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月は美しいですね

 私がお尻を触ったせいで、アーロは前後不覚になってしまったようである。

 彼は無表情というか人形みたいな顔になると、私を見返し、それから、数秒前に私に触られた自分のお尻を見下ろした。

 それだけでなく、右に左にと視線を動かし、何かを必死に探しているように周囲をゆっくりと見回しているのである。


「アーロ?どうなさったの?」


「いえ、あの、自分の尻が触られた気がしたのですが、気のせいですよね?」


「触りましたわ。触ってしまいましたわ!ああ、なんてあなたのお尻は可愛いの!触り心地も赤ちゃんのほっぺみたいで楽しかったわ!」


 アーロはゆっくりと私に振り返った。

 無表情ぶりも変わっておらず、動きもなんだかブリキ人形みたいである。


「あら、お嫌だった?あなたの事を何でも知って欲しいとおっしゃって下さったから、あなたのお尻を知りたくなったのよ?」


 私の両肩にアーロの手がかかった。

 私が見上げると、アーロは皮肉そうな笑みを作っていた。


「アーロ?」


「あなたが俺について知りたい事は、俺のお尻だけですか?」


「だって綺麗だったのだもの。えくぼがあって可愛いお尻だったのだもの。私は男の人のお尻を初めて見たの。ふふ、でも、スラックスから見たお尻から他の人の後姿を比べて考えると、あなたは男の人の中でも綺麗なお尻なのね。」


「はははは。」


 私の肩からアーロの手は取り払われ、アーロと言えば、廊下の大きな窓に掛かる、今は夜だから締め切っているカーテンに、自分の顔を押し付けて身を隠すようにしてしがみ付いていた。


 彼は顔も前面もカーテンに入れ込んでいるので周囲が見えなくなっているだろうが、私からは彼の後姿が丸見えである。

 ほんの少し身を屈めているのでジャケットの裾が持ち上がっているが、彼の綺麗なお尻を見せつけるまでも無い。

 私は彼の元へと歩いて行くと、彼に囁いた。


「お尻を触られるのは嫌だった?」


 びくりと肩が震えた。

 嫌われた?と不安になりかけたその数秒後に、か細い声で彼は答えた。


「……光栄であります。」


「まあ!じゃあ、もう少し触ってもいい?」


「ちょっと待ってください。心が痛いのでもう少し待ってください。」


「まあ!やはり嫌だったという事ですね。そうですわね。セクシャルな場所ですもの。はしたない行動をしてごめんあそばせ。」


「いいえ!いいえ!嫌ではありません。嬉しいくらいです!ですが、俺という人間を見て貰えないのに、お尻だけだったら受け入れてもらえるという事実が胸に痛いだけであります!」


「まあ!おかしなことを!アーロのお尻だから触りたいのに。あなたは優しくて可愛らしくて、とっても素敵な男の人だと、私はあなたと知り合ったたった数時間で分りましたというのに。あなたは本当に自己評価が低すぎますわ!」



「……思う存分触って下さい。」


「まあ!本当に?」


 私は宝石を貰った時よりも嬉しいと感じていた。

 それでゆっくりとアーロのジャケットを捲り上げ、彼のお尻に手を触れた。

 温かくて弾力があって、えくぼがある!


「ふふふ。素敵な触り心地だわ。」


「つっ!」


 アーロが小さく痛みを訴える声をあげた。

 私は自分の手を見返し、長い爪が彼のお尻のどこかに引っかかってしまったのだろうかと思った。


「ごめなさい。痛くしてしまったのかしら?」


「申し訳ありません。勝手に痛くなってしまっただけです。」


「まあ!どこが痛いの?見せてくださいな!」


「お許しください!」


 カーテンにしがみ付いていたアーロは、先ほどよりも深くカーテンの布地の中に身を捻じ込んでしまった。

 背中が叱られた子供のようにしゅんとなっている。


「はあっ!」


 あ、アーロの息を吐くような声で気付いたが、私は無意識のままアーロの背中に顔を当てていたわ。

 後ろから彼を抱き締めてもいたが、彼は私の腕を振りほどくどころか、さらにキュウという風に小さく萎んでしまった。


 いや、なのよね?

