魚との戯れから危機一髪
「銃撃か!」
「え?」
私を横たえたアーロは、右手を私から外すや自分の背中に回し、なんと、自分のローブの裾をお尻が出るぐらいに大きく捲り上げた。
急に何を?と思ったのは一瞬だけだ。
だって、考えるよりも頭が真っ白になったのよ?
だって、彼はデコラパンツを履いていない!
ガラ・ルファのローブの下には、男も女も悪趣味に近いデコラティブなパンツを履くのが流儀だと言うのに、彼は何も身につけていなかった?
でもでも、彼の裸のお尻に嫌悪感など一つも感じないどころか、陽の下に晒された彼のお尻がとっても輝いて見えた。
初めて目にする男の人の臀部だったからかもしれないけれど、私の目は彼のお尻に釘付けになっていたのだ。
だって、私のお尻と全く違うのよ?
えくぼがあるわ!
丸くなくてえくぼがあるわ!
「ヨアキム!射出角度から言って八時の方向の屋根の上!排除しろ!」
アーロは友人に指示を与えながら、プールから反対側の斜め横へと自分の右手に持つものを放り投げた。
彼の鋭い声とピシッとした動作に、お尻に夢中だった私はハッとした。
すでに彼のお尻は生成りのローブで隠されてしまっていて、私は一瞬だけ見えたお尻の記憶を何度も頭の中で反復していたのだと気が付いたのである。
私ったら!
彼はこの危機から脱するために、布紐で腰にしばりつけていた何かを取り出したかっただけらしい、のに!
そして、アーロは私と違って、性的な何かなんか一つも意識になんて無かった。
彼の友人のヨアキムだって。
アーロの友人のヨアキムは、アーロが投げた銃を私達の横を走り抜けながら受け取り、そのままプールを囲む柵の方へと走り去って行ったのだ。
「てめえ!歩く武器庫かよ!銃を持ってんだったら自分でやれ!」
「俺は最上の宝を守る盾とならねばならん!」
「動きたくない、だろうが!」
ヨアキムは怒声をあげながら軽業師のようにして柵によじ登り、そこから建物の屋根に飛び移って走り去っていった。
アーロはヨアキムの行動を見送ると、軽く溜息を吐いた。
「こっから撃ち落とせって意味だったのにな。あいつは無駄な働き者だ」
アーロったらって私は笑おうとして、そこでようやく自分の脳みそに今の状況が何だったのか気が付いたのだ。
アーロが私に覆いかぶさった意味を考えなさいよ!私ったら!
「アーロ。アーロ?さ、さあ、私からお退きになって。このままではあなたが恐ろしい銃の標的のままですわよ。私はあなたが命を懸ける程の最上の宝なんかじゃありません」
彼の腕の中の私は、確かに彼の台詞通りに大事に守られている。
でも、守られるべきは、あなたの命こそでは無くて?
アーロは私を見返すと、私の胸がどきんと高鳴るような笑みを返した。
いえ、胸がいっぱいになって泣きそうになる笑顔よ。
だって、憧れを夢見るような瞳で見返してくださったのだもの。
青い空を背景にアーロは私に微笑んでいる。
左頬の傷跡は痛々しく、だからこそ、彼が私を憧れを見る様な目で見つめてくれることに、私は胸がきゅっと痛んだ。
私は右手を差し上げて、彼の左頬を右の手の平で包んだ。
「アーロ。あなたは私を過大評価し過ぎですわ」
彼は私の手の平にそっと頬を押し付けて、私の手の平に彼の火傷が癒されているという風に両目を閉じた。
それから再び瞼を開けて私を見つめ返した瞳は、草花を浮かべた水面を想像してしまうような、潤んで輝いている美しいものだった。
切なくなるぐらいに。
「あなたはこれ以上ない宝ですよ」
「それはあなたこそです。私は死神が憑りついているという噂の女ですのよ?」
「最高の宝物はそういうものです。ですが大丈夫です。俺はこんな状況は日常茶飯事。死にませんよ?」
今度のアーロの微笑みは、私を安心させるために作った表情だった。
それは私が忘れていた微笑みだった。
「これが仕事ですから」
王城のパーティでの一瞬を思い出した。
私は、雷に打たれたようにしてびくっと震え、アーロの頬に添えていた自分の手を彼から外していた。
アーロは、王城で私がお酒を被せてしまった人だった!
