雪だるまに夏は来ない
福岡空港に着くと、待ち合わせの時刻まで気ままに散策を楽しんだ。
空港内のラーメン屋で濃厚な博多豚骨ラーメンを食べ、土産屋で会社へのお土産に苺饅頭を買った。自分用に宮崎地鶏のぼんじりも買っておく。それからロビーで航空チケットを発券し、保安検査場の前で朱莉を待った。
しかし、朱莉は約束の時間になっても現れなかった。日曜日だが大学に用事があると言っていた。それが長引いているのだろうか。
どうしようかと考えていると、黒髪のボブの女が近づいて来て、話しかけてきた。
「どうも……」
一瞬、意味が分からなかったが、すぐに気付いた。
「朱莉か?」
「もう、そうだよー」
朱莉はすっかり大人の女に成長していた。Tシャツにショートパンツというラフな服装だが、背は中学生の頃には千沙を追い抜き、今では俺より数センチ下という高さまで伸びている。腕にはブレスレット。かつてはロングストレートだった髪も短くなった。十年前の俺と同い年で、十年前の千沙と同じ髪型をしていた。
俺たちは近況を報告し合った。ほとんど朱莉の学校や就職の話になったが。そして、俺は千沙の再婚相手について訊いてみることにした。
「千沙の再婚相手とはもう会ったのか?」
「うん」
「どんな人だった?」
「うーん。なんか言葉にするのは難しいんだけど、ちょっと変わった人だったかなぁ」
「へぇ」
そう言われると逆に安心できるかもしれない。なぜなら、前の旦那である如月浩司はいかにも「いい人」というオーラを放っていたから。今回の人もいい人そうと言われていたら不安になっていたところだ。
「お母さんはこれから旦那さんと新しい家に引っ越すの」
「朱莉はどうするんだ?」
「私は一人暮らし始めるんだ。新婚さんの邪魔しちゃ悪いしね」
「とか言って、本当は新しいお父さんと住むのが嫌なんだろ」
「あはは……。実はよく知らない男の人と暮らすのは抵抗あるかも」
「俺とは一緒に暮らしたいって駄々こねてたくせに」
「そりゃあ、貞治君は貞治君だし」
朱莉は意味深な笑いを浮かべながら、耳に掛かった髪を指先で軽くかきあげる仕草をした。
そのとき俺は気付いた。朱莉の腕に巻かれている、ブレスレットだと思っていたものは腕時計だった。よく覚えている。これは十年前のクリスマスイヴに俺がプレゼントしたものだ。
「その時計、まだ使ってくれてたのか」
「あっ、気付いた? 私にとって大切な思い出だもん。捨てることなんてできないよ」
そういえば、十年前もこの場所で似たような会話をした覚えがある。正月に三人で飛行機に乗る前だった。あのときも朱莉はこの腕時計を着けていた。
あの頃俺がやってきた「作戦」は、やっぱり無意味なんかじゃなかったんだな。
俺は照れ隠しみたいに、鼻の下を指で擦った。
「はは、ありがとうな」
「折角着けて来たのに、気付かれなかったらどうしようかと思ってたよ」
「随分物持ちがいいんだな。そんなに高い時計じゃないのに」
「凄いよね。あの日から十年間、止まることなく動き続けてるんだもん」
朱莉の言葉を聞いて、自分だけが十年前に取り残されているような気分になった。
「……朱莉も千沙も色々頑張ってて偉いよな」
「え?」
「なんだか俺だけ、時間が止まったみたいに何も変わっていない気がするんだ」
情けないことに、自分より十歳も下の女の子に自信のなさを漏らしてしまった。
「貞治君」
朱莉はほのかに口元を緩ませて言った。
「時間が止まったり、止まった時間がまた動き出すなんてことは起こらない。時間はただ淡々と、全てに対して平等に進んでいく。だから、私たちも時間と同じ速さで歩いていけばいいだけなんだよ」
時間と同じ速さで? どういう意味なんだろう。
