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好きな人の“好き”を、私は尊重しない自由を選ぶ  作者: 妙原奇天


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第1話「応援役を降板します」

 王都学院の春季舞踏会は、磨かれた床板の上に月の薄片を撒いたみたいに灯が揺れていた。絹の裾が波をつくり、銀の杯が小さな星を映す。楽師が三拍子を刻めば、広間は一斉に息を合わせ、四隅の観葉木でさえ踊りに加わるよう風にさざめいた。


 レーナは、その風のいちばん端の位置――柱の陰と給仕の通り道の境目に立ち、小さなメモ帳の角を親指で撫で、視線で舞台裏を織り上げていた。裾を踏んだ侍女の気配を先に読む。転びかけた杯の傾きを計算して、待機の給仕に目線で合図を送る。第一ヴァイオリンがほんの気持ち遅い。指揮者に見えない角度で、音楽係の少年へ左手の人差し指一本を立て、テンポを一枚薄く剥がす。舞台裏の器用さは評判で、彼女はいつしか“みんなの便利な脇役”に定着していた。彼女の仕事は、誰かの物語が滑らかに進むよう、目に見えない小さな面を磨くこと。


 幼なじみのユリウスは広間の中心で踊っていた。背筋は真っ直ぐ、踵の返しは鮮やかで、獣のしなやかさを持つ。相手は侯爵家の令嬢アナスタシア――光沢のある蒼のドレスに、光をすくう瞳。二人が回転を締めるたび、客たちの息が少し伸び、ためらいの間合いが一つ置かれる。その「間」を、レーナは何度も整えてきた。踊るのは二人でも、舞台を整える手はもっと多い。


 曲が終わり、広間に拍手が生まれた。水面の波紋のように中心から外へ、柔らかな音の輪が増幅されていく。レーナの手もいつものとおり持ち上がり、笑顔も習慣どおりに浮かぶはずだった。


 ――今回は、胸の内側のどこかが、静かに拒否した。


 尊重は、たしかに美しい。彼の「好き」を称えることはできる。けれど、尊重が強制に変わった瞬間、それは服従になる。誰かの「好き」を持ち上げ続けるために、自分の「好き」を無期限で棚上げする――それは、礼儀ではない。礼は、強いて払うものではない。


 レーナは拍手を一拍遅らせ、指の腹に広間の空気を感じながら、そっと手を下ろした。代わりにメモ帳を開いて、細い万年筆で一行だけ書く。


 ――私は応援役を降りる。


 書き終えて、ページの端を三角形に折る。誰にも見せない降板届。舞台袖から、自分をいったん退けるための印。折り目は、小さな鍵の歯のように見えた。


 撤収の段取りが始まると、いつものように視線がレーナへ集まる。布飾りの回収、食器棚の再配置、控えの楽師へ明日の譜面指示――この場の「つづき」を知っているのは、いつだってレーナだった。彼女は一歩だけ下がる。係の割り振りを、他の生徒に回す。できるけど、しない。指も頭も、やればまだ動く。でも今夜は、意図して空白をつくる。空白は不安定だ。だれかが埋めに来る。それを、学ばせる。


 「レーナ、今日も助かったよ」


 ユリウスが広間の人の群れを抜け、気さくに声をかけた。汗に濡れた髪が額に張り付き、踊りの熱をまだ纏っている。手には、アナスタシアの持つ扇に似た蒼いリボンが結ばれていた。装飾のひとつだろう。さっきまで二人の曲に合わせて、扇の骨が音を刻むように見えた。


 「今夜は、私のために時間を使うの」


 レーナは微笑んで、首を振った。ユリウスが一瞬だけ目を瞬かせる。軽口が自然に続くはずの口元に、微かな逡巡が浮かぶ。


 「君らしい休息だ」


 彼の言葉は、音としては優しく、意味としてはずれていた。“らしい”と言うなら、彼女は本来、休息まで他人の予定に合わせる人間だ。らしくない方を選ぶ勇気を、今、使っている。


 夜風に出たくなり、レーナはバルコニーに出た。広間の燭台の熱気から一歩外へ、月の冷たさへ。庭のラベンダーがほのかに香る。メモ帳をもう一度開いて、今度は線を引く。――あなたの好きは、私の義務ではない。小さな“さよなら”は、拍手だ。置いていくほど、手は自由になる。


