ヒュバ・ポイカ
12月24日。
クリスマスイヴの朝。
おれは、自分の住んでいる家から電車で30分の距離にある実家のまえにいた。
昨晩のキジマ家薔薇屋敷騒動のあと、ルミは「本部に帰らなきゃ!」と慌ただしく言いだした。華奢で細い指を馬の蹄のようにして、彼女は笛の音を吹いた。その数秒後にソリを引くトナカイが夜空から現れた。
非現実的な出来事には慣れたつもりだったが、突如現れたトナカイと至って普通に会話をするルミの姿には、やはり驚きを隠せなかった。
そのときの会話の内容は、こんな感じだった。
「ちょっと! まだソリの扱いに慣れてないんだから、あなたがしっかりしてくれないと! わたし、たっかーい所から落ちて死ぬとこだったんだからね!」
ルミが怒る。しかしトナカイは、フガッと鼻息を鳴らし反論した。
「おい! そんなことより本部から人身事故の連絡が回ってるぞ! だれを殺したんだ!」
怒られたルミは気まずそうな顔でおれの顔を指さした。
「ど、どうも……」
おれは苦笑いとともに、軽く頭を下げた。
こちらの顔を確認したトナカイは、眉間にひどいシワを寄せて、さらに荒い鼻息をもう一発かました。
「イヴの夜までには、このお方の願いを叶えるんだぞ! 絶対にだ!」
これからおれはトナカイのカチューシャを見かけるたびに、この不機嫌で鼻息の荒いトナカイを思い出すであろう。
さらにトナカイは、おれをソリに乗せて家まで送ってくれた。ルミは、いわゆる運転席に乗っていたから、移動中はずっと彼女の背中しか見えなかった。手綱をさばくのにまだ慣れていないのか、やはり終始、ルミとトナカイの怒鳴りあいを聞くことになった。
もっと加速しろだとか、これが精一杯だとか、右に曲がれ、左に曲がれ、高度が高すぎる、だのなんだの。
グラグラと不安定に揺れながら宙を駆けるソリに乗っているだけでも気が気じゃなかった。いつ座席から投げ出されて、落下することになってもおかしくなかった。これだから彼女がソリから落ちて、おれに直撃したのも無理はないな、と思った。
いったんは家に帰されたおれは、熱いシャワーを浴びてから、すぐに眠りについた。いろんな出来事が重なったせいで、疲れていたのだろう。
起床したとき、時間は朝の5時だった。ベッドの中見たスマホには、ルミからのメッセージが入っていた。アドレスなど交換した覚えはない。ルミの魔法的ななにかで、おれのスマホにメッセージを表示させたのだろう。サンタ娘の超能力はおそろしい。電子機器までも意のままだ。
《今日の午前8時! あなたの実家にて!》
内容はこれだけだ。
ちなみにキジマからのメッセージも入っていた。
《カナエ、薔薇、9割方、処分してくれました! 普通の部屋になりました! 今日、カナエが一番欲しいものを買ってきます! ありがとう!》
メッセージとともに送られてきた写真にはキジマの部屋が写っていた。昨晩、おれが訪れた部屋とほんとうの同じ部屋なのかと目を疑った。部屋を埋め尽くしていた無数の薔薇は花瓶に数本、生けられるのみなったようだ。キジマが深く依存していたゲーム機もなくなり、キジマ部屋は晴れて愛の巣となった。
おれは、
《よかった! カッターも処分しといてね!》
——とだけ、返した。
*
「あら、わたしより5分、早い」
急に後ろからの声だ。女の声。
「わっ! おどかすなよ」
「ここ、あなたの実家でしょ?」
「サンタなら——」
「知ってる!」
「知ってるなら訊くなよ。サンタにとって顧客の住所と名前と家族構成は、基本中の基本ともいえる情報だろ?」
おれは怪訝な顔で言った。
ルミは、にかりと微笑んだ。
「あと、欲しいものリストもね!」そして真顔になり、「で、ここにはあなたの両親がいるんでしょ?」
「そう……、なんだけど」
「どうしたの? 浮かない顔して」
「いま、おれの親、離婚協議の真っ最中なんだ」
おれは地面に視線を落とした。アスファルトの灰色が視界を埋めた。両親のいまの心情を表現しているように思えた。
おれはいま27歳。両親はどちらも50歳。父は自営業。離婚の理由は、親父が小さな事業拡大のために借りた借金を返せなくなった、という事らしい。
母は自分が50歳のうちに離婚を成立させ、新たな人生を歩み出そうとしている。これからさきの人生、夫の借金のことを考えながら暮らしたくないのだとか。
「さ、ほら、いくよ。笑顔」
ルミの声が背中を押す。なにを隠そう、おれは大学を卒業してからこの家に帰っていない。親父と派手な喧嘩をやらかして以来だ。
こんな家、二度帰るか!
