バレンタインデー
その一日、俺は悶々とした気分で過ごすはめになった。女からバレンタインデーに気持ちを伝えると宣言されて平然としていられるほど能天気な男ではない。だが朱莉は親戚だ。いとこの娘だ。きっと「お兄ちゃん、ありがとう」という形式のものだろう、兄ではないけれど。というか、そうだと信じたい。まさか恋愛感情なんてことはないはずだ。だってまだ小学生だし。お付き合いなんてしたら逮捕されてしまうかもしれない。そう考えると、チョコレートを受け取っていいのかということすら心配になる。触れた瞬間どこからともなく警察が現れ、「女児からバレンタインチョコを貰った事案」として捕まるのではないだろうか。んなわけないか。だけど朱莉はいとこ同士が結婚できることも知っていた。いとこの娘なら同じ血は更に薄まるはずだ。五親等? いや、さすがにそんな話は飛躍しすぎだ。
就寝前、暗くなった部屋で隣の布団に入った千沙が言った。
「朱莉、今度友達の家でバレンタインチョコ作るんだって」
「へ、へぇー」
平静を装ったが、内心ドキリとした。貰うチョコが手作りだと判明し、重みが増してしまった。
「朱莉がそんなことするなんて初めてだよ」
わざわざ自分で作るのは初めてだという情報まで加わってしまった。何もしていないのになぜか責任を感じてしまう。
「好きな男子でもいるんじゃないのか?」
何を言っているんだ、俺は。でもそうであってほしい。俺は好きな男子のついでに日頃のお礼をされるだけなのだと。
「貞治、実は期待してんじゃないの?」
千沙がからかうように言った。暗くて顔はよく見えないが、ニヤニヤしているということが声だけで分かる。俺は適当に誤魔化すことにした。
「はは、朱莉の手作りチョコ楽しみだなー」
「いつもはチョコ貰えるの?」
「会社の人だけだなー。別に嬉しくねーけど」
「ああ、気遣うよね。お返ししなきゃいけないし。まあ、そういう私も配るんだけど」
最近は悩みごとばかりだったから、ふと下らない話がしたくなった。俺は千沙に提案した。
「そうだ、久しぶりに小話をしてやろうか? ホワイトデーにまつわる話」
「うーん、そこはかとなくろくでもない話な予感がするけど、いいよ」
さりげなく失礼なことを言われている気がするが、俺はわざとらしい咳払いをしてから話し始めた。
「ホワイトデーのお返しなんだが、バレンタインに貰ったチョコが市販品だけで、かつ二人以上なら、お返しを用意する必要はなくなるんだ」
「どういうこと?」
「つまり、Aさんに貰ったチョコをホワイトデーにBさんに渡して、Bさんに貰ったチョコをAさんにあげればいいんだ。チョコは一ヶ月程度じゃ賞味期限切れないからな」
「予想以上に最低だった……」
「まあ、俺はそんなことしたことないけど」
「本当かなぁ」
疑っているような口ぶりだが、楽しそうな声色だ。
その後も他愛のない話を少ししてから眠った。今思えば、こういう何気ない日々の会話にも随分と救われてきた気がする。この家を出て行くと決めた今、改めてそのことを実感することができた。
バレンタインデーの前日も、いつも変わらない一日だった。この家を出て行くという話は千沙にはまだしていない。朱莉がどういうつもりでいるのか分からないからだ。バレンタインに関する話題も何も出てこなかった。俺は仕事が終わったあとネットで検索し、新しい家の候補だけ一応目星を付けておいた。
そして訪れたバレンタインデー当日。俺は会社にいる二人のおばさん社員から義理チョコを貰った。千沙に話したようなホワイトデーへの流用はさすがにする気はないので、義理チョコは千沙と朱莉にも分けてあげることにする。
夕食後、朱莉はすぐ自分の部屋に行ってしまったので俺はとりあえずソファーに座って待った。千沙はコタツに入ってスマホをいじっていた。すると、案の定俺のスマホに朱莉からメッセージが届いた。今から部屋に来てほしいとのことだ。
いよいよかと、緊張が走る。俺は千沙に怪しまれないよう、トイレにでも行くかのような自然体で立ち上がりリビングから出て行った。