 離れてあげなければ!

 それでも私が動けなくなってしまったのは、彼の背中が温かかったからである。


 顔を当てているせいで彼の鼓動が聞こえて、私が子供を欲しいと思った理由がそれでわかったような気がした。


 私は寂しいのだ。

 とてもとても寂しいのだ。


「アーロ。ごめんなさい。無理やり抱かれて嫌よね。すぐに手を解きますから、だから、あと数秒だけ我慢して。」


「……どうしてあと数秒ですか?」


「あなたの背中が心地良すぎて、体がすぐに動かないのよ。って、きゃあ!」


 私の腕をアーロの両手が掴み、私の腕が彼から離れないように彼の腕によって拘束されてしまったのだ。


「アーロ。あなたは本当に優しいのね。」


「違います。あなたに抱かれるのは幸せそのものです。ですが俺は男でして、言葉が通じない怒りん坊で我儘な分身を持っているんですよ。」


「大変なのね。」


 それはプライドの事ね。

 女におしりを触られるなんて男の沽券に関わるし、女を抱き締めるどころか後ろから抱き締められるのも聞いた事が無いのだもの。


 それでも彼は私の好きにさせてくれる。

 自分のプライドを押さえつけて、でも。

 なんて優しくて素晴らしい人なのだろう。


「……あなたは本当に純粋で優しいですね。俺は嘘つきで、どうしようもない男かもしれないのに。」


「あなたが嘘吐きな所はまだ見た事がありません。」


「すべてが嘘かもしれません。」


「私に抱かれるのがやはり嫌?」


「ですからそれは違います。」


 アーロは右手を私の腕から外し、自分が掴んでいたカーテンを開けた。

 ほんの少しだけ。

 それだけで良かった。

 彼の肩越しから私にも彼が見せたものが見えたのだもの。

 大きくて真ん丸では無いけれど、それに近い形となった明るい月。


「結局あなたは嘘つきではないって証拠ね。」


「月のように影があるかもしれませんよ?」


「月に影があって半分や弓の形に変わっても、誰もが真ん丸だって事は知っております。あなたには真心がある。それは変わりませんわ。」


 はあっ。


 アーロは大きく息を吐いた。

 それからカーテンを開けていた右手を下ろし、その手と左手で私の両腕を自分から剥がそうと力を込めた。

 込めただけだった。


「アーロ?」


「……俺はあなたにはふさわしくない。」


「まだそんなことを。」


「……ハハリの死は俺のせいです。」


「そんな!」


 言い返したところで、私はあの夜の記憶が蘇った。

 ガブリエルに持ち場に戻れと言った声が蘇ったのだ。

 私はアーロを抱く腕に力を込めた。

 彼の背中にさらに顔を埋めた。


「彼は職務を全うしただけです。そうでしょう。あなたが持ち場に戻れと叱ったからではありません。名誉の殉死とも聞いております。彼の死の咎を誰かが受け持つ必要など無いのです。彼こそそんなことは望んでいないわ。そうでしょう?」


 今度こそアーロは私の腕を自分から外した。

 だが彼は私の腕から手を放さなかった。

 彼は空を見上げていた。


「アーロ?」


「俺はハハリを、ハハリの死の――。」


 彼は言葉を続けられなかった。

 アーロが急に私を引っ張り、走り出そうとしたのだ。

 私は急すぎる動きについて行けず、パンプスのヒールが絨毯に絡まって転びかけた。


 だけど、転ばなかったが、床に膝をつく事にはなった。

 アーロが私を引っ張っていた右手を外したから、私はそのまま床に座りこんでしまったのである。


 何があったの?


 見上げれば、私の盾となるように後ろ姿を見せて聳え立つ、アーロだ。


「いったい何が!」


 ガシャアアアアン。


 アーロが答える必要は無かった。

 私達が今まで立っていたガラスが、私の答えのようにして大きく割れた、のだ。

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