これが親父と交わした最後のセリフだった。母とは電話で話をするし、たまに買い物に付き合うこともある。が、親父とはもう、ずっと会っていない。
「ふぅ……」
「会いにくいの? お父さん?」
「よくわかるな。それも顧客情報なのか?」
「ううん。これは、わたしの勘。なんでもわかるサンタ娘でも、踏み入っちゃいけない思い出くらい、わかるわ」
「保育園で大太鼓叩きながらおもらししたこととか。おれの過去ならなんでもお見通しなのかと思ったよ」
「もう」ルミは不機嫌な声で、「わたしをなんだと思っているのよ。あなたの記憶を食って生きている寄生虫じゃないんだから。それなりの良識はあるわよ」
「そっか。誤解してた。わるい」おれは軽く謝った。「しっかし、昨日から脳内にシャーロックホームズでも飼っている気分だよ」
「どう思ってもらってもいいけど……」ルミはすこし呆れたように、「詳しく説明させて。——記憶の一部に、あなたは頑丈な鍵をかけている。その鍵をこじあけてまで、詮索するつもりはないってことよ」
鍵をかけている記憶……。
なるほど、親父の存在そのものを、おれは忘れて生きていた。
忘れようと、努力していた。
実際、自分の生活に追われるようになってからは、親父のことを考える時間など年に30分あれば多いほうだった。だから、親父に関する記憶に鍵をかけていた、といわれれば、なっとくできる。
「その鍵のむこう側にある記憶が、父さんとのことなのかなって。お母さんとの楽しい思い出はたくさんあるのに。お父さんとのことは、まったく見えないもの」
「そっか……」
「じゃ、今日は最終日。あなたの願いを叶えるために、わたし、がんばるから。よろしくね」
真顔で言ってから、ルミはそっと、おれの頭に指を当てた。視界が光に染められ、目が眩んだ。これからは頭の中からルミの声が聞こえる、という事だ。
おれは玄関のまえに立ち、インターホンを鳴らした。数年まえはただの呼び鈴だったのに、いまは玄関さきと宅内が会話できるものに変わっている。家の外壁も直したのか。おれが知っているベージュ色の壁ではない。灰色の壁紙だ。借金をしている割に、金をかけるところにはかけているらしい。世間体がなによりも大事な親父らしいな、と思った。
《はい、どちら様?》
母さんの声だ。内心、親父じゃなくてよかったと思った。
「おれだよ、おれ」
《まぁ——!》
それだけを発して、インタホーンのむこうが沈黙した。
『……ねぇ、オレオレ詐欺だと思われたんじゃない?』
ルミが頭の中で言った。
「インターホンでオレオレ詐欺する奴がいるかよ……。多分、カメラでおれの顔、見えてる」
『そっか、それもそうだね』
玄関のドアが開いた。
「あ、母さん——ただいま」
「ただいまじゃないわよ、急にどうしたの?」
「いや、その——」
明日、おそらく死ぬから最後に顔を見にきた、なんて、言えるわけがあるまい。
「なんか、帰りたくなってさ。みんな、元気にしてる?」
『この家にいるの、お母様とお父様だけでしょ? みんな——って変じゃない?』
ルミが脳内でツッコミを入れてくる。
「う、うるさい!」
「うるさい? 静かよ? ここらへんいつも」
「あ、いや、そ、そうだね。静かだね……、はっはは」
おれの乾いた笑いに合わせて、ルミも脳内でクスクス笑ってる。
「ひとまず上がったら? ちょっとアレだけど……」
母が口ごもりながら言った。
「アレ?」
「まぁ、上がって。すぐに……、わかるわ……」
母の顔色は悲しみに満ちているのに、どこか気分が晴れてスッキリしたような雰囲気も滲ませていた。違和感がすごい。
おれは玄関に入り、居間に行った。そこには、武士のような佇まいで正座をし、テーブルの上の離婚届を睨みつける親父がいた。母の、悲しみながらもスッキリとした雰囲気の原因がわかった。まさにいま、長年の夫婦生活にケジメがつく瞬間だった。
「な——!」
おれを見つけた親父の顔が強張る。