「ヴェルヘルミーナ?」
「ああ、なんてこと!」
アーロの胸元のローブを両手でぎゅっと握っていた。
彼は元兵士だから、危険があれば誰かを守るのが仕事だった。
危険があれば勝手に体が動いてしまうだけなのよね?
そうよ、私じゃなくても彼はこうして庇っていたに違いない。
それが分かった途端に、なぜだか急に彼に縋りつきたくなったのだ。
なぜかしら?
私だけの兵士でいて欲しい?
「ヴェルヘルミーナ?どうした?」
私の後頭部に大きくて優しい手の感触を感じた。
頭を持ち上げられ、彼の顔は近い。
でも、彼は私を心配そうにのぞき込むだけで、私とは近くても私との間の壁を崩さなかった。
ガブリエルだったらすぐにキスをしていただろうに。
「って、何を考えているの!」
私が怒鳴りつけたのは私自身のはずだった。
けれど、私の言葉によってアーロは私から離れようと身を起こした。
私の視界が急に開けた。
アーロの後ろに誰かが立っている事に、それで私は気が付く事ができた。
顔に布袋を被った、お腹がかなり突き出している中背だが太った男が、彼の真後ろに立ってこん棒を振り上げているのだ。
「アーロ!後ろに!危ないわ!」
アーロは私からパッと離れると、その動作のまま、暴漢の膝下を目掛けて大きく足を振り回した。
暴漢はこん棒を振り下しながら真横に倒れ、ガラ・ルファのプールへと落ちていった。
「おおお!」
ばっしゃーん。
「ぎゃあああ。助けてくれ!」
私は身を起こしてプールの中を覗き込み、派手に手足をばたつかせて大騒ぎしている暴漢を忌々しい気持ちで見つめた。
「あら?膝下程度のプールでこんなに大騒ぎするなんて!悪党こそ臆病って本当でございますのね。いい気味よ。少しそこで泳いで頭を冷やしなさいな!」
私の横に座り直したアーロは、くすっと子供みたいに笑い、君は意外と残虐だ、なんて言った。
「あら?どうして?」
「だって、そこのプールのお魚さんは、ガラ・ルファさんじゃない。人を食べちゃうピラニアだよ。」
「あ、あら?」
私は再びプールを見返した。
水が真っ赤に染まって来ている!
「ピラニアに食べられちゃう?」
「そんな事は無いが、そろそろ助けてやろうかって、あら!」
プールの中で魚に襲われていた男は、がばっと起き上がると、じゃばじゃばとプールの水をかき分けなながらプールサイドに向かっていった。
勿論私達のいない方のサイドだ。
服はボロボロ、体中を真っ赤に染めた男は、サイドに辿り着くや重たい体をよいしょという風に持ち上げてプールから上がった。
そこからヨタヨタどすどすと走り出した。
「まあ!お元気そうね!でも、彼が向かうのは貴賓専用の出入口じゃない?」
「では、さらなる罪を重ねないように彼を捕まえますか」
「あら!罪人に情けをお与えなさるなんて、あなたは本当に優しい方ですのね。」
「全て良い方に受け取れるあなたこそ優しいですよ」
アーロは私を抱き上げると、屋根の下にあるベンチにまで運んだのである。
そして私をベンチに座らせると、私にシッカリと微笑みながら兵士の敬礼を私にして見せた。
「では姫君。正義を執行して参ります」
胸がどきんと高鳴った。
だから私も舞台女優のようにして彼に応えていた。
「では、素晴らしき騎士様が正義を執行してお戻りの際には、姫としてご褒美のキスを望むところに差し上げましょう」
笑顔だった彼が無表情になってしまった。
その後は、彼は弾丸と変わった。
小走りがトロトロした歩みにしかならない哀れな敗退者に向かって、アーロはそれは物凄い勢いで追いかけていったのだ。
「うおおおおおおお!」
「うぎゃあああああああ!」
暴漢は満身創痍でも元気だったようだ。
自分を追いかけてきたアーロの挙動を目にした途端、ライオンに狙われた子豚のようにして、悲鳴をあげながらどすどすどかどかと、あら、まあ、侯爵以上の貴族しか使用できない扉の向こうに消えてしまった、のである。
いいえ?アーロに押し倒されるようにして、金の扉の向こうに消えた?
お読みいただきありがとうございます。
今日も長くて申し訳ありませんでした。
作者注として、アーロもヨアキムも細マッチョです。
お尻がきゅっとなっている、線が太すぎない綺麗な体形の方々なんです。