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雨の音が優しくしてくれるから

 朱莉はなぜ縁結びのお守りを千沙の分の他にも欲しがるのだろう。その理由を考えてみたが、すぐに思い当たった。きっと自分の分も欲しくなったのだ。小学生のくせに彼氏を欲しがるなんて本当にませた子供だ。


 それはそれとしても、あんなお守りに縋ろうとするのは俺には理解できない感覚だ。俺はお守りというものをその辺の一般企業が製造して神社に卸売りしている雑貨の類としか思っていないが、そのことは心の内に留めておく。余計なことを口に出さないというのが、大人であるということだから。


「そんな欲しいならもう一回並ぶか?」


 代わりに俺は提案してやった。スーパーでお一人様一点の商品を何回も並んで買うせこい客のようではあるが。


「それは……ダメだよ」


 案の定、朱莉も難色を示した。


「自分のためじゃなくて一個は千沙のためだし、転売するわけじゃねえから神様も文句言わないだろ」


「うーん」


 朱莉は考えた。

 さっき売り場で迷っていたときよりもずっと長く悩んだが、やがて何かを決心したような表情で言った。


「私、もう一回並びたい」


「お安い御用だ」


 俺はニッと笑って見せ、二人で列に並んだ。雨なのに境内に人がどんどん増えていて、列は更に長くなっていた。


 おそらく同じ巫女さんから買うことになるが、これだけの人数だ。今度は俺が買えば二度目だとは気付かれないだろう。それに気付いたとしても指摘してくることはまずない。長い列を一つの売り場で捌かなきゃいけないのだから、いちいち指摘なんかしていたら大混雑してしまう。


 朱莉は疲れたのか、全然喋らなくなってしまった。俺たちは黙って列が進むのを待った。雨の雑踏は煩わしい。


「へっくちゅん」


 話さないと思いきや、いきなりくしゃみをする朱莉。寒い中で待ち続けているから体が冷え切ったのかもしれない。俺は、時間よ早く進めと念じた。


 一回目の倍以上の時間並んで、ようやくまた売り場に来ることができた。

 俺は朱莉の代わりに縁結びのお守りを一個買った。巫女さんから何か言われることもなかった。彼女はマニュアル通りの親しみやすい笑顔を浮かべているだけだった。


「ほい」


 再び売り場から離れところで朱莉にお守りを手渡した。


「ありがとう。はい」


 朱莉の方は俺に五百円玉を差し出した。


「それくらい買ってやるよ」


 たかが五百円、小学生から回収するなんてなんとも情けない。


「いいの、貞治君からは時計も買ってもらったから。それに、これは私が買わないと意味がないの」


 そういうものなのだろうか。スピリチュアルな事情はよく知らない。でも雨の中グダグダ話しているのも嫌だから、俺は朱莉の金を受け取った。


「くしゅん」


 朱莉がまたくしゃみをした。


「大丈夫か? 風邪引いたんじゃないのか?」


「大丈夫……」


 口ではそう言っているが、心なしか頭がちょっとふらついているように見えた。

 俺は朱莉の前髪とおでこの間に下から手を入れるようにして体温を確かめた。


「……セクハラ」


 朱莉は口先だけで抵抗した。


「顔はちょっと赤いけど、熱はなさそうだな。念のため、もう帰るとするか」


「ごめんね、折角来たのに」


「朱莉の目的は果たせたんだから、それでいいよ」


「うん……」


 俺たちは境内から出て、駅に向かって濡れた歩道を歩き出した。朱莉も最初はちゃんと歩けていたが、駅に着き、電車に乗って、また駅から出る頃には足元がおぼつかなくなっていた。今にも転んでしまいそうだ。おまけに顔色も悪い。


「もうフラフラじゃねえか」


 駅の出口で、俺はしゃがんで後ろを振り返った。


「ほら、婆ちゃんちまでおぶってやるから」


「それは、ちょっと……」


「お前は傘を持っててくれ。そしたら傘に隠れて見えやしないから」


 逡巡する朱莉。傘を広げてからおそるおそるといった様子で俺の背中に体を預けた。もしかしたら本気で体調が悪いのかもしれない。周囲の痛々しい視線に耐えながら、俺はゆっくりと立ち上がった。