「よ、よう……。久しぶり……」おれはなれなれしく片手を上げた。
親父は立ち上がり、ズカズカとおれに向かって歩き出した。あまりの迫力に、おれは退がった。しかし、すぐに廊下の壁が背中に当たり逃げ場を失ってしまう。
「この! バカ息子が! どのツラさげてうちの敷居を跨ぎやがった!」
親父はおれの胸ぐらを掴み、唾を撒き散らしながら怒鳴り始めた。
「ちょっと! やめて!」
母が喚き、おれから親父を引き剥がそうとする。しかし親父の片手の腕力によって、母は軽々と突き飛ばされてしまう。
『ちょ、ねぇ! これ、やばいんじゃないの!?』
ルミが脳内で騒いだ。おれは、出てくるな! 家族の問題だ! と念じた。ルミはなにかを察したらしく、すぐに大人しくなった。
「親父! 落ち着け! 顔を見にきただけだ!」
血管を隆起させる親父の拳にわしづかみにされ、おれのパーカーは乱暴にひっぱられた。おそらく、いまこの瞬間を境に伸びて着れなくなっただろう。
「テメェに会わせる顔なんてねぇ! 会わせる顔なんて……、ねぇんだ……」
突然、親父の手から力が無くなった。そのまま床にうずくまり、親父は泣き崩れてしまった。
「なんも、かんも、おれの手からこぼれていなくなっちまう。いまさらおまえの顔を見たって、だからって、なにもしてやれねぇ……。従業員にも愛想つかれちまった。おっかぁも、出ていっちまう。おれには、もうなんにもねぇんだ……」
嗚咽とともに心情を吐露するおやじの背中は、子猫みたいに小さかった。数年まえ、般若の顔でどらどらと声を荒げていたあの人と、ほんとうにおなじ人物なのか。おれがこの現実を理解して、飲み込むまでに、おやじの喉は何度も悲嘆の音を鳴らしていた。
*
「で……、ほんとうに離婚、するの?」
居間のテーブルを三人で囲んだのは、何年ぶりだろう。おれが尋ねると、母さんが静かに口を開いた。
「うん。ごめんね」
この、ごめんね、は、おれに対してのごめんねだろう。離婚するかもしれない事は、母から何ヶ月もまえに聞かされていた。
おれも正直、あんな親父だから仕方ない、と他人事のように構えていたところがある。
自分の命がかかっているこの状況でなければ。離婚します、と言われたところで、はいそうですかご自由に、とおれは返していたはずだ。間違いなく、そう返事をしていた。
「ダメだ」
母と親父の視線がおれに注がれる。この息子はなにを言っているんだ? と、ふたりの目線が訴えてくる。
「ダメだ。離婚なんか……、させない」
「オメェが……、口出すこっちゃねぇ……。ばぁかやろう……」親父が反応した。
「いや! ダメだ! 絶対! ダメだ!」
「ねぇ……。決まった事なの。許して、お願い。わたしの最後のお願いよ……」
懇願しながら、母さんは両手で顔を覆って泣き出した。
「ダメだ、させない! あんた達に、おれの、たったふたりの両親に……、笑顔になってもらわないと! 困るんだよ! そりゃもう、死ぬほど困るんだよ!」
そうだ。
ずっと、逃げていた。
家族から。
親父から。
自分の人生をなんとかやれていれば、それでいい。
仕事に行って、金を稼いで。
彼女がいて、いつか結婚して。
そんな風に、自分だけの幸せしか考えていなかった。親の人生なんか知ったこっちゃなかった。最後には施設に入れればいいくらいに思っていた。
おれがこうして大人になって、大学にもいかせてもらえたのは、だれのおかげだろう。すくなくとも、おれひとりの力ではない。
親が必死に働いて、おれを育てて守ってくれた時間があった。あのまま彼女と結婚して、自分さえ幸せならいいと思っていたのなら。親父と、母さんの髪が白くなった事にも気づかないまま。二人の腰が曲がっていく過程も知らずに。親孝行もしないまま。なんの感謝もしないまま。
土色になって、しわくちゃになった親の顔を、冷たい目で看取ることになっていた。それで構わないと思っていた自分を……、おれはいまこの瞬間に切って捨てるべきなんだ。それしかないし、それでいいはずなんだ。
