あけましてありがとうございます
俺と千沙の職場で冬休みが始まったのは十二月二十九日からだ。
千沙は近場の会計事務所で働いている。十二月は企業の年末調整の代行で忙しくなるが、なるべく残業にならないように集中して仕事をしているらしい。そして、仕事納めの日に退社するときの解放感はあらゆる職種に共通する喜びであるようだ。
冬休みの偉大な初日をリビングでだらだらと過ごしていると、突然インターフォンの音が鳴り響いた。
千沙が壁に付けられた小型モニターのボタンを押す。
「はーい」
どうやら宅配便のようだ。
千沙は玄関へ行き、しばらくすると段ボール箱を抱えて戻って来た。
結構重そうに見えるが、それをゆっくりと床に下ろす。
「よっと」
「何が届いたんだ?」
「叔母さんから、食料品って書いてある」
「おお」
上部のガムテープを剥がし、箱を開ける。
「あっ、年越し蕎麦じゃん! 多分いいやつ!」
千沙は目を輝かせた。
所狭しと詰められた食べ物の一番上に蕎麦の乾麺がある。パッケージに年越し蕎麦と書かれているわけではないが、年末に届いたのだから年越し蕎麦なのだろう。他には米やレトルト食品や菓子などの雑多なラインナップが揃っている。実家は農家ではないので野菜は入っていない。
「これで俺の食費もチャラだな」
「いや、それはないから」
無情にも俺の提案は即却下された。
千沙はもう一度段ボール箱を持ち上げてキッチンまで運ぶと、こちらを振り向いた。
「貞治、叔母さんにお礼言っといてくれる?」
「ああ」
メッセージで済ませようと思ったが、正月の予定も伝えなくちゃいけないことを思い出し、電話することにした。
ポケットからスマホを取り出し、母さんの番号にコールする。電話はすぐに繋がり、母さんの声が聞こえた。
「もしもし」
「もしもし」
「どうしたのー?」
「荷物届いた、ありがとう。千沙も喜んでた」
「ああ、それはいいんだけど、アンタ新しい家はもう決まったの?」
「とりあえずまだだ」
「千沙ちゃんのとこに結構長くいるから、早く決めなさいよ」
「大丈夫だ。それより、正月は俺と朱莉が三日まで婆ちゃんの家に泊まるから言っといてくれるか」
俺は周りに聞こえないように声を潜めて言った。
「朱莉ちゃんも? 珍しいね、分かったわ」
嘘である。朱莉の同意は得られていないが、外堀から埋めるというやつだ。いずれにせよどこかしらには泊まるのだから、なるようになるだろう。
「よろしく。用件は以上だ、またな」
「え、ああ、千沙ちゃんによろしく伝えといてね」
「あいよ。それじゃあ」
「じゃあね」
通話が終了した。
それから食品が詰められた段ボール箱をキッチンまで運んでやり、千沙と二人で中身を整理して仕舞った。
送られてきた蕎麦は予定通り大晦日に振舞われることになった。が、その当日に新たなミッションが課せられた。朝食をとったあと朱莉と一緒にソファーに座ってテレビを見ていると、千沙が横に立ち、腰に手を当てて言い放った。
「今日は大掃除するよ!」
テレビから目を離し、張り切っている千沙の顔を見上げた。
「ん? ああ。年末に大掃除するなんてすげー久しぶりだな」
「自分の家ではしてなかったの?」
「要は頻度が年一回であればいいんだろ? 別に年末じゃなくたっていいはずだ」
「じゃあ、いつしてたのさ」
「……忘れた」
考えてみると、大掃除をした記憶はない。そもそもワンルームの家に大掃除など必要ないだろう。普段掃除しないところだって三十分もあれば綺麗にできる。
「まあ、いいけど。貞治はリビングと私の部屋とお風呂の窓を磨いて」
「へーい」
俺は首の裏を掻きながら、あくび混じりに返事をした。
「朱莉は玄関と、自分の部屋ちゃんと掃除してね」
「うん」
朱莉は小さく頷いた。
そういえば、まだ朱莉の部屋の中には入ったことがない。朱莉を部屋まで呼びに行くこともないので、ドアの隙間から中が見えたことすらない。小学六年生の女子の部屋。朱莉は自分の部屋で過ごしている時間が長い。一体どんなところなんだろう。俺にとっては深海の奥底と同じくらいに未知の領域だ。
とりあえず俺には関係のないことだ。無駄なことを考えるのはやめ、ソファーから立ち上がった。
「それじゃあ、さっそく始めますか」
「うん、貞治はこれ使って」
千沙は床に置いていた新聞紙とスプレーボトルを俺に手渡した。スプレーボトルは洗剤のようにも見えるが、無色透明でボトルには何も書かれていない。新聞紙に至っては渡された理由すら分からない。
「これは?」
「炭酸水。あと、新聞紙で拭いたら綺麗になるから」
「へぇー」
ちょっと感心した。窓掃除なんて洗剤と雑巾でやるものだと思っていたからだ。
俺は手始めにリビングの窓ガラスを掃除し始めた。朱莉は掃除道具一式を持って玄関へ行き、千沙はキッチンの周辺から手を付ける。
黙々と窓ガラスとサッシを拭きながら思った。
