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プロローグ

 その晩、千沙は屈託のない笑顔でこう言った。


「貞治、一緒にお風呂入ろっか」


「やだよ!」


「別に恥ずかしがらなくてもいいのに」


 小学一年生の正月、俺は千沙と一緒に爺ちゃんの家に泊まった。十五年前のことだから会話を一字一句まで覚えているわけではないけれど、あの冬の日々は溶けない雪のように記憶の平原に残っている。木彫りの熊、ベランダに並ぶ植木鉢、押し入れのふすま、古びた桐たんす――。


 そのとき千沙は既に高校生になっていたのに、恥ずかしげもなく俺を風呂に誘った。今思えば、千沙は昔から性的なことに対して無頓着なところがあった。だが俺は一人で風呂に入れる子供だったから断固拒否をした。千沙と一緒に入るのはいけないことだと本能で察知していた。


 でも寝るときは千沙と和室で二人きりになった。四人で寝るスペースはなかったから、爺ちゃんと婆ちゃんは別の部屋で寝ていた。さすがに同じ布団で眠るようなことはなかったが、俺はずっと緊張していた。


 一夜明けて一月二日の朝、千沙は言った。


「爺ちゃん、私、白夢(しらゆめ)神社に行きたい」


「構わんが、なぜそこに?」


「そこで売ってる縁結びのお守り、すっごいご利益あるんだってさ」


「ははぁ、あの千沙がもうそんな年頃か。長生きはするもんだな」


「へへっ」


 そのとき、俺は生まれて初めて縁結びという言葉を聞いた。どういう意味なのか分からず、千沙に訊いた。


「えんむすびって何?」


「好きな男の子と、とても仲良くなれるってこと」


「ふ、ふうん」


 子供でも分かる説明を聞いた子供の俺は、内心ドキドキしたし、嬉しくもあった。千沙の言っている好きな男の子というのが自分のことだと思ったのだ。普通に考えれば、縁結びにおける好意と親戚の男の子に向けられる好意は別物であるということは誰にでも分かる。だが当時の俺は恋愛というものをよく知らなかったし、一緒にお風呂に入りたがるくらいなのだから千沙は俺のことが好きで仲良くなりたいんだと誤解してしまったのだ。


 その日、俺と千沙は白夢神社に連れて行ってもらった。婆ちゃんは来なかった。理由はよく覚えていないけど、大したことではなかったと思う。ちょっと腰が悪くなっていたとか、人混みは疲れるからとか、そういった類のことだった気がする。


 結局、縁結びのお守りを買うことはできなかった。人気があったらしく、昼頃に神社に行ったら既に売り切れていた。


「あちゃー、まあ仕方ないね」


 千沙はそう言って笑い飛ばした。あまり残念そうには見えなかった。


 帰り道、俺はどこかの道でずっこけて足を捻った。すると、千沙が俺を爺ちゃんの家までおんぶしてくれた。強がる俺に「誰にも言わないから」って微笑みかけた。恥ずかしかったけど、千沙の背中はとても温かった。爺ちゃんが隣に並んで歩いていた。夕陽がとても綺麗だった。


 その夜、俺たちは二人で寝ながら遅くまで色々な話をした。次の日にはそれぞれの家に帰ることになっていたから。


「学校は楽しい?」


「ちゃんとお勉強してる?」


「好きな食べ物は何?」


 俺は千沙に質問攻めにされ、一つずつ答えていった。

 そして、何時なのか分からないけれどいい加減に眠くなってきたとき、千沙は最後にこう言った。


「ずっと一緒に泊まれたらいいのにね」


 その言葉を発したときの小さな声を、今でも頭の中で再生できる。常夜灯だけ点けた部屋の中、目の前までに近づいていた顔が今でも瞼の裏に焼き付いている。それは俺の心の支えとなったのか、あるいは呪いのようなものか。記憶の平原の奥底まで、楔のように突き刺さってしまったのだ。家に帰るのが嫌になってしまうほどに。


 翌日俺たちは否応なしにそれぞれの家に帰り、日常生活が再び始まった。

 そして、千沙は縁結びのお守りがなくても運命の相手と結ばれることになった。その年のうちに高校で先輩である浩司さんと出会ったのだ。俺はあとになって知ることになるのだが、当時は聞かされていなかった。

 千沙は正月や冠婚葬祭で会う度に、俺にべったりくっ付いて遊んでくれた。雪が降れば雪合戦をした。俺も千沙と会うのがいつも楽しみだった。



 千沙が浩司さんと出会ってから三年後、結婚して朱莉を産んだ。いわゆる、できちゃった結婚というやつだ。そのとき千沙は二十歳で短大生だったが休学した。浩司さんは元から大学には入っておらず、大手メーカーの工場で働いていた。


 十歳で小学四年生であった俺は、そのときになって全てを聞かされた。正直に言って、とても寂しくなった。置いていかれたような気分になった。俺は千沙に彼氏がいたことすら知らなかったのだ。

 ただ、零歳の朱莉と初めて会ったときには、十年前に俺が生まれたときの千沙の気持ちが分かったような気がした。朱莉を小さな宝物のように抱きかかえた。千沙に構ってもらった分だけ、朱莉ともできるだけ遊んであげるようにした。


 更に九年の月日が経つと浩司さんが転勤となり、千沙と朱莉を連れて福岡に引っ越した。

 俺が福岡に来たのはその翌年のことだ。就職した会社の本社が福岡にあり、東京にも営業所はあったが敢えて福岡での勤務を志望した。今までとは違う環境で生きるということに憧れていたからだ。平凡な人生をまるっきり変えてしまいたかったからだ。千沙のことを追いかけて来たからでは決してない。


 そして昨年、千沙は不倫され、離婚し、現在に至る。縁結びのお守りを買えなかったから良縁に恵まれなかったということなのだろうか。

 まさかな。物理的背景が説明されない現象を俺は信じない。


 だがしかし、今でも毎年正月になると、あの日々のことを思い出す。千沙と爺ちゃんと一緒にお守りを買いに行ったあの年のことを。小学一年生の頃の記憶なんて、他はほとんど忘れてしまったというのに。

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