 彼女の背で、扉が軋む音。アナスタシアが出てきた。薄い外套に肩を包み、扇を閉じた形のまま指で弾く。


 「あなたが、音楽係の合図を出していたのね」


 問いではなく、確認の声。扇の骨は、数の合う音を立てた。観察眼がある。噂に反して、ただの華やかさではない。


 「癖で」


 レーナは曖昧に笑った。アナスタシアはバルコニーの欄干にもたれ、月を一度だけ見上げる。


 「あなたの拍手、最後は鳴らなかった。私、見ていたわ」


 レーナの胸に、冷たい水がひとかけら落ちた。誰にも見えない降板届の隣に、他人の目印が置かれる。視線を逃がす先に、茂みの陰で猫が尻尾を丸めている。逃げ口上は猫と同じ格好をしてしまう。苦笑したくなった。


 「次の曲で、ミスが出るかもしれなかった。集中していただけ」


 嘘ではない。さっきの第二楽章の終わり、ホルンがわずかに息を迷わせたのを拾った。だが、拍手を置いた理由の核心ではない。


 アナスタシアはレーナを横目に見て、笑うでも嘲るでもない表情で扇をくるりと回した。「あなたが舞台を回しているのを、皆が当然だと思っている。あなたも、当然の顔でやっている。だから、私はあなたの拍手を見ていたの。人は、当然を変える瞬間にだけ本当の音を出すから」


 言葉が、思ったよりも丁寧だった。扇の影で、彼女の指の関節が白くなる。何かを握り込むように。


 「私、あなたが嫌いではないの。踊りやすかったもの」


 それは、レーナにとって奇妙な褒め言葉だった。裏方に向けられる「踊りやすい」は最高級の賛辞だ。だが今夜に限っては、どこか痒い。


 「私は応援役を降板するわ」


 レーナが言ったのは、ほとんど息と同じ細さの声だった。アナスタシアは扇の動きを止めた。


 「あなたが何を応援していたのか、私にはわからない。彼を? 学院を? 舞踏会の伝統? でも、降りると言えるのは強いこと。降りる場所がある人間だけが言える」


 「降りる場所を、作るのよ」


 レーナは扇の骨の隙間を見た。そこに紙片が挟まっている。蒼いリボンで留められた小さなカード。扇の中から見えるそれは、扇子自体の補強紙ではない。アナスタシアは、レーナの目線に気づいたのか、扇を少し傾けた。


 「これは、私から彼への台詞。あなたには、あなたの台詞を返すだけ」


 アナスタシアはそう言うと、足音を残さず広間へ戻った。広間の熱と拍手が再び生まれる音が、扉の隙間から零れてくる。拍手は、水だ。形のない肯定。置き去りにしようとすると、少し手が濡れる。


 帰り際、レーナは舞台監督の職員に「来季の補佐長は受けられません」と告げた。断りの言葉は短く、礼を長く。相手の眉が跳ね上がり、次にゆっくり下りた。「引き止めたいが、君が決めたのなら」と職員は言い、手帳に小さな印をつけた。その印のかすかな音が、鍵穴に刺さる鍵の先端の音に似ていた。


 階段を降りる。踵の硬い靴底が、石段の角にリズムを刻む。ひとつ、ふたつ。レーナは歩幅を少し変える。早足でもなく、名残惜しさでもない、一定の歩み。ひと段ごとに、何かを置いていく。拍手、段取り、癖、合図。置いていくほど、背中が軽くなる。背中が軽くなるほど、胸の内側に詰まっていた、後回しにしてきた何かが空気を取り戻した。


 校門を出ると、夜の匂いが膨らんだ。王都の街路樹が夜露を抱え、石畳の隙間に溜まる。馬車が通る音が遠くにじむ。寮までの道を半分歩いたところで、背後から名を呼ぶ声がした。


 「レーナ!」


 振り返る。ユリウスが息を切らせずに走ってきた。走るのが好きな人間は、走っても息が乱れない。幼い頃から知っている事実だった。


 「帰る前に、一言だけ」


 彼は立ち止まり、何も飾らない眼差しを向ける。レーナは胸の深いところで、長年流してきた無害な水が止まるのを感じた。


 「――ありがとう。俺は、君がいてくれると、安心する」


 やさしい言葉ほど、刃に近い。レーナは笑い方を選び損なわないよう、心の中で一度顔を整えた。


 「安心を私に預けないで。あなたの安心は、あなたに責任がある」


 ユリウスの眉根が寄った。「怒ってるのか?」


 「怒ってはいないわ。説明しているの」


 「何を」


 「私の境界線」


 彼は何かを言いかけて、飲み込んだ。誠実な人は、わからない語をわからないと言える。ユリウスはそういう人間だ。だからこそ、今までレーナは拍手し続けられた。彼の「好き」が悪意ではないと知っているから。悪意ではないから、危うい。