「うわ、重っ」


 朱莉は俺の後頭部を握り拳で叩いた。


「やっぱり降りる」


「ごめん、冗談だよ。ほんじゃあ行くか」


 駅の出口から雨の降りしきる街中へ進み出す。自分の背中に十二歳の人間の重みと微熱を感じる。彼女は傘の中棒の真ん中辺りを持ちながら、俺を雨から守ってくれている。


「なんだか、小さい頃を思い出す」


 朱莉は俺の耳元で呟くように言った。


「よくパパにこうやっておんぶしてもらってた」


「そうなのか」


「パパは優しかったんだよ」


 優しかったということは、ある時点からは優しくなくなったということなのだろうか。

 俺が何も言えずにいると、朱莉はまた話し始めた。


「パパ、今頃何してるのかな」


「……やっぱりパパがいないと辛いか」


「分からないけど、時々思い出す」


「そっか」


「うちのパパも、ひいお爺ちゃんみたいに死ぬまでママの傍にいてくれたら良かったのに」


「朱莉……」


「でも平気だよ。今は雨の音が優しくしてくれるから」


「……雨の音が?」


「ずっと同じ音が鳴っていて、目を閉じてると時間が止まってるみたい」


 朱莉の言う通りかもしれない。雨は先ほどから強弱を変えることなく降り続けている。それは優しさなのかもしれない。

 俺が雨音に耳を澄ませているうちに朱莉も喋らなくなった。眠ってしまったのだろうか。おぶっている彼女の顔を見ることはできない。


 俺は声もかけずにそのまま雨の中を歩いた。無限大に引き延ばされた時間の中で、等量等質の水が降り続けているような感覚に陥った。


 わざわざおぶって帰らなくてもタクシーを使えば済んだ話だ。というより、そうするべきであった。でもあのとき倒れそうになった朱莉を見て、咄嗟に思い出してしまったのだ。小学生のとき千沙や爺ちゃんと一緒に初詣に行ったことを。転んだ俺を千沙がおぶってくれたことを。あの背中の優しさを。だから俺も受け継ぎたくなった。千沙から貰った優しさを、俺を介して朱莉へ手渡したくなったんだ。


 やがて、婆ちゃんちのあるマンションに到着した。

 エントランスに入ったところで朱莉に話しかけた。


「着いたぞ。立てるか?」


「ありがとう、大丈夫」


 石タイルの床に降ろしてやると朱莉は傘を閉じ、ちょっと恥ずかしそうな顔をしながら俺を見上げた。


「ねぇ、このことは絶対誰にも内緒だからね」


「分かってるって」


 俺だって十五年前の帰り道、千沙におぶってもらった。そのことは誰にも話していない。爺ちゃんは死に、俺と千沙だけの秘密となった。


 エレベーターに乗るやいなや、朱莉は壁にもたれかかった。まだ顔が赤いし、息も少し上がっている。帰ったらすぐ寝かさなければならない。


 五階に到着すると朱莉が先にエレベーターから出て、小走りで婆ちゃんちに向かった。


「お、おい」


 朱莉を追いかけ婆ちゃんちの玄関扉の前まで行く。朱莉が開けた扉を左手で支えた。


「お婆ちゃん!」


 朱莉は婆ちゃんを呼び、借りていた紺色の傘を傘入れに入れた。

 すると廊下へ続くドアが開き、婆ちゃんが玄関に来た。


「朱莉ちゃん、おかえりなさい」


「ただいま……」


「大丈夫だった? なんだか顔色悪いけど」


 婆ちゃんは心配そうに眉尻を下げた。


「うん、平気。それよりちゃんとお守り買えたよ」


 朱莉は肩掛けバッグから二つのお守りを取り出した。


「あら、二つ買ったのかい?」


「一個はママにあげる分。もう一個は……」


 朱莉は右手を伸ばし、縁結びのお守りを一つ差し出した。


「お婆ちゃんにあげる」


「え、婆ちゃんに?」


 俺の方が思わず訊いてしまった。婆ちゃんも不思議そうに首を傾げた。


「ありがとう、朱莉ちゃん。でも、どうしてお婆ちゃんにくれるんだい?」


 朱莉は優しく笑いかける。


「お婆ちゃんには長生きしてほしいけど、いつか天国に行ったときには、お爺ちゃんと再会してほしい。だからそのお守りなの」


「朱莉ちゃん……」


「私のパパは、私とママのこと好きじゃなくなっちゃったけど、お爺ちゃんはきっと今でもお婆ちゃんのこと好きだから!」


 切羽詰まったような声が響き渡る。

 婆ちゃんは驚いていた。だがすぐにいつもの優しい顔に戻り、朱莉が買って来たお守りを受け取った。


「ありがとうね、朱莉ちゃん。お婆ちゃん嬉しいよ」


 しかし朱莉は切なげな表情になり、俯いた。


「うっ……」


 ゆっくりと崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまう。


「うぅ……、パパ……パパっ……」


 堰が切れた。朱莉は肩を震わせ、嗚咽を漏らした。婆ちゃんを喜ばせるつもりが、父親のことを色々と思い出してしまったのか。父親が母親や自分のことを好きではなくなってしまったということを、朱莉自身の口から言ったことによって。


「パパ、パパぁ……どうして……うっ……」


 それでも朱莉は自分の想いを伝えた。歳の割には大人ぶっていて大声を上げることなんて一度もなかった彼女が、辛い過去を思い出し風邪で倒れそうになりながらも、婆ちゃんのために叫んだのだ。


 俺は玄関の扉を閉め、朱莉の隣にしゃがんで小さく頼りない背中を撫でた。

 すると、婆ちゃんもしゃがんで目線の高さを朱莉に合わせ、穏やかに声をかけた。


「朱莉ちゃん、泣かないで。お婆ちゃんがお爺ちゃんと会ったときには、千沙ちゃんの娘はとても優しい子だったよってちゃんと言っておくからね」


「うん……うん……」


 しばらくの間、朱莉は玄関から上がることなく静かに涙を流し続けていた。

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