「くそ! ざけんなぁぁっ!」
おれは、目のまえにあった離婚届を破った。
「——おい!」
「——え!?」
『——わぁ!』
おれ以外の三人が驚きの声をあげた。
なら、おれは——
「今日からここに住む! あんた達が仲良くなるまで! 離婚なんてことを、考えなくてよくなるくらい! 親孝行してやる! 親父の借金だって、おれが返してやる! ちくしょう! ふざけんな! せっかくひとり息子が帰って来たのに! モヤモヤ、ドロドロ、ヘニャヘニャしやがって! なんだって背負ってやる! あんた達が笑顔になるなら、なんだってだ! だって、おれはひとりっ子で兄弟がいないから!」
どこからともなく嗚咽が響いた。
背中を丸め、目に手を当てて、涙をこぼしている親父の姿を、おれは見たことがない。母さんも泣いている。なんだったら頭の中のサンタ娘も泣いている。おれは歯を食いしばってはみたが、涙腺に溜まる熱はどうしようもできなかった。泣いちまった。みんなして泣けばいい。雨降って、地、固まるだ。
「嬉しい。嬉しいよ。だけどね——」
母さんが声を震わせながら呟く。
「借金、あと500万あるの」
『うわ……。なんかすごくリアルな額……。小さな会社が地味に抱えそうな金額ね……』
ルミが頭の中で苦笑いした。
おれは考えた。
おれの貯金残高を考えた。
計算は単純だった。
510引く、500。
親父の借金を肩代わりすると、おれの全財産は10万円になる。
「——っ! イヴなら銀行、まだやってんだろ!」
おれは家を飛び出した。
走った。
冬の街を。
無我夢中で走った。
ルミが頭の中でなにか騒いでいた。が、なにを言っていたのかは覚えていない。
おれは銀行の窓口にキャッシュカードを叩きつけた。
「ご、500万、用意してくれ!」
鼻息を鳴らしながら声をあげた。銀行内は騒然とした。銀行強盗だと思われても仕方なかった。受付のお姉さんはおれの声に怯み、カウンター下の防犯スイッチに触れようとした。
「あ、えと、す、すいません……、年末だから銀行、閉まっちゃうと思って、慌ててしまって……。えへへ……」
頭の後ろを掻いて見せると、お姉さんはなんとか普通の接客を開始してくれた。警備員をはじめ、男性銀行員や、その場に居合わせた主婦らしき女性客達からの冷たく鋭い視線を終始、浴びる事になった。が、どうにか500万入の封筒を手にすることができた。
銀行からの帰りの道。おれの足取りは重かった。だって、ほぼ全財産だもん。これを親に渡したら、ほんとうに実家に住む必要があるもん。だって、家賃、払えなくなるし。
でも、これで親が笑顔になってくれるなら。
おれの命がクリスマスからさきも繋がるなら。
たったの500万で、お金にかえられないものを、手にできるなら。
安いもんだ。
*
ビリビリに破いた離婚届を、おれはテーブルからどかした。代わりに分厚い封筒をテーブルに置いた。
親父は、おれに向かって土下座をした。
「かならず返す! すまない! ほんとうに、申し訳ない!」
そう言って、何度も、何度も、畳に頭を擦り付けた。母さんは相変わらず泣きながら、そんな父の背中を優しくさすった。ふたりの様子は、間違いなく夫婦であり。小さな会社の社長と、その傍に寄り添う社長夫人だった。
「今晩、みんなでご飯、食べようよ。イヴだし。鶏肉、買うくらいのお金、おれにもまだあるからさ」
おれは乾いた笑いとともに、そう言った。
「ばぁかやろう。他人の誕生日なんか祝ってる場合じゃねぇ」親父は目を腫らしながら言った。
「いいじゃないの。人様の誕生日も祝えないから、借金まみれになるのよ、ねぇ?」母さんが繋いだ。
そしてふたりは笑った。
真っ赤な目のまま。
頬に何粒も涙をこぼしながら。
心からの笑みを、見せてくれた。
*
両親の笑顔は見られた。しかしおれにはまだ、やらなければいけないことがある。
