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2.月曜夕方/3.月曜夜

2.月曜夕方


『まずは十四日間お試しください。あなたの素肌、きっと変わる……』

 CMの甘い囁き声をバックミュージックに、天然パーマの後ろ頭がくるりと回転した。

「おお優奈、おかえりー」

「ただいま……」

 肺胞がきゅうっと縮むほど長い溜息をつきながら、私は二人掛けのソファにふんぞり返るその男……兄の健一から目を逸らした。

「今日も母さん遅くなるらしいぞ。飯どっか食いに行くか?」

 千円札を数枚、ひらひらと振って見せる兄に、私はぶっきらぼうに言い放つ。

「いいよ、なんか宅配で」

「じゃあピザでも食うか、ピザ。俺はピザーランドのクリスピー生地が一番美味いと思うんだよな。そうそう、あのタラコとじゃがいものやつ、なんで“タラジャガ”じゃなくて“タラモ”って言うか知ってるか?」

「知らない」

「なんだよ。お前知らないのか。ってまあ、俺も知らないんだけどな。こんなこと知らなくても別に美味けりゃいいんだが」

「……私、着替えてくるから。適当に頼んどいて」

 フライドチキンのセットにするかと問いかける声に「要らない」と返しながら、私は部屋に駆け込んだ。

 勢いよくドアを閉めると、お気に入りの軽快なロックを流し、出窓に置いたアロマキャンドルの蓋を開ける。窓辺にもたれかかり、肺に入り込んだ兄臭を追い出すように大きく息を吸う。

 認めたくないけど、認めなきゃいけない。

 私の兄は……。


「――キモいっ!」


 私は窓の向こうに見える夕焼けで、頭の中を洗い清めようと試みた。しかし思いとは裏腹に、兄のキモさがねっちょりとこびりついて離れない。堪え切れず、私は一人夕陽に向かって叫んだ。

「まずは、髪型がキモ過ぎっ!」

 ペッタリした黒髪は、天然パーマの恩恵を受けてもずくのように絡まり、目を覆い隠している。当然ヘアワックスで持ち上げようなんて発想は無い。お母さんにせっつかれて髪を切りに向かうのは、小学生の頃からひいきにしている近所の床屋だ。古めかしい三色トリコロールの看板と、店頭のポスターにはアイロンパーマにちょび髭のダンディな紳士が「マンダム」と微笑む老舗。そこから帰った兄は、見事に七五三のお坊ちゃま頭にされている。それが三ヶ月サイクルで繰り返される。

「あと、顔もキモいしっ」

 つくりは悪くない。目はくっきり二重だし、お母さんに似て鼻も高い。角度によってはブルースリーに見えなくもない。なのにキモいと判断せざるをえないのは、兄が無意識に繰り出す顔芸だ。誰も見ていないのにタコのように唇を突きだしたり、下あごを出してイノキの真似をしたりとせわしない。

「やっぱ、どうしようもないのが服でしょ……」

 身長は百八十センチと高く、スタイルもそれなりに良い。大学生になって肉体労働系のバイトをし始めたせいで、体つきは一回り大きくなった。普通ならマッチョでカッコイイと思われるはずが、兄の場合は逆効果だった。体が一回り大きくなったのに服は同じ……つまり、ピッチピチなのだ。

 その服だって、お母さんが近くのホームセンターで仕入れた意味無しロゴ入りシャツに、ウォッシュの加減が絶妙に時代をずれたジーンズ。お父さんとお揃いの三足千円のオヤジ靴下に、バッタモンの薄汚れたスニーカー。

 悲惨なのは最近コンタクトを無くしてから、中学時代の眼鏡を引っ張り出してかけていること。前世紀の遺物ともいえる、レンズが分厚くフレームが開ききった瓶底眼鏡は、ずりずりと自動的に下がってくる。秋花粉にやられた鼻をすすりながら眼鏡の位置を直すしぐさは、テレビで見た昭和初期の勤労学生を彷彿とさせる。

「まったく、大学デビューでもしてくれるかと思ったのに、全然変わらないし。むしろマッチョになった分キモさ倍増だよ……」

 そんな兄も、小旅行や飲み会がメインの遊びサークルに入って、男友達はそれなりにできたらしい。彼らと共通の趣味であろうマニアックな本やゲームが、兄の部屋には大量に転がっている。