みんなで手分けして家の中を掃除する。こんなことをするのは本当に久しぶりだ。実家に住んでいた頃を思い出す。もう何年も前のことだが。もしアパートが火事になっていなかったら、大掃除なんてしていなかっただろう。実家に帰るのは正月だけだから、大晦日は自宅で気ままにゲームでもしていたのだろう。家事に関してズボラな俺は、炭酸水と新聞紙が窓掃除に役立つなんて知ることもなかったはずだ。
いつの間にか、窓を拭く手が止まっていた。
俺は気付いてしまった。
あの火事がなかったら、俺は今頃ひとりぼっちだったんだ――。
そんなのは毎年のことだ。今に始まったことじゃない。
なのに、今の俺にはそれがとても寂しいことのように思えた。
感傷的な気分を消し去るため、新聞紙を持った手を再び動かす。千沙の言う通り、スプレーで炭酸水を吹きかけると汚れが浮き、新聞紙で拭くと艶が出た。水と違ってすぐに乾くので、乾拭きする必要もなかった。俺はお掃除ロボットになったつもりで窓をひたすら綺麗に拭き続けた。
大掃除は昼過ぎに終わった。かつての俺の自宅よりは広いが所詮は賃貸アパートの一室。三人でやればそこまで時間はかからない。
夜の帳が下りるまで、また普段と同じように休日を過ごした。
夕食の時間になると、朱莉がテレビをつけてチャンネルを大晦日恒例の音楽番組に替えた。人気ロックバンドの明るいナンバーがリビングに響き渡る。俺も特に見たい歌手がいなくても、毎年これを見るようにしている。一年の終わりを実感することができるから。
この番組もここ数年は一人で見ていた。でも今は三人で見ている。不思議な感じだ。今年はきっと、俺にとっては特別な大晦日なんだ。
十一時半頃、言い換えれば年が明ける三十分前、千沙が晩ご飯とは別に年越し蕎麦を作った。
「お蕎麦できたよー」
母さんが送ってくれた蕎麦がコタツの上に並べられる。
三人で食べているうちに、ずっと流しっぱなしにしていた国民的音楽番組が終了した。朱莉は別の音楽番組にチャンネルを替えた。こちらは年越しの瞬間を中継する番組だ。男性アイドルグループのしっとりとしたナンバーが流れ始める。
年越し蕎麦を食べ終えた千沙がひとり言のように呟いた。
「今年も色々あったねぇ」
俺たちの間にちょっとだけ気まずい沈黙が漂う。
今年思い出せる出来事など一つ二つしかない。実際には色々あったのだろうが、ある事件のせいでその他のことが「色々」のうちにカウントされないくらいに霞んでしまった。千沙は離婚し、俺は火事で家を失った。
でもその二つが重なったからこそ、俺たちは今三人で一緒にいるのだと考えることもできる。もし千沙が離婚してしなかったら、この家に長く居座ることはなかったと思う。朱莉だって、俺にしばらくいてほしいだなんて言わなかっただろう。そんな気がしてならない。千沙と朱莉は仲良し親子のままだから、俺が間を取り持つ必要もなかったはずだ。言わば俺は、欠けたパズルピースの代わりとして置かせてもらっているのだ。
今年の終わりまで残り一分を切った。毎年の恒例行事なのに、いつも心がざわついてしまう。俺たちは何も言わないまま、ただその瞬間が来るのをじっと待った。
残り二十秒。
テレビ画面の向こう側でカウントダウンが始まり、千沙もそれに合わせて数字を声に出した。
「にじゅー、じゅうきゅー、じゅうはち、じゅうなな、じゅうろく――」
俺も便乗して秒読みを始めた。
「じゅうごー、じゅうよん、じゅうさん、じゅうに、じゅういち――」
いよいよ年越しの瞬間を迎える。
テレビの出演者たちの声が一際大きくなる。
気が付くと、朱莉も一緒に口を動かしていた。
「じゅー、きゅー、はち、なな、ろく――」
俺たちは三人で、声を揃えた。
「ごー、よん、さん、にー、いち――」
ゼロ。
年が明けた瞬間、テレビ画面にハッピーニューイヤーの文字が大きく映し出され、出演者たちが次々に祝いの声を上げた。
千沙は控えめに拍手をして、朱莉の横顔を見た。
「朱莉、あけましておめでとう」
「あけまして、おめでとう」
朱莉は視線をテレビ画面から千沙に移して言った。
「貞治も、あけましておめでとうございます」
千沙は、俺にはどこか他人行儀な挙動で小さくお辞儀をした。
「……ありがとうございます」
俺も軽く頭を下げた。
不思議そうな表情を浮かべる千沙。
「なんでお礼なんか言うの?」
「知らないのか? 人に祝ってもらったらお礼を言わなきゃいけないんだぞ」
「ふふっ、変なの」
「千沙、あけましておめでとう」
「……ありがとう」
千沙は微かに顔を綻ばせた。ただ返事をしただけではなく、色々なありがとうが詰まっているような声色だった。
俺は無言で頷き、今度は朱莉の方を向いた。
「朱莉も、あけましておめでとう」
「ええと、ありがとうございます?」
朱莉は律儀に倣いながらも、首を傾げていた。
すると、千沙が堪えきれずに声を殺して笑い始めた。
「これ、絶対変だよ」
千沙の笑いが伝播し、俺と朱莉もクスクス笑った。
さっきまでの妙に重い空気はいつの間にか立ち消え、テレビ画面の向こう側では去年ヒットしたアップテンポな曲が華々しくスタートした。