俺がどうしたいのか
冬休みが終わり、新しい日々が始まった。俺と千沙は日中仕事に出て、朱莉はブラウンのランドセルを背負い学校に通った。
俺が朱莉の勉強を見てやることもあった。中学あたりから記憶が怪しくなってくるが、小学校までの内容なら普通に教えることができる。相変わらず朱莉の部屋には入らないが、朱莉は俺に教えてほしいとき、リビングで勉強をする。以前よりもリビングにいる時間が増えたと思う。それはおそらくこの家族にとっては良いことなのだろう。
変わったことといえばそのくらいだ。俺は新しい家を探していないし、いつまでいるとかいないとか、そういう話をされることもなかった。生活費はたまに千沙に渡す。母さんに近況を確認されたら、なんとか誤魔化す。そのあと大抵は食料が送られてきて、千沙と朱莉と一緒に美味しく頂く。その繰り返しだ。
一月のとある休日、ソファーに寝転がってスマホを見ていると、千沙が屈んで俺の顔を覗き込みながら言った。
「貞治、これからスーパー行くけど一緒に来る?」
「え? いや、俺はいい」
「あっ、そう」
あっさりとした返事。表情には出ないが、不満なのが声色だけで感じ取れるようになってきた。
「洗い物はやっとくから」
「分かった、お願い」
千沙はリビングから出て行き、玄関扉の開閉する音が聞こえた。機嫌の取り方にも慣れたものだ。
そう思ったのも束の間、再びリビングのドアが開く気配がした。千沙が忘れ物でもしたのだろうかと思ったが、今度は朱莉だった。
「貞治君、話があるの」
朱莉は俺の顔を覗き込んで言った。この親子には、ソファーで寝ている人に話しかけるとき顔を覗き込む遺伝子でもあるのだろうか。
「ああ、いいぞ」
俺は体を起こし、朱莉が隣に座った。
「あの……」
朱莉は口籠った。言いづらいことなのだろうか。そこはかとなく嫌な予感がする。
「……どうしたんだ?」
「貞治君って、私がママのことをママって呼ぶようになるまでうちにいるっていう約束してるの?」
突然の問いに鼓動が騒ぎ出した。そのことは当然千沙にしか話していないのに。
「……なんでその話を知ってるんだ?」
「ごめん、聞いちゃったんだ。飛行機の中で」
「飛行機?」
「私が寝てるって勘違いして話してたとき」
「あ……」
正月に婆ちゃんの家に行ったときの帰りだ。確か、朱莉は隣の席でいつの間にか眠っていたはずだ。
「あのとき起きてたのか……」
「最初は本当に寝ちゃったんだけど、すぐに目が覚めたの。でも寝てるって思われてたから、まあいいやこのままでって思ってたら、そしたら……」
俺が千沙との約束の話を口走ったってわけか。バレてしまっては仕方がない。白状するしかないだろう。
「朱莉が言った通りだよ。千沙は、朱莉が自分のことをママとか呼ばなくなったことを気にしていた。ぶっちゃけそこまで気にするほどのことでもないかもしれんが、離婚を境にそうなったから自分に非があると考えたんだと思う」
「そうだったんだ……」
「でも俺は必ず約束を果たそうと思っていたし、朱莉の心を開く努力をし続けていた」
最近は手詰まりだったが、それについては伏せておく。
「うん、それは感謝してるよ……」
「朱莉に隠しごとをしていたのは謝る。ごめん」
俺は大げさに頭を下げた。朱莉は目を伏せて黙ってしまった。
「それで、そのことを知った朱莉はどうするんだ?」
朱莉の出方を窺ってみる。すると、今までに見たこともない真剣な顔付きになった。
「貞治君。これは冗談じゃないから、よく聞いてほしい」
その瞳には、明確な決意と意志が宿っている。思わずたじろいでしまうほどの。
「私、貞治君にずっとここに泊ってほしい。このまま三人で一緒に暮らしたい。貞治君に、私のパパになってほしい」
その瞬間、先ほどの驚きを凌駕する衝撃を受けた。そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。頭の中が真っ白になりそうだ。
「うん、話は分かった。とりあえずパパというのはやめろ。色々とセンシティブだから」
動揺のあまり、どうでもいい指摘をしてしまう。
「せんしてぃぶ?」
朱莉は首を傾げた。
「せめてお父さんにしてくれ」
「誤魔化さないで」
「……千沙と二人で暮らすのは嫌か?」
「そんなこと言ってないよ。でも私がママって呼んだら貞治君が出て行っちゃうのなら、私はずっとママって呼ばない」
「……は?」
「本気だよ」
何かあったのだろうか。明らかに朱莉の様子がおかしい。
「別に朱莉がママと呼ばなくても、この家を出ることはできるぞ」
「でもそれじゃあ貞治君はママとの約束を破ったことになる。約束は守らないとダメって言ってたじゃん」
確かにそうだ。でも逆に言えば、この約束には必勝法がある。千沙との約束を朱莉に伝えた上で俺が傍若無人に振る舞い、朱莉に俺を家から出て行かせたいと思わせることだ。朱莉が千沙をママと呼ぶだけで俺がこの家に残る理由がなくなるのだから、朱莉はそれを実行して俺を追い出すだろう。
