主人と従者
「俺という人間を知ってからでいいですか?」
彼は私にそう言った。
私は思い出して、ふふっと笑った。
あれからほんの数時間であるのに、私はアーロを知ることがとても楽しくなっているのである。
まず、彼は優しいわ。
それで博識。
それなのに偉ぶるところなど一切なく、常に君はどうなのかな?と私に気を使ってくれるのよ。
それは、彼が人の上に立つに足りる大きな器があるって事よね。
部下の意見も良く聞いて部下の面倒見も良いという、彼はきっと理想の上司であったに違いないわ。
それから、これは誰にも言えないけれど、彼のお尻はとっても綺麗。
きゅっと締まっているのよ。
私の指先が当たり前にある丸みと弾力に触れた事で、自分がアーロのお尻を思い浮かべながら自分のお尻を触ってしまっていたと気が付いた。
彼のお尻はどんな感触なのかしら?
プリッとして見えたところも硬いのかしら?
「近衛連隊長としては歴代の中で一番ぱっとしないと有名ですよ。あの素晴らしきハハリ様を押さえて隊長になられたのは、男どもの嫉妬でハハリ様を引きずり降ろそうとされたからだと聞いております。」
私の幸せ気分に水を差して来たのは、私の侍女のトゥーラだった。
私はアーロを否定された事で意外にもむかっ腹が立ち、反射的に彼女に言い返していた。
「ガブリエルが素晴らしかった以上に、きっとあの方は素晴らしいのよ。上に立つ人に煌びやかさはそんなに必要は無いでしょう?」
「まあ、そうですわね。霧葵子爵令嬢のアリーサ様は小間使いの美貌ばかりが有名でございますわね。」
アリーサはとても気立てが良い令嬢だが、いつのまにか不美人という言葉の引用に彼女の名前が使われるようになってしまった。
そこで彼女はパーティからは遠ざかるようになってしまわれた。
とても賢く会話が面白い方だったのに、本当に残念な出来事だわ。
「アリーサは素敵な方よ。」
「素敵に振舞われるのは同じ階級の方にだけ、ですわよ。表も裏も同じお嬢様にはお分かりにならないかもしれませんけれど。あの方は使用人に対しては、視線を動かすのも面倒だって風な振る舞いでいらっしゃいます。」
「トゥーラったら。」
トゥーラが辛辣なのは仕方が無いだろう。
彼女は幼い頃に私の遊び相手として我が家にやって来て、そのまま私の侍女として一緒に成長した人でもあるのだ。
父の仕事関係の相手の娘で、ご両親が亡くなって実家が破産したから我が家が引き取ることになった、そうお母様がおっしゃっていたような気がする。
だから、以前はそれなりの暮らしをしていた彼女が、同じような暮らしでも誰かに仕える身分となったのは悔しい事だと思う。
そこを思い知らされる振る舞いをされたのならば、特に。
私はその点幸運だった。
寄宿舎にいる間に両親が亡くなって叔父に家を乗っ取られたが、私は住み込みの家庭教師か高齢女性の話し相手の職を探すこともなく、白鷺伯爵との結婚という道を進む事が出来たのだから。
また、白鷺伯爵との結婚が決まったからこそ、叔父が首にしようとした使用人を失職させることもなく、白鷺伯爵家に連れていける事ができたのだ。
その中には、侍女であったトゥーラも含まれる。
彼女はその時から私を守ろうと必死なのかもしれない。
いえ、私の人生の浮き沈みこそ彼女の人生に関わって来るのだから、必死になるのは当たり前よね。
後ろ盾のない若い女性はこの世では無力この上ないもの。
だから、召使いの選定や知り合いへの贈答など、私が頼んでいなくとも勝手に行う事もあるのだろう。
それを私に知られていないと、いや、彼女は私が知っていることを知っていて知らない振りをしている、という事を知っていて知らない振りを決め込んでいる狸だった。
私は狸という言葉が頭に浮かんだそのままトゥーラを見返した。
狸どころか、優美な白鳥のような雰囲気の美女がそこにいた。
アリーサへの物言いがそのまま私への当てこすりだったのでは無いのか、そう思えるぐらいに、彼女は私よりも美しい人である。
