正しい儀式
くけけけけ。くけけけけっ。
境内に入っても、ラジオからの笑い声は止まらない。最初の時の恐怖が思い出され、雷古の顔色は悪くなった。明るい昼間なだけまだマシだが、シチュエーションがあまりに似すぎている。気が滅入るが、これですべての悪夢が終わると信じ、雷古は歩みを進める。そんな中、部外者である筈の優魔も、唇の端を上げた。
「……良くない傾向かな?」
「えっ」
「女の調子が変わらない。先ほども言いましたけど、この声の主は力の弱い雑霊です。道真様とは比べるのも失礼な次元ですが、かの御方を恐れているなら沈黙する筈……」
「上手く行くのか……?」
「微妙ですが、道真様に任せるしか……ともかく、チューニングを始めましょう」
チューニング……すなわちここに祀られている神と、交信するための調整か。「本当はお神酒か梅酒が良いのだけど……」と優魔が呟き、そっと紙皿を拭いてから、ある物を優魔が添えた。
「これ……梅干し? 大丈夫なのかよ……」
「仕方ないでしょう。ボクらは未成年ですから、酒類を購入は出来ません。親に買ってもらうのも無理だ。だから……菅原道真様と縁のある『梅』をお供えしました」
「何か、伝説とかあるのか?」
「えぇ。道真様が左遷された際、庭で大事にしていた梅の木が、道真様の下まで飛んでいった……と言う伝説があります。興味があるなら、後で『飛梅伝説』で検索してみると良いでしょう」
ちらりと見ると、いくつか植えられている木が目についた。一目で梅の木と判別は出来ないが、もしかしたら植林されているのかもしれない。二月ならば咲き誇っていたのだろうか? 一瞬過ぎった思案は、優魔の言葉で遮られた。
低く、良く通る、凛とした言霊。長くゆったりとした、古めかしい言葉に聞こえる。呪文……? と思ったけれど、不思議と禍々しさを感じない。意味が分からないのに、どこかで聞いたことがあるような気がした。
朗々と響く、優魔の声。どこかに届けるように上げた声が途切れると、少なからず疲弊を見せて、肩を上下させた。
見かねて、手元にあったペットボトルの水を渡す。ニッ、と普通に笑ってから、旨そうに水を飲み干した。
「ありがとう。慣れない和歌だから疲れました」
「和歌? なんで?」
「道真様が歌った和歌です。本当は祝詞の方がいいけど、ボクは道真様とやりあえるような術者じゃありません。正式な宮司や巫女でもない。そうなると……『子供なりに精一杯やりました』って空気が出る方法を探しました」
「それで大丈夫か……?」
「少なくても気持ちは込めました。機嫌を損ねる事もないから、リスクもないかと」
表情に、緊張の色がはっきりと浮かんでいた。彼も彼で『祟られる』事を恐れている。祀られた怨霊に対して慎重に、礼節をわきまえた上で助力を乞うているのだ。
どうか、この声を聞き届けてくれ。雷古も心の中で、縋りつくように強く祈る。するとあの時のように、不思議と境内の空気がシン、と静まり返った。あの時の気配――『ラジオ』が取り付かれてしまった時のような『怪異が降りてくる』気配がする。
当然優魔も気が付いたのだろう。緊張した面持ちのまま身構えていると、小さな神社の前に、何かが『いる』事に気が付いた。
否、物質的には『何もいない』状態だ。ちゃんと賽銭箱も見えているし、石段に木製の本殿も、ちゃんと視界に入っている。しかし……何かの『もや』のような、人の輪郭だけをこしとったような『何か』が、賽銭箱を挟んで、自分たちの前に『いる』事を感じ取れてしまった。
息を呑み、そして慌てて、ペコリと反射的に一礼した。証拠はない。なのに確信を持っていた。この『もや』こそが……明石優魔が何度も口にし、ここに祀られている『神』なのだと。
「ありがとうございます。なにとぞお力添えを」
恭しく頭を垂れる優魔。既に頭を下げた雷古も同様に。二人は同時に顔を上げると、靄はそっと境内を指していた。
“招いている”……言葉はなくとも、頭の中に聞こえた気がした。改めて二人は一礼し、一歩奥に足を踏み入れる。そのまま二人の間をすり抜けると、いつの間にか『女の声のするラジオ』は、境内からやや離れた、雑草に塗れた開けた敷地にポツリと置かれている……
一体、何が始まると言うのか。もやと、取り付かれたラジオと、境内に上がった二人の中学生がじっと見守る。異様に静まり返った世界の中で、急に空が陰っていくことに気が付いた。
先ほどまで、雲一つない青空だったのに――いつしか空は暗雲が立ち込めていた。雷雲だ。全くその気配はなかったのに、まるで急に顕現していた。
ゴロゴロと鳴り響く稲妻の気配。優魔が説明した通りの力に、雷古はゴクリと息を呑む。じっと『もや』がラジオに手をかざすと、それに呼応して雷は気配を高めていく。
笑うままのラジオ
シンと鎮まった境内
高まる雷雲の気配に
見守るしかない二人の中学生
『もや』はそっとラジオに手をかざす。そして――
一条の雷が――『天高く上り、天空へ吸い込まれた』
バリバリとすさまじい音を立てて、轟音と閃光が眼前で発する。人が直撃すれば消し炭だろう。人智を超えた雷威を目の当たりにし、思わず雷古は目を覆った。
何たる現象。何たる現実か。やがて我に返り、呆然と目を開けた時は、既にすべてが終わっていた。
雷を受けた筈のラジオは、全く傷一つついていない。空を覆う雷雲は既に退散し、夏の暑い日差しがさんさんと降り注ぎつつある。あれほど静かだった境内も、今はセミの鳴き声がはっきりと聞こえていた。
胸から感嘆のため息がこぼれる。その神意を確かに見た雷古は、慌てて境内から降りた。神の座に居座るのは、失礼に値する。ましてや――その威光を目にした後では、なおの事だ。
「逆雷か……なるほど。誅罰ではなく、霊を引き取って下さりましたか」
隣の明石 優魔も、強く畏敬の念を含んだ呟きを漏らす。余韻を飛ばさぬ程度に、彼は解説した。
「雷は基本、天から降り注ぐ物。けどごく稀に、地上から空に向かって雷が走る事がある。それが『逆雷』……」
「……って事は、道真様……だっけ? がやっつけてくれたって事?」
「いいえ。『ラジオに取り付いた霊を、天へ送って下さった』……そんな感じではないかと。もうこのラジオは、普通の状態に戻ったと思いますよ」
取り付かれたラジオから、霊だけを雷として引き抜いた……優魔はそう語る。現にラジオは『逆雷』が発生してから、完全な沈黙を保っている。恐る恐る触れたが、感電する事も無かった。
あぁ……これで怪異は終わったのだ。ほっと胸を撫で下ろし、改めて二人は神社に向けて厚く御礼申し上げた。
すると……ラジオがざざっ、とノイズを発する。ぎょっとしたのもつかの間、聞こえて来たのは、良く通り清々しい男性の声だった。
『以後気をつけよ。それと……もう少し供え物を所望する』
正しく神の声を拾ったラジオに、二人の中学生が苦笑して、素直に答える。改めて二人で訪れ、その時はちゃんと供え物を捧げた。
――その後も雷古はラジオ片手に、この神社に足しげく通う事になる。妙に気に入られてしまったのか、それとも彼が懇意にしたのかは別だが、時々彼のラジオから、清々しい男性の声が聞こえてくるのだが……
それはまた、別の話。