きっとこの気持ちが、新しい季節の始まり
俺は立ち上がり、ベッドに座っている朱莉の方を向いた。
「じゃあ、千沙に話しておくから」
「うん」
朱莉は小さく頷いた。他には何も言わなかった。言う必要もなかった。俺に迷いがないと言えば嘘になるが、自分の中で決意が徐々に固まっていくのを感じる。俺は踵を返し、今日初めて入った部屋から初めて出て行った。
ずっとここに住みたいと頼んだら千沙は何と答えるだろうか。短い廊下を歩く間に鼓動が一気に早くなった。足を一歩踏み出す度に、心臓の音が大きくなっていった。
リビングに入って見回すと、千沙はキッチンで洗い物をしていた。俺はゆっくりとそこまで行って、千沙の横に立った。
「千沙、ちょっといいか?」
「ん?」
「話があるんだ」
千沙は蛇口から流れる水を止め、俺の顔を見た。
「どうしたの? 改まって」
「俺、ずっとこの家に住みたい。同居人として住まわせてはくれないだろうか?」
「……ずっとってどのくらい?」
「ずっとはずっとだ。無期限だ」
「同居人ねぇ……」
少しの間俺から目を逸らし、口を閉ざした。俺も黙って千沙の答えを待った。
「最近朱莉と色々話してたみたいだけど、その話だったんだよね?」
「そうだ」
「実は今朝、朱莉にも言われたんだ。もし貞治が望んだら、うちにずっと住んでもいいかって」
「なっ……」
朱莉の奴、一応根回しはしていたのか。それならそうと言ってくれればいいのに。
「お前は何て答えたんだ?」
「私は……朱莉の望みを受け入れた」
「えっ」
千沙は視線をシンクに戻し、一言ずつ区切るように言った。
「だから、朱莉と貞治がいいなら、わ、私もいいよ……」
俺は言葉を失った。自分の望みとはいえ、本当に叶ってしまうとどう反応すればいいのか分からなくなった。お互いに何も言わず、千沙が食器を洗う音だけが妙に大きく聞こえた。
「そんな簡単に決めていいのか?」
俺はようやく口を開いた。
「要は今までと変わらないってことでしょ。私も慣れたっていうか、貞治がいる方が普通な感じになってきたし」
「そんなもんなのか」
「なに、断ってほしかったの?」
千沙がまたこちらを向いて微笑んだ。
「そうじゃないけど、こっちも覚悟決めて言ったから拍子抜けだと思って」
「うーん……。じゃあ、一つだけ条件」
再び水を止め、ハンドタオルで手を拭き、こちらに向き直る。
「何だ?」
「貞治は約束のためじゃなく、私や朱莉のためではなく、自分がここに住みたいから住むってちゃんと言って。私の目を見て、貞治の口からそう言って」
いつの間にか、千沙の顔付きが真剣になっていた。だから俺もちゃんと応えようと思った。
「千沙や朱莉のためじゃなく、俺自身がこの家にずっと住みたいと思っている。だから、住まわせてください」
最低限の礼儀として頭を下げる。
「ならば良し!」
頭を上げると、いつもの穏やかな千沙に戻っていた。
「あと、叔母さんたちに話す言い訳もちゃんと考えておかないとね」
悪戯を企む子供みたいに白い歯を僅かに覗かせる。
「ま、とりあえずは朱莉に報告するよ」
「うん……」
最後に、千沙は安堵したかのような淡い笑みを見せた。
俺は再び朱莉の部屋のドアの前まで行った。
ノックをするとドアが開き、俺は朱莉に告げた。
「千沙に訊いたら、ずっとこの家にいてもいいって」
朱莉は呆けた表情で俺の顔を見上げた。
「……貞治君も、本当にいいの?」
「うん、いいよ」
「そっか、いいんだ」
朱莉はちょっと俯き、頬を緩ませた。
俺たちの間に嬉しいような気恥ずかしいような空気が流れた。
大人になってから、福岡に引っ越したり、この家で暮らし始めたり、思えば色々な出来事があった。