ぼんやりと考えていると、朱莉は腕時計を見て尋ねた。
「というわけで、飛行機の時間は大丈夫?」
俺も時刻を確認した。もう搭乗口に向かわなければならない時間だ。
「俺、もう行くよ」
「うん、体に気を付けてね」
「ああ、またな」
朱莉は微笑み、警察官のような敬礼をした。
「それでは貞治君、よい旅を」
なぜか、その言葉が決別の挨拶のように聞こえた。まるで俺が何年も戻らない長い旅に出て、朱莉がその出発を見送るときのような。
そして、ある予感が俺の頭の中を通り過ぎた。朱莉とはこれが今生の別れとなってしまうという予感だ。三十二年も生きていると、そういうふうに感じる瞬間がしばしばある。この人とはもう会うことはないんだろうなぁ、と。大抵は学校の卒業式だったり、会社で誰かが辞めたときだったりする。予感が外れて再会することもあるが、ほとんどが今現在まで会うことなく記録を更新し続けている。この場合はただの杞憂に終わると思うのだが。
でも仮に今まで通りに会えるのだとしても、俺たち三人の中では本当に何かが終わってしまったような気がする。千沙が再婚したからだろうか。関係性が完結したと言い換えてもいい。
十年前、朱莉が俺とずっと一緒に暮らしたいと言ったときも、もしかしたら同じような予感がしたのかもしれない。もし俺が千沙の家から出て行ったら、俺たちの間にある大切な何かがそれっきりなくなってしまうと言っていた。今生の別れに匹敵する決定的な決別を、あのとき朱莉も感じ取っていたのだろうか。
俺たちはもう、三段重ねの雪だるまのようにはいられない。時が過ぎてあの日々も、わだかまりも、淡い想いも、何もかもが雪と共に溶けてしまった。そう、雪だるまに夏は来ないのだ。
「じゃあな」
俺は軽く手を上げて朱莉に別れの言葉を告げ、保安検査場へ向かった。
今回の搭乗方法は、空港の搭乗口から直接飛行機に乗り込むパターンではなく、一旦小型バスに乗って滑走路を走り、搭乗する飛行機のもとへ行くという流れであった。
飛行機の前まで移動したバスから滑走路へ降り立つと、頭上には雄大な青空が広がっていた。乗客の列に並びながら、周囲の景色を眺めてみる。
すると、縦長の入道雲が一つ浮かんでいることに気が付いた。
俺にはそれが、三段重ねの雪だるまに見えた。
雲ってどうやって出来るんだっけ。空気中に含まれている水蒸気が上空で冷やされて水滴になる、とかそんな感じだったはず。
ということは。
雪だるまが溶けて雲になるということも有り得るはずだ。
俺たちが作った雪だるまの分子たちは今どこにあるのだろう。
エイチ・ツー・オー。
姿形が消えてしまっても、元の関係に戻ることが二度となくても、それでも残るものはあるのかもしれない。形を変えて傍にあり続けるのかもしれない。そういう何かを信じてみるのも悪くはない。
もし将来朱莉が結婚して子供を産んだら、今度は家族が誰も欠けることもなく幸せに生きてほしい。俺たちが雪だるまの前で花火をした思い出話なんかを子供に聞かせながら、親子三人で暮らして雪だるまをまた作ってほしい。
俺はひとりぼっちだ。でも、十年前に千沙のアパートから出て行ったときのような孤独感はもうない。むしろ清々しいほどの気分だ。今の俺ならどこへだって行ける気がする。いっそのこと、婚活でもしてみるか?
眩しい青空と白い雲が見える。とても素晴らしい。ただそれだけのことが、こんなに気持ちがいいなんて。
思いきり深呼吸をしてみる。空気が俺の体内をすみずみまで綺麗にして、何もかもが上手くいくような気がしてきた。
空元気だとしても、それでいいじゃないか。
視線を夏の青空から搭乗用の階段へと移す。
顔を上げ一人でほくそ笑みながら、その灰色の階段を上り始めた。