おれを罵倒しまくった挙句に、別の男と今夜を幸せに過ごすのだろう、元彼女の笑顔を。おれはもう一度、見る必要がある。あまりにも気が重い。途方にくれた顔で、おれは外を適当に歩いた。懐かしい景色と、ひどく冷たい風が一緒になって、胸の奥をキュウキュウと締め付けてくる。その感覚がたまらなく苦しかった。
「ふー……。あなた、やるね。わたしの出る幕ないじゃない……」
突然、左側から女の声が聞こえた。サンタ娘がおれの頭から飛びたして、おれに話しかけてきた。いままでルミの存在を忘れるくらい、家族のことしか考えていなかったし、いまは元彼女のことで頭がいっぱいだ。
正直、別れたばかりのあの子と、もう関わらないで済むのなら……。そのほうがいいとさえ思う。おれの人生において、彼女よりもおれを罵った人間はいない。それくらいに、おれが情けなかったのだ。すべて、おれのせいだ。
「わたしが、あなたの願いをかなえなくちゃいけないのに……。これだとわたしがいる意味、あんまりないじゃない……」
隣を歩くルミは、頬を赤くしてモジモジした。
「いや、キジマの時はルミがいないと危なかった」
おれがそう言うとルミの頬が一層、赤くなった。なんだったら目も泳ぎ始めた。なにを照れているんだ、このサンタ娘は。
「今回のことも、わたしがしたって事にしないといけないの! ちょっと、目をつむって!」
「はい?」
「いいから! 目、つむる!」
「は、はい」
「ヒュバ・ポイカっ——!」
ルミは立ち止まり、呪文を唱えた。
いまのところ、とくに変化はない。
「いいよ、目、あけて」
ゆっくり、目を開ける。
あたりを見渡す。
やたらと露出の多いサンタ娘しかいない。
「なにしたんだ?」
「別に!」
「なに怒ってんだよ……」
「いいの!」
「よくないだろ」
「もー! しつこい! ばか!」
「ばかはいらないだろうに」
ふと、首に違和感を感じた。おれは視線を自分の胸元に落とした。すると、いつのまにか、イチゴ柄の小さなポシェットを首から下げているではないか。なんだよこれ。幼女かよ。
「な、に、こ、れ」
「虫みたいな顔で、虫みたいな声を出さないの。普通でしょ、イチゴ柄のポシェットくらい」
「どう見ても幼女が《《はじめてのおつかい》》で使うポシェットですよこれ」
「もー! わたしのだし! ばかにすんな!」
「なに、入ってるの?」
「開けてごらんなさいよ……」
おれはポシェットのチャックを開いた。
中には、紙切れが一枚入っていた。
「ん?」
「……」
ルミの顔色を伺ったが、そっぽを向いて頬を膨らませている。怒っているようにも、強がっているようにも見える。おれはポシェットの中の紙切れを手にとる。そして驚いた。
「こ、小切手!?」
その紙切れは80万円分の小切手だった。
「どうゆうことだよ、おい」
「それが……。わたしの全財産なの……」
なるほど——。
ほんとうに優しいやつだ。
「いらないよ」
「ダメ」
「いいって」
「よくない」
「ルミがおれの両親の笑顔を作ってくれたって事になればいいんだろ? それなら、昨日の時点でルミはおれの親たちの笑顔を作ったようなもんだよ」
ルミはおれを見た。言っていることがよくわからない、という目で。
「わたしがご両親の借金、返さないと意味ないの……。500は無理だけど……。いまは無理だけど……」
「昨日、おれを殺してくれただろ? それがあったから、おれ、こうやってちゃんと親に向き合うことができた。明日——クリスマスの朝に死ぬかもしれないと思ったから。迷わず、親父の借金、払おうって思えた。金よりも命が大事だし……。だから、これを受け取る必要はない」
おれは微笑みながら小切手をポシェットにしまい、紐の輪っかを首から外してルミの首にかけた。
ルミの顔は怒った顔のままだが、嬉しさを我慢しているようでもあった。腕組みをしながらプンとそっぽを向いた。頬が真っ赤だ。
「ま、まぁ、そうゆうことなら? 人身事故の結果そうなってよかった……。よくないけど……。殺してごめんなさい……』