 「明日、話せるか?」


 「明日は、私の明日よ」


 会話はそこで切れた。彼が何かを差し出すように手を上げ、結局何も差し出さずに下ろした。蒼いリボンが彼の指に絡まっている。その先に、さっきアナスタシアの扇に挟まっていた紙片が結び付けられているのが見えた。ユリウスはそれに気づいていない。彼が踊りの帰り道に受け取った、小さな台詞。誰のものでもない、はずの台詞。


 寮に戻ると、レーナは机に明かりを落とし、今日折ったページをもう一度めくった。折り目は小さな鍵の歯。ページの端から覗く文字が、確認のように目に入る。「私は応援役を降りる」。発表ではない。宣言でもない。行為の名前を、自分自身に教えるだけ。


 引き出しの一番奥から、封蝋の箱を出した。色とりどりの蝋が詰まっている。手に取ったのは、灰青の蝋。落ち着いた色は、感情を過不足なく運ぶ。厚手の便箋に、一枚目は絵を描くように線だけを引いた。二枚目には文を置く。丁寧語を過不足なく、しかし退路は作らない。


 ――来季の委員職、一切辞退いたします。理由は私事に属しますが、体調不良や他者との不和によるものではありません。これまでのご厚情に深く感謝申し上げます。


 最後に、短く書き添えた。


 ――私の拍手は、私が決めます。


 封をして、封蝋を垂らした。押印に使う印章は、母から受け継いだ古い黒曜石。石の面に刻まれた模様は抽象的で、見る人によって鳥にも花にも見えた。蝋が固まる前に印章を抜く。きれいに押し上がった。印面の小さな凹凸が、ささやかに光を返す。鍵穴に鍵を差し込み、回すときの指先の抵抗に似ていた。


 窓を開けると、遠くでまだ音楽が続いている。余韻の曲。舞踏会が片付けの最中に流す、スタッフのための音楽。働く人間にも拍手を、という職員の趣味だった。レーナはその拍手を、窓枠に置いていくように、指先で一度だけ静かに叩いた。感謝は消えない。ただ、方向を変える。


 机の隅に、小さな紙片が滑り落ちているのに気づいた。いつのまにかコルセットの隙間に挟まっていたのだろう。蒼い細いリボンで結ばれた紙片。開くと、短い文が書かれていた。整った筆致。アナスタシアのものに違いない。


 ――拍手を置いていく人の足元には、別の舞台が現れます。あなたが鍵を回す音を、もう一度聴きたい。


 挑発にも、招待にも読めた。レーナは紙片を閉じ、明かりを弱くした。眠りに入る前、彼女は今日の一連の行為を指の腹で撫でるように反芻した。拍手を置いていく。段取りを返す。境界線を引く。どれも小さな「さよなら」だ。けれど、さよならは鍵だ。ちゃんと回せば、新しい扉が開く。扉の先で待っているのが、舞台ではない可能性も含めて、今は、楽しみにしておく。


 翌朝、寮の掲示板に一枚の告知が貼られた。王都学院・記録局より――「新規部署《事績記録室》設置につき、記録官見習い若干名募集」。講堂裏の小部屋に机が並び、舞台裏の全てを記号と数で記し、事実の時系列を積み上げる役目。主演でも、裏方でもない。物語の周縁に「正確」を残す仕事。


 レーナはそれを読み、笑った。拍手の数も、拍手の方向も、記録することはできる。記録することに「正解」はあるが、服従はない。紙を前に、彼女の指は久しぶりに、誰の合図も受けずに動きたくなった。


 ――応募用紙の一行目に、万年筆の先を落とす。


 名前欄に〈レーナ・グランツ〉と書いた瞬間、遠くで鐘が鳴った。講堂の鐘。それは舞踏会の終わりに鳴る鐘と同じ音色なのに、別の合図に聞こえた。幕の降りる音ではなく、鍵の回る音。


 最初の鍵は、拍手を置いていくこと。音楽が終わっても、物語はまだ始まったばかりだ。レーナはメモ帳を開き、折り目のついたページの先に、新しい一行を加えた。


 ――私は応援役を降板します。次は、私の物語を記録します。


 そう書いて、ページを閉じる。折り目の歯がかすかに立ち、紙と紙のあいだに、次の扉の薄い影が差し込んだ。外では朝の拍手――鳥のさえずりが始まっている。彼女はそれを聞きながら、指を温め、鍵をもう一本、心の中で削りはじめた。次に回すべきは、どの扉の鍵か。答えは急がない。拍手を置いて空いた手で、確かめていくために。

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