「性格は結構優しいトコあるけど……内気だし地味だし、なにより会話がスベり過ぎっ! 何が“タラモ”だ! うんちく語るなら調べてから言えっ!」

 興奮した私は、出窓に飾ってあったぬいぐるみをベッドに投げつけた。軽やかに弾んで床へ転がったのは、先日兄がゲーセンで取ってきてくれたアニメキャラの猫。「八つ当たりしてごめん」と拾い上げたその子の頭を撫でながら、私は呟いた。

「本当に、勘弁して欲しいよー。美香とさおりのバカァ……」

 考えるほどテンションが下がっていく私と、同調するように沈んでいく夕陽。目を細めてそのオレンジを見つめながら、私は悟った。

 どうしたって、もう逃げられない。二週間後には、兄を二人に紹介するしかないのだ。

 覚悟を決めたとき、私の耳にさっき聞いたCMの声が蘇ってきた。

「そうだよ、十四日あれば、お兄ちゃんだってきっと変わる……いや、変えてみせるっ!」

 CMよりも何倍も力強い声で、私は決意の雄叫びをあげた。



3.月曜夜


 兄が頼んだLサイズのピザは、半分タラモで半分ベーシックなトマト味だった。私は胸がいっぱいで三切れしか食べられず、残りは兄がぶつぶつ言いながらも全てお腹に収めた。

「まったく優奈は、俺のこと太らせるつもりか? それともダイエットでもしてるのか? ダイエットするなら、食べ物セーブするより筋トレがいいんだぞ、筋トレ。お前ただでさえ細っこいんだから、ちょっとは鍛えた方がいいぞ? 俺のダンベル貸してやろっか」

 相変わらず内容の薄い発言をしながら、脂っこい指を舐める兄。その挙動を見るだけで胸やけした私は、ウーロン茶で気分をリフレッシュし、気合いを入れて兄を直視した。

「ちょっといい? お兄ちゃん。話があるんだけどさ」

「うん? なんだよ、筋トレする気になったか?」

「違うってば。あのさぁ……」

 言い掛けて、何となく口籠ってしまう。

 用事があるとき以外、私の方から兄に話しかけることはほとんどない。特に、私が中学に入ってからは、ずっと反抗期みたいな状態が続いている。

 当時、二歳上の兄の存在がほとほと嫌になったのだ。「健一の妹どれ?」と無遠慮に一年の教室を覗き込む兄の友人達が。そして何より、あの頃から既に地味キャラ街道まっしぐらだった兄に向けられる、同級生の目も怖かった。

 忘れもしない、中一の夏。仲良くしていた同じグループの女の子が、私に隠れて「優奈ちゃんのお兄ちゃんってキモいよねー」と言い合っているのを目撃してしまった。何にも知らないくせに悪口言うなんて許せない……そう思ったのに、臆病な私は何も言えなかった。ただ、見て見ぬフリをして、兄が彼女らに近づかないように追い払うのが精一杯で。

 今もそうだ。私は美香とさおりを友達として心から信頼してるのに、兄を見て幻滅されるのが怖いんだ……。

 うつむいた私に、兄の声がかかる。

「どうしたナリ?」

 ――キモッ!

 その一言で、私は目が覚めた。

「あのさ、お兄ちゃんって今彼女とか居ないんでしょ?」

 この会話は、普段と完全に逆のパターンだ。普段は逃げようとする私に、兄の方が「お前彼氏できたのかよぉー?」と追いかけてくるばかりで。

 兄はよほど驚いたのか、てかてか光る指先をティッシュで拭うポーズのまま硬直している。私は急に羞恥心いっぱいになって、早口で告げた。

「私の友達、美香とさおりがね、意味分かんないんだけどお兄ちゃんに会ってみたいっていうの」

 言いながら、顔に血が上ってくる。兄も赤い顔をしていて、視線はきょろきょろと所在なさげにテーブルの上を移動している。

「今度、お兄ちゃんとこの学園祭に行きたいって言われて……サークルでお店出すんだよね? とりあえず一緒に連れてくから。でも」

「おいおい優奈さんや、兄は置いてきぼりになっているぞ。いや、嬉しくないわけじゃないんだがな、こんな俺でいいのかなと思わなくもなかったり……」

「ちょっと、人の話は最後まで聞いてよっ」

 無精ひげの生えかけた頬を撫でさすり、照れ笑いを浮かべるそのキモい顔を、私は遠慮なく睨みつけた。もし目の前にあるのが重たいダイニングテーブルじゃなくてちゃぶ台だったら、ひっくり返したくなるくらいイライラする。