朱莉の部屋のドアの前に立つと、俺の鼓動は激しさを増した。千沙にずっとこの家で暮らしたいと言ったときよりもドキドキしているかもしれない。落ち着け、ただ義理チョコを貰うだけだと自分に言い聞かせ、ドアをノックした。
「開けていいよー」
部屋の中から朱莉の声が聞こえた。いつもは自分で開けるのになんで今日は俺に開けさせるんだと思った。おそるおそるドアノブを握り、ゆっくりと開ける。そして俺は、目を見開いた。
部屋の奥にあるベッドの前に朱莉が立っていて、赤い紙が巻かれた巨大なハート型の物体を胸に抱えていた。まさかとは思うが、あれはチョコレートなのだろうか。平らだがとにかくデカい。全長三十センチメートルはありそうだ。あんな型どこで売っているんだ。
俺が部屋の中に入っても朱莉は何も言わなかった。恥ずかしそうに目を逸らしている。とりあえず何か話してみることにした。
「それはハート型のピザか?」
「……そんなわけないでしょ。バレンタインチョコだよ」
朱莉はまっすぐに俺の目を見た。瞳が少し潤んでいて、切なげな表情をしている。
「ちょっと気合入れすぎちゃったけど、これが私の気持ちだから……」
頭が真っ白になり、言葉を失った。
すると朱莉はチョコレートを胸に抱えたまま、絶句している俺に歩み寄り、近づいて――横を素通りした。
「え?」
朱莉はドアの前で立ち止まり、後ろを振り返った。
「貞治君。ちゃんと見ててね、私が大人になるところ」
そのまま部屋から出て行ってしまった。
その瞬間、俺は全てを察した。
ああ、そうか。そうだよな。お前が一番好きな相手は俺なんかじゃなくて、最初から決まっていたんだ。
またもやお前にしてやられたよ。
俺は朱莉のあとについて行き、短い廊下を歩いた。あんなに小さいと思っていた朱莉の背中が、今では大きく、凛々しく見える。
朱莉はリビングに行き、コタツに入って座っている千沙の横に立った。
「ねぇ」
「んー?」
スマホを見ていた千沙は朱莉の方を振り向き、驚いた。無理もない、謎の巨大なハートを胸に抱えているのだから。
「これ、あげる」
朱莉はチョコレートを両手で持ち、千沙に差し出した。
「え、私に?」
千沙はポカンとしながらも朱莉のチョコレートを受け取った。
「もしかして、バレンタインの?」
「うん」
「……開けていい?」
「うん」
俺も朱莉の横に立って覗き込んだ。
千沙はハート型のチョコレートに巻かれてしわしわになっている赤い包装紙を剝がした。内側にアルミホイルも巻かれていたのでそれも丁寧に剥がしていく。すると、朱莉の手作りチョコレートが全貌を現した。
大きなハート型の板チョコだが、いかにも素人が冷やして固めましたという仕上がりで角がところどころ欠けている。
そして、真ん中にホワイトチョコレートの文字でこう書かれていた。
『お母さん いつもありがとう』
千沙の肩がぴくっと震え、チョコレートを手に持ったまま動かなくなってしまった。
朱莉は黙っている千沙に向かって言った。
「これからは、ママじゃなくてお母さんって呼んでいい? ママってなんだか子供っぽいから」
「え……」
千沙は朱莉の顔を見上げた。涙が一滴だけ、頬を伝っていた。
「うん、いいよ……」
そう言って涙の雫を指で拭った。
「これ、食べていい?」
「もちろん」
優しく微笑みかける朱莉。
千沙はハートの下側の尖っている部分から齧り、何も言わずに無心で食べ続けた。
「お母さん、美味しい?」
朱莉が尋ねると、千沙は口の中のものをごくんと飲み込み、手に持っているチョコレートをじっと見ながら言った。
「朱莉、これ間違えて塩とか入れてんじゃないの」
「えっ!?」
朱莉は一瞬焦った表情を見せたが、そうではないとすぐに気付いて顔を綻ばせた。
よく見てみると、千沙の瞳から溢れた涙が大きなチョコレートの上にぽたぽたと落ちていた。
今までのことを思い出して感極まったのかもしれない。不倫されたこと、離婚したこと、それ以来朱莉に距離を置かれるようになったこと――。
「美味しいけど、なんだかしょっぱいよ……」
そう言いながらも、泣きながらチョコレートを食べている。
俺と朱莉はそんなお母さんの姿をずっと傍で見守っていた。