俺は昔から、心が躍るような生き方というものを模索し続けていた。
そして到達点は、家族でも友達でも恋人でもない普通の女の子をただ喜ばせるだけのことであった。
そういうのも悪くはない、今はそんな風に思える。
こうして俺は正式に同居人として千沙の家で暮らすことになった。だが千沙が言った通り、日々の生活は昨日までと何も変わらなかった。変化らしい変化を強いて挙げるとするならば、俺の私物を置く収納でも買おうかねという話をしたぐらいだ。
やがて二月となり、節分の日が訪れた。
俺はコンビニで節分の豆を見かけ、小袋を三つ買った。夕食後、千沙と朱莉がコタツに入ってテレビを見ているときに、鞄の中に入れっぱなしにしていた豆の袋を取り出して持って行った。すると、千沙がこちらを向いて言った。
「ああ、今日節分だっけ」
千沙は節分のことはすっかり忘れていたようだ。
「節分といえば豆撒きだろ?」
俺は座ってコタツの上に豆の袋を三つ置いた。すると、朱莉も口を開いた。
「どうして節分の日には豆撒きをするの?」
「節分は季節を分けるという字を書くだろ。で、昔は季節の分かれ目に鬼とか邪悪なものが現れると考えられていた。だから豆を撒いて退治するんだ」
「へぇー」
朱莉は感心していた。子供に知識を与えてやるのもなかなか気持ちがいい。
「じゃあ恵方巻は? なんで毎年違う方角を向いて食べるの?」
「マンネリ防止だ。毎年同じ方角だと飽きるだろ」
「急に説明が適当になったな……」
千沙に横槍を入れられる。だが朱莉は気にせずに話を続けた。
「今年はどの方角なの?」
「知らん」
「……あっそ」
朱莉の表情が不満気になった。分からないからいい加減に答えていたのがバレたようだ。
俺は話題を変えようとして千沙の方を向いた。
「この家は豆撒きとかはしないのか?」
「うーん。朱莉が小さい頃はしたけど、もうそんな歳でもないし」
言われてみれば、俺もせいぜい小学校低学年までしか豆撒きなんてやっていなかったかもしれない。
「ふぅん」
俺は適当に相槌を打ちながら豆を一粒取り出し、千沙に向かって投げた。
「痛っ」
豆は千沙のおでこに当たり、コタツの上に落ちた。
千沙は俺を睨み、豆の袋を一つ掴んで開けた。
そして無言の笑みを浮かべながら豆を投げてきた。
俺は腕でガードしながら立ち上がり、座っている千沙に思いっきり豆を投げつけた。
「きゃっ」
怯んだ隙に次弾を撃ち込む。
「いやー、もうっ」
千沙も更に豆を投げ返す。
「えいっ」
「コノヤロー」
俺たちは豆を投げつけ合った。「鬼は外」も「福は内」も言わず、年甲斐もなくただ豆を当てることに夢中になった。
すると、黙って座っていた朱莉がついに声を上げた。
「ねー、もうやめなよ。豆だらけだよ」
リビングの床の上には俺と千沙の投げた豆が散乱している。
「あはは、やりすぎちゃった」
千沙はばつが悪そうに笑った。
「もう。二人とも子供なんだから」
「ごめんなさい……」
「ちゃんと歳の数だけ食べてね」
これではどっちがお母さんなのか分からない。
「じゃあ俺は二十二個だな」
「ふふふ、私は三十二個かぁ……」
千沙は自虐的な笑みを浮かべながら、しゃがんで豆を拾った。
部屋中の豆を集めると、コタツに入って三人でそれぞれ歳の数の豆を食べた。千沙は途中からちょっと苦しそうにしていた。
一週間後の土曜日、俺は火災保険の手続きがまだ終わっていなかったということをふと思い出した。千沙の部屋に置かせてもらっていた保険会社の案内を確認してみると、申告書類の他に部屋や建物の写真が必要だということが書かれていた。全焼で、しかも事件から二ヶ月近く経っているからもう何も残っていないかもしれない。
更地の写真を撮ることに意味があるのかは分からないが、かつての自宅があった場所をあの日以来一度も見ていないので、散歩がてら行ってみることにした。まだ午前十時だから、今から行けば昼飯時には帰って来られる。
ベランダの窓を開けると、外の冷たい空気が部屋に入り込んで来る。そんな中でも洗濯物を干している千沙に声をかけた。
「ちょっと出かけてくる」
「うん、どこ行くの?」
「前住んでたアパートのとこ。火災保険の写真撮ってくる」
「アンタ、まだ手続きしてなかったの?」
千沙は俺のシャツを物干し竿に掛けながら言った。今日雨は降らないらしいが、灰色の曇り空だ。
「保険下りたら飯奢ってやるから」
「よく言うよ」
呆れたような声だけど顔は微笑んでいる。そういう何気ない一瞬が、くすんだ冬の日だからこそ温かく感じられる。これからもずっと続いていくということが、たまらなく嬉しい。
「昼には帰って来るから」
「いってらっしゃい」
千沙の言葉を何かのお守りのように胸に仕舞う。それから窓を閉め、リビングを通り、玄関で靴を履いた。朱莉は自分の部屋にいるようだ。朱莉には毎回家を出る度に一声かけるわけではないので、そのまま出発した。
昨日振った雪がしっかりと街中に積もっていた。新しい足跡を刻みながら、火事が起こった日に歩いた道のりを逆に辿っていく。まるで過去へ遡っていくかのように。いつもより静まり返った街を歩き、駅で地下鉄に乗り、昨年まで住んでいたアパートの最寄り駅で降りた。
この駅に来たのもあの日以来だ。駅の構内、駅前のロータリー、大通りに並ぶ店、道の狭い住宅街、全ての風景が懐かしい。
あの日はアパートへ近づくにつれて街の喧騒が段々と大きくなり、ただならぬ雰囲気が色濃くなっていった。でも今日はそんなことはない。むしろ近づけば近づくほど人が少なくなり、静かになった。
駅から十五分ほど歩いたところで目的地に到着した。予想通り、アパートの跡地は更地になっていた。しかも雪が積もっているからただの雪原と化している。一応仕切り用のロープで囲われているが、こんな光景を撮ることに意味があるとは思えない。
だが俺はスマホで写真を撮った。火災保険のことは関係なく、この場所というものを記録したくなったのだ。
それから、せいぜい腰の高さしかないロープを跨いで越え、中に入ってみた。跡地の中心まで歩いて瞼を閉じ、冷たい空気で深呼吸をした。一人で暮らしていた日々を思い出した。平凡で、平凡なだけの日々。千沙や朱莉と一緒に暮らすと決めた今、一度過去を振り返ってみるのもいいかもしれない。
ここに建っていたアパートを思い浮かべた。ここで過ごした生活に想いを馳せた。それらを全て焼き尽くした炎の眩しさと熱さが甦った。
やがて自分の中で何かが清算されたのを感じ取り、目を開いた。濁った空を見上げ、千沙と朱莉のことを思い出し、無性に会いたくなってきた。なんというか、悪くない気分だ。きっとこの気持ちが、新しい季節の始まりだ。
強い風が何もない跡地を吹き抜けていく。突然押し寄せた寒さに体を震わせた。このままここにいたら風邪を引いてしまう。
うちに帰ろう。俺の家はもう、ここではないのだから。
跡地から出ようと思い、後ろを振り返る。
が、その瞬間、心臓が凍りついた。
背後に黒いダッフルコートを着た人物が立っていた。身長は俺より少し高い。振り向くまで全く気配を感じなかった。
「え……?」
俺は驚きのあまり目を見開いた。しかし、相手は対照的に眼鏡の奥から穏やかな瞳をこちらへ向けている。
千沙の元旦那である浩司さんが、過去の世界から呼び起こされた亡霊のように佇んでいたのだ。