「会わせるのには、条件があるから」

「何ナリ?」

 キモいの一言をぐっと飲み込んで、私はなるべく冷静に告げた。

「お兄ちゃんさ、自分でも気づいてると思うけど、その見た目……もうちょっとなんとかして欲しいわけ」

 皆まで言わずとも察したらしい。兄はぽりぽりと頭をかいた。その指先に絡まるもずくヘア。毎日お風呂に入っていることは知っているのに、そこからフケが落ちてきそうに見える。

「でもなあ、見た目がどうあれ別に生きていく分には」

「とにかくっ、あと二週間で小奇麗になって欲しいのっ。誰かそういうの教えてくれる人いないの? 普通にオシャレな男友達とか……」

 しばしの沈黙。それが答えだった。痛すぎる。

「分かった。じゃあファッション系の雑誌何冊か読んで、そこに載ってるお店で髪切って服買ってくれる? あと新しい眼鏡も」

「でも俺、そんな金無いぞ?」

「バイト代は?」

「全部使ったナリ」

 信じられないの一言も、ぐぐっと飲み込んだ。正直、兄がバイト代をせっせとつぎ込むグッズの価値は分からない。だから、それを否定するのはフェアじゃない。本音を言えば、全部売り飛ばしてやりたいところだけれど。

「……いいよ、分かった。私のお小遣い貸すから。来月返してくれればいいし」

「しかし優奈さんや。俺そういうのあまり得意じゃない方だからさあ」

「私が選んで買ってあげてもいいけど、それじゃ付け焼刃でしかないでしょ。万が一、二人のどっちかがお兄ちゃんのこと気に入ったなんて言ったら……うわ、ありえないっ!」

 三度目の正直。飲み込めなかった一言が、兄のハートにグサッと刺さったらしい。

 香ばしい匂いを放つピザの紙箱をズリズリと横にどかすと、兄はテーブルに突っ伏した。

「でもなあ……俺は結局こんな人間だし、こういうところも含めて“本当の俺”を好きになってくれる子がいいなと思うわけでありまして……」

 放たれたその返答が、今度は私の胸に突き刺さった。

 腐っても兄妹。親から受け継がれた思考回路は同じなのかもしれない。私は、もずく頭のてっぺんを見つめながら呟いた。

「そりゃ私だって、そういう子が居れば一番いいと思うけどさ……」

 声も内容も、トーンダウンする。

 仮に、私がもし今の兄と同じようなキャラだったら、きっと人生は百八十度違ったはずだ。

 髪をボサボサにして、目を前髪で隠して、曇った瓶底眼鏡をかけて、一昔前のファッションに身を包んで。

 そうすれば、私を振り回すような『うわべだけの王子様』は近寄ってこない。でもその代わりに、そんな私にわざわざ寄ってくる人は本当の自分を――。

「――はあっ? んなわけないって!」

「優奈?」

「趣味とか性格まで変えろとは言わないよ。でも、見た目って大事だと思う。結局人が最初に見るところってそこじゃない? 特別オシャレじゃなくてもいいから、せめて普通に清潔感があってサッパリしてて欲しいの。私の言うこと間違ってる?」

「……うん、まあ、そりゃそうだな」

 ようやく体を起こした兄は、ずれた眼鏡をかけ直しながら同意してくれた。私も長年抱えてきた不満をぶつけてすっきりしたせいか、数分前まで感じていた兄への嫌悪感がだいぶ和らいでいた。

「でも、本当に興味無いなら買い物には私が行ってくるけど……どーする?」

「まあそう言われれば、それなりにナウい友達も居なくはないな。あ、でも金は無いから貸してくれ」

 兄は、あの意味も無く口を尖らせるタコ顔を作りながら、ぺこりと頭を下げてきた。

 タコ顔も、そのうち注意しよう。あとイノキ顔も。


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