ママと呼ばなくなった理由
千沙の食べているチョコレートが残り少なくなる頃、朱莉は一度自分の部屋に戻り、小さな袋を持って戻って来た。
「はい、貞治君にもあげる」
透明なラッピングの中にハート型のチョコレートがいくつか入っている。
「あ、俺にもあったのね。なんか小さいけど……」
「手作りなんだから文句言わない」
「これも一応ハートだから気持ちが入ってるってことにしといてやるよ。ありがとな」
「ひひっ」
朱莉はくしゃっとした顔で笑った。俺は、朱莉が年相応の無邪気な笑顔を浮かべているのを初めて見たような気がした。
涙で流し続けたせいですっかり目が赤くなってしまった千沙がおずおずと口を開いた。
「ごめん、私チョコレートは男の貞治の分しか用意してなかった。朱莉から貰えると思ってなかったから……」
そんなもの、俺だったら朱莉のために用意したものだと嘘をつくが、そういう馬鹿正直なところは嫌いじゃない。朱莉も明るい声で千沙を元気付けようとした。
「ううん、全然大丈夫だよ」
「ありがとう。朱莉のチョコ、ホントに嬉しかった……」
千沙は感動しすぎてしまったのか、なんだかしおらしくなってしまっている。仕方がないので俺もフォローしてやることにした。
「そうだ、朱莉には俺が会社で貰ったチョコをやるよ」
「出た、チョコレート転売ヤー」
千沙がすかさず反応する。
「少なくとも転売ではないぞ」
「大丈夫? それ本命じゃないの?」
「馬鹿、おばちゃんから貰った義理チョコだ」
「会社で貰った義理チョコあげるなんて、お父さんみたいだね」
千沙はいつもの調子が戻ってくすりと笑った。しかし、朱莉は刹那的に寂し気な表情を見せた。千沙には俺がこの家を出ることをまだ話していないが、朱莉は既に知っている。
俺は仕事用のバッグから二つの義理チョコを取り出し、朱莉にあげた。一つは手のひらサイズの箱にチョコレートが四個入っているもので、量は少ないが見てくれは綺麗だ。もう一つは袋のパッケージに猫の絵がデザインされていて、朱莉は可愛いと言って喜んでくれた。
千沙も食べかけのチョコレートを一旦アルミホイルの上に置き、自分が用意したチョコレートを冷蔵庫から出して俺に手渡してくれた。
「ほい、あげる」
白い包装紙と黒いリボンでラッピングされた小さな箱だ。千沙からもチョコレートを貰えるとは思っていなかった。
「これは義理か? それとも本命か?」
「……さあ?」
千沙はニヤニヤと笑った。このからかい勝負では千沙の方が一枚上手だったようだ。
俺たちはコタツに入り、互いに贈り合ったチョコレートを一緒に食べた。最後にまた一つ、三人の楽しい思い出を作ることができた。
就寝前、二人で千沙の部屋に入ると、千沙は布団の上に座って俺の顔を見上げた。
「今日のも貞治の作戦だったの?」
俺は照明を消そうとしていたが、千沙の方に目をやった。何かを期待しているような表情だ。壁のスイッチに触れようとしていた手を下ろし、布団の上で胡坐をかいた。
「今回のはマジで何もしてないんだ。朱莉が自分で考えて自分でやったことだ。ただ……」
「ただ?」
「朱莉は、『貞治君が大人になったから私もそうしてあげる』って言っていた」
俺はどこかで言ったことがある。子供に何かをやらせるには、大人が手本を見せればいいって。俺が前を向いて歩き出したから、朱莉も同じように進んでくれた。俺が自分の気持ちを正直に話したから、朱莉も素直に感謝の気持ちを伝えてくれた。俺がちょっとだけ大人になったから、朱莉もちょっとだけ大人になった。
「貞治が大人になった? どういうこと?」
俺がこの家を出ると決意したことを知らない千沙にはちんぷんかんぷんだろう。朱莉が千沙のことをお母さんと呼び結果的に俺の使命も果たすことができたし、今こそ千沙に伝えるべきときだ。
「それなんだけどさ……俺、やっぱりこの家を出て行くことにした。新しい家決めるのはこれからだけど」
千沙は小さく息を吞み、ぼうっと俺の顔を見たあと、少しだけ俯いた。
「そういうことか……残念だな」
「残念なのか?」
「うん。でも、いつまでもこうしてるわけにもいかないもんね」
理由を詳しく訊く気はないようだ。朱莉と違って大人だから、この生活が正常じゃないということはちゃんと分かっている。
「話がコロコロ変わってごめん。朱莉にはわけあって一昨日話した」
「そっかぁ……それで朱莉も大人になったのかぁ」
千沙は天井を見上げた。何かに頭を巡らせているような目をしていた。
そのまま数秒間じっとしてから、こちらに顔を向けた。
「結局、どうして朱莉は離婚してからママって呼ぶのやめたんだろ?」
朱莉がママと呼ばなくなった理由、か。
正直に言えば、浩司が朱莉に向かって「毎日パパって言われるのが苦痛だった、パパと言われなくなるのが嬉しい」とか抜かしたことが、原因として最も可能性が高いと思う。でも俺の口からそんな話はしたくない。
最初、俺にしばらくこの家にいてほしいって言い出したのも千沙のためで、ママと呼ばなくなったのも千沙に嫌がられたくなかったから。朱莉は千沙が好きで、全ては千沙のための行動であった。
これは朱莉が千沙のことをちゃんと信じられるようになったとき、朱莉自身から話すべきことだ。朱莉ならいつか必ずそうしてくれると俺は信じている。
だから、今は代わりとなる可能性を提示してみることにした。
「それについては俺も教えてもらってないんだが……案外、ただママという呼び方が恥ずかしくなっただけだったりしてな」
そうだとしたら、自分で大した理由じゃないとは言っていたが本当にその通りだ。でも他人にとってはどうでもよくても、自分にとっては譲れない大切なことだってある。人は人と関わることで互いにそういうものがあるということを知っていく。朱莉は、朱莉の大切な想いを千沙に差し出してくれた。今日はそういうことにしておこう。
「そんなオチなの?」
千沙は微笑んだ。それからまた少しの間、口を閉ざした。今度は喜びと愛しさを嚙み締めるような沈黙だった。
「ねぇ」
まだ話があるというのか。でも千沙と布団を並べて寝るのもあと数えるほどしかないから、付き合うことにする。
「なんだ?」
「まだちゃんと言ってなかったんだけど……」
「うん」
「ありがとう。貞治がいてくれたから私たちは……ううん、誤魔化すのはもうやめるね」
千沙は一度目を逸らし、一呼吸置いた。
そして、再び俺の目を見た。
「貞治がいてくれたから、私は救われた」
「千沙……」
俺は千沙を救うことができたのか。そういえば、俺が最初に泊まらせてほしいという電話をしたあと千沙は嬉しそうにしていたと、朱莉が言っていた。でも俺はそのためにこの家で暮らしてきたわけではない。結局のところは、俺がただ一緒に暮らしたいからそうしてきただけなんだと思う。だから、何と答えたらいいのか分からない。
すると、千沙が先に口を開いた。
「……もう寝る?」
俺が話す前に、話が終わってしまった。何かしらの返事を求めていたわけではないようだ。
「そうだな」
俺は立ち上がり、千沙の体ではなく白い四角形の無機質なスイッチに手を触れ、照明を消した。
「……おやすみ」
暗闇の中から千沙の声が微かに聞こえた。俺は何も言わずに布団の中に入った。