くすんでいるが濃い色の金髪はこってりと艶やかで上品であり、青でも緑でもなくとも、猫を思わせる金褐色の瞳は美しい事この上ない。
ピンク色の髪の毛に水色の瞳という、年を重ねるごとに安っぽく感じる自分の色合いが悲しくなって自分の髪の毛をひと房掴んだ。
手の中の髪の毛はピンクの輝きよりもアンティークゴールドの輝きに見え、ほんの少し気分が良くなった私は、急に今夜のドレスの事に思い当たった。
今夜はアーロとディナー。
黒髪のアーロを思い浮かべたそこで、彼の横に立つ私に相応しいドレスを何にしようと頭の中でクローゼットの中身を思い浮かべ、数々のドレスがポンポンと消えていき、最後の一枚が残った。
あら、結局お気に入りの一枚ね。
瞳の色と同じ水色のドレスは私の瞳の色を際立たせ、ピンクブロンドにも良く映えるのである。
またあれか。
「お嬢様。今夜のディナーに私も参加してよろしいのでしたら、お嬢様の水色のドレスをお借りしてもいいですか?あれは何度も着ていらっしゃいますし。」
トゥーラの「お借りしても」は「ください」と同義語だ。
私が彼女に貸したものは、全て彼女の持ち物になっている。
彼女は侍女として主人のドレスを下げ渡されるのを常に待っており、私は主人として彼女の献身に対して報いる義務がある。
お気に入りのドレスだったのだけれど。
「そうね。いいわよ。では、私はここに来る前に買ったドレス、あれに袖を通すことにしましょう。」
付き合いで買ったドレスは最近流行のものでも自分には今一つのような気がしたが、何度も着てきたドレスではかえってアーロに失礼になると自分に言い聞かせた。
「ありがとうございます。胸元が寂しいので、いつもあのドレスにお付けになる真珠のネックレスもお借りしていいですか?」
「ごめんなさい。あれは母の形見なの。でも、そうね、淡水真珠の三連のものがあるわ。あれはどうかしら?」
「まあ!あのドレスは海の女神のイメージでございましょうに、淡水では興ざめですわ。ええ、では私の持ち物の貝のネックレスにいたします。」
「あの貝のネックレスも出番が出来て喜ぶでしょう。」
どうして貸してしまったのか。
あれは寄宿舎の友人達と夏の避暑に一緒に出掛けた際に、皆でお揃いで買ったものなのに。
いいえ、貸したら戻って来ないと知ったのは、あのネックレスが戻って来ないからと返してと言った時だったわね。
トゥーラは自分は泥棒では無いと泣いた。
主人から渡されたものは使用人が貰ったものだ、という認識でしたと謝罪し、彼女は使用人が集まってくるぐらいの大声で泣いてしまったのだ。
だから私は強く返してと言えなくなった。
そして、そういう事を知らなかった自分を恥じて、あのネックレスを手放すことに決めたのだった。
私はトゥーラに微笑むと、ソファを立ち上がった。
「お嬢様?」
「ディナーの前の支度をそろそろするわ。あなたもホテルのスタッフを呼んで着飾りなさいな。」
「そうですわね。ここは結婚を希望する男女が集う場所。私でも結婚したいと望んでくださる方に出会えるように頑張りますわ。」
私の胸はズキンと痛んだ。
そうよね。
美しいトゥーラこそ、ご両親が亡くなりさえしなければ、同じ階級の方と結婚して子供の母になっていたはずですものね。
「真珠のネックレス。ホテルに確か売っていたはずよね。手配しておきますから、あなたはそれをお付けなさいな。」
「ありがとうございます。まあなんてお優しいお嬢様。」
トゥーラは嬉しそうに微笑んだ。
これでいいのよね?
お読みいただきありがとうございます。
「伯爵令嬢として……」の侍女は素晴らしきアンナでしたが、こちらの侍女はヴェルヘルミーナと同年代だけあって色々あります。
今夜はアーロとディナーのもう一話を投稿できたらと思いますが、次話のテーマは「お尻」ですので期待外れでしたらすいません。
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