だがもちろん、そんな行為には何の意味もない。ミッションは果たせるが、ミッションの意義そのものが失われる。試合に勝って勝負に負けるというやつだ。だから俺はやらない。
「大人っていうのはなぁ、そういうのはノリで上手くやってるんだよ。お前が千沙をママと呼ばなくたって、いつかは自然と出ていく流れになる」
「……ママが寂しい思いをしてもいいの?」
正直に言って、もう朱莉がママと呼ばなくてもそれほど問題はないような気もしている。離婚後朱莉に起こった明確な変化というのが、千沙のことをママと呼ばなくなったことだ。だからママと呼ぶようになることを仲直りのゴールとして設定した。しかし、なぜママと呼ばないのかは知らないが、俺の目から見て千沙と朱莉の仲はもうほとんど元に戻っていると思う。本当の目的はママと呼ばせることじゃなくて、この親子が仲直りすることだ。俺がこのままいなくなっても、この親子は助け合いながら生きていけるだろう。
俺は朱莉の問いには答えず、逆にこちらから問いかけた。
「最初にこの家に泊まるとき、千沙に言われた。朱莉が、俺にしばらく家にいてほしいって言ってたって。なんで、そんなに俺と一緒に暮らしたいんだ?」
「始めは、ママが嬉しそうだったから……」
「千沙が?」
「あの日、貞治君がうちに着く前、貞治君の家が火事になったから何日か泊めるって話をママにされた。悪いけど我慢してくれるかなって」
朱莉は遠い目をして、淡々と話し始めた。
「ママは心配そうにしてたし、私に申し訳なさそうにもしてたけど、同時に嬉しそうでもあった。久しぶりに貞治君と会えるのが嬉しかったんだと思う」
声色が徐々に優しさを帯びていく。
「ママの顔を見て私も嬉しくなった。だから私の方から、貞治君にしばらく家にいてほしいって言ってあげた」
千沙のことを想いながら、微かに顔を綻ばせる。
「そしたらママはもっと嬉しそうな顔をした。あんなに嬉しそうなママは久しぶりに見た。パパと別れてからあんまり元気なかったから」
「……全ては千沙のためだったってことか。でもそこまで千沙のことが好きなら、どうしてママと呼ばなくなったんだ? 千沙が元気なかったっていうのもそれが原因かもしれないのに」
「ごめん。それは言いたくない」
朱莉の微笑みが沈んだ表情に変わった。
言えないじゃなくて言いたくない、か――。
俺が何か言おうとする前に、朱莉は話を続けた。
「それに、最初はママのためだったけど、今は違うの。一緒に暮らしているうちに気持ちが変わった。今は私自身が貞治君と暮らしたいと思ってる」
「だから、それはどうしてだ」
「そんなことも、言われなきゃ分かんないの?」
分からなくはない。一緒に暮らしたいと思う理由なんてそれほど多くはない。だが、それはそのまま受け入れてはいけないことだ。
「なあ、一緒に暮らさないと会えないというわけじゃないだろ? さすがにいつでもというわけにはいかないが、同じ県にいるんだから会う機会は作れるよ」
「そうなんだけど、もし貞治君がうちから出て行ったら、私たちの間にある大切な何かがそれっきりなくなっちゃう気がして……」
朱莉は泣きそうな顔になっていた。
「私の大事な人がいなくなっちゃうのは、もう嫌なの!」
いわゆるトラウマというやつか。大人びた子だけど、父親が浮気して離婚にまで至ったのはやはり心に深い傷を残してしまったのだろう。そして、今はその痛みを忘れさせてくれる存在を求めている。
「今では俺がパパで千沙がママってことか? 俺と千沙はいとこだから結婚しない。よって、お前のパパになることはできない」
「じゃあ、どうして今でも出て行かないでうちにいるの? 居心地がいいからでしょ? 私たちと一緒にいるのが楽しいからでしょ!」
「……非日常的なことというのは、期間限定であれば楽しいと思えるかもしれない。だが、それをずっと続けていると必ずどこかに歪みが生じる」
敢えて小学生には難しい言い回しをして煙に巻く。この生活ももうやめた方がいいと思った。俺たちは互いに近づきすぎたのかもしれない。
「そんなの関係ない。大事なのは貞治君がどうしたいか、だよ」
俺がどうしたいか、だって?
朱莉の言う通り、こいつらと一緒に過ごす時間は楽しいし、この家は居心地がいい。千沙の飯も旨い。だから俺もつい甘えてしまった。
だがずっと一緒に暮らすとなれば話は全く別だ。きちんとした理由付けが必要だし、それを他の人間にも説明しなければならない。第一、千沙がそんなことを許すわけがない。
いや、朱莉が言っているのはそういう話ではないのだろう。前提条件や他人の考えなど関係なく、ただ純粋に俺がそうしたいか、したくないのか、その二択だ。
どうなんだ。もし可能であったら、俺はずっとこいつらと一緒に暮らしたいのだろうか?
「ずっと一緒に泊まれたらいいのにね」
遠い記憶の彼方、婆ちゃんの家の暗い和室、高校生の千沙が秘密の言葉のようにそっと囁くのが聞こえた気がした。