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何もかもが日常になってしまう

 家に帰る頃には三時を過ぎていた。暖かいリビングの中で、千沙がソファーに座ってテレビを見ている。画面の中では人気声優がインタビューを受けている。


「ただいま」


「おかえりー」


 千沙はテレビの方を向いたまま返事をした。

 俺がソファーの前まで来て隣に座るとようやくこちらを向いた。


「アパートどうだった?」


「もう解体されて何も残ってなかったよ。一応写真は撮ったけど」


「あはは、意味ないじゃん」


 千沙の声が風船のように弾んだ。俺は受け取った風船を返さずに仕舞った。浩司と会ったことについては、千沙には話さないことにした。少なくとも今はまだ。


 それから俺たちは会話をせずにテレビを眺めた。人気声優が、子供の頃は声がコンプレックスだったというありがちな話をしている。しばらくすると、俺は思い出したように平凡な声を出した。


「なあ」


「うん?」


「俺がここで暮らす()()()の件だけど……」


 俺がずっと千沙の家で暮らすことを周囲に対して何と説明するか、ということだ。


「え? ああ、それね。何かいいの思いついた?」


「俺たちが一緒に暮らすために物事の辻褄を合わせる必要があるというのなら、俺とお前が事実婚をするという形を取ってもいい」


「……え?」


 千沙は目を丸くした。


「え? え?」


 突然事実婚すると言われ、明らかに戸惑っていた。が、俺は他に何も言わなかった。千沙がちゃんと答えるのを待った。


「何それ? 大きくなったらお姉ちゃんと結婚したいってやつ? 照れるなぁ」


 千沙は普段雑談をしているときに見せるような微笑みを浮かべた。俺の言ったことは冗談のようなものだと解釈されたようだ。


 それもそうだ。本当に辻褄を合わせたいのなら、こんな回りくどいことは言うべきではない。たとえ俺の本心ではなくても、千沙には「好きだ、ずっと一緒にいたい」と言うべきなのだ。彼女が必要としているのは、彼女から失われてしまったのはそういう類の言葉だ。ただそれだけを伝えるということが、物事の体裁を整えるということなのだ。


「冗談だよ」


 俺は千沙から顔を逸らし、素っ気なく簡潔に答えた。


「そうだよね……。あはは、ビックリした」


 横目で見てみると、千沙は両手で困り笑顔をパタパタと仰いでいた。


「朱莉は部屋か?」


「うん、そうだよ」


「ちょっと行ってくる」


 俺は立ち上がって小さな声でそれだけ言い残し、リビングから出て行った。


 今までは意識していなかったが、浩司もかつてはこの家で暮らしていた。部屋の風景の中に浩司の姿をありありと思い浮かべることができる。そして、たとえ表面上だけであっても、千沙と朱莉が浩司と一緒に楽しく時を過ごしていたのを想像するのが不快になってしまっている。それが二人にとって最良の生活であったはずなのに。


 朱莉の部屋を訪れるのはこれで二回目だ。前回と同じように軽くノックをすると中から「はあい」という声が聞こえ、ドアが少し開いた。


「あ、貞治君。どうしたの?」


 朱莉は驚いたり嫌そうな顔をしたりはしなかった。どちらかといえば好意的な反応だ。


「さっき、街中で朱莉の父親と会った」


「えっ!?」


 開口一番、単刀直入に告げると、小春日和のようだった朱莉の表情が一気に曇った。


「中で話してもいいか?」


「う、うん……」


 俺は部屋に入れてもらい、床の上に座った。朱莉はベッドに腰掛けた。


「今日、前のアパートを見に行ったんだけど、そこで偶然会ったんだ。それでちょっと話をした」


「そうなんだ……」


 朱莉は何と言ったらいいのか分からないといった様子だ。


「まあ詳しくは省くけど、あいつが不倫した理由とか考え方を聞いた。で、俺も自分のことについて考えてみた」


 一度小さく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。朱莉は固唾を吞むように次の言葉を待っている。


「俺、やっぱりこの家から出て行くよ」


「……本当に?」


「ずっといてやるって言ったのに、ごめん。でも今度こそ本当に決めたんだ」


「どうして……」


 消え入りそうな朱莉の声。

 俺は落ち着いて、はっきりとした口調で話し始めた。


「浩司に言われて思い出したんだ。千沙が離婚しなかったら俺たちが一緒に暮らすことはなかった。だから、もしこの暮らしを続けてずっと幸せであったら、いつか『千沙が不倫されて、離婚して良かった』って思ってしまいそうで……そういうのが怖いんだ。千沙と朱莉があんなに悲しい目に遭ったのに……」


「そんなこと……今が幸せならそれでいいよ!」


 朱莉は悲痛な面持ちで異を唱える。しかし、俺は一歩も退かずに続けた。


「確かにお前らと一緒に暮らすのは楽しいし幸せだと思う。でもそれだけじゃダメなんだ。俺は、浩司と違ってお前らと苦楽を共にして生きてきた男じゃないから」


 もちろん、そんなのは世の中の再婚相手とかの全員に言えることだ。だがこれが俺のリアルな気持ちだ。


「相手のこと何も知らない状態から仲良くなって、頑張って付き合って、結婚もして、必死に子育てして……そういう頑張りを一から積み重ねることなく、完成された幸せな生活をいきなり自分のものにするなんて、なんかズルしてるみたいで……。俺だってきっと、そういうのを自分の道のりとして歩まなきゃいけない気がするんだ」


 それはきっと、如月浩司が体験したような感情の昂りと共にあるものだ。不倫をするのは論外だが、それほどの衝動を俺はまだ知らないし、知りたいという気持ちもある。

 そう、俺は心の中で求めていたのだ。浩司と同じように。


「俺は決して不幸とは言えない人並の生活だけでは満たされず、生き方までも変えてしまうような何かを追い求めていた。だから故郷から遠く離れた福岡で就職した。千沙の家でずっと暮らそうとした。でもそれではダメなんだ。程度は違うが、結局浩司と同じなんだ。自分の欲求のために道理までも捻じ曲げてしまうのは」


 朱莉はちゃんと話についてきているだろうか。俺の想いを理解できているだろうか。分からないけれど、俺は自分に言い聞かせるように話し続けた。


「それに何度生き方を変えたって、どんな生き方をしたって、結局は同じだ。時が経てばいつかは()()()()()()()になってしまう。このまま一緒に暮らしたって、俺は中途半端な形で破綻させてしまうかもしれない。それは嫌だ。千沙と朱莉と過ごした日々はずっと大切な思い出として残しておきたい。だから、大切だと思えるうちにちゃんと終わらせたいんだ」


「でも、貞治君が出て行ったら、私だって嫌だよ……」


 朱莉は目を伏せて俯いた。

 俺は朱莉の前に膝で立ち、彼女の肩に両手を置いた。


「朱莉、一つだけお願いがあるんだ」


 朱莉は顔を上げ、俺の目を見つめた。


「……何?」


「俺や他の奴らのことは信じられなくなってもいい。でも千沙のことだけは信じてくれ。今すぐじゃなくていいから、話せなかったこともいつか話してやれ。あいつだけは、お前を絶対に見捨てたりしないから」


 朱莉が千沙をママと呼ばなくなった理由が、浩司に酷いことを言われたからというのも結局俺の推測でしかない。でも、俺はもうその理由について問い詰めるつもりはない。朱莉が千沙と一緒に幸せになってくれればそれでいいし、俺がいつまでも二人の間に入るのは却って良くないだろう。


 朱莉はしばらくの間返事をせずに黙っていたが、やがてポツリと呟くように言った。


「うん、分かったよ……」


 朱莉は俺と浩司の会話の内容を知らない。でも、自分が受けた仕打ちについて俺が聞いてしまったということは悟ったのかもしれない。何か納得したような表情になり、普段と同じ調子で言った。


「貞治君、今まではちょっと子供っぽかったけど、大人になったね」


「……そうか?」


 自分ではよく分からない。今まで子供っぽかったのかどうかも、今大人になったのかどうかも。


「ずっとふわふわと宙に浮かんで漂っている感じだった。けど、今は何かに向かってちゃんと進もうとしている。それが何なのかは私には分からないけど」


 そうなのかもしれない。ようやく前に進もうとしているという実感は確かにある。


「出て行っちゃうのはとても残念だけど……仕方ないんだよね」


「ごめん……」


「いいの、貞治君が大人になったから私も大人になってあげる」


 どういう意味なんだろう。俺は腰を下ろし、ぼんやりと考えていた。朱莉は更に続けた。


「でも来週までは待ってくれない?」


「え? ああ、どっちにしろすぐには出れないよ。家決めるのもこれからだし」


「良かった。じゃあバレンタインデーに、私もちゃんと気持ちを伝えるから」


「バレンタインデー?」


 特に意識はしていなかったが、確かに四日後にはバレンタインデーがある。


「貞治君が自分の気持ちを正直に打ち明けたから、私もそうしようと思う」


 一瞬、俺の鼓動が大きくなった。


「……何の話だ?」


「ふふっ、それは当日のお楽しみ」


 朱莉は立ち上がり、学習机の側面に掛けてあるランドセルを開けた。


「さあて、これから宿題やるから貞治君は出て行ってね」


「おい」


 俺の声を無視し、ランドセルから何かを取り出す。


「これ、鳴らしちゃうよ」


 朱莉はニヤリと笑った。手に持っているのは防犯ホイッスルだ。


「久しぶりに見たな、それ」


 クリスマスイヴに二人で天神に行ったときに朱莉が持っていたものだ。二ヶ月も経っていないのに随分と懐かしく思える。


「さあ、行った行った」


 朱莉は俺を立たせて部屋のドアを開けた。それから背中を押して部屋の外に出し、ドアを閉めてしまった。追い出された俺はドアの前で呆然と立ち尽くした。

 バレンタインデー? 気持ちを伝える? まさか――。

 真冬だというのに、こめかみに冷や汗が一滴垂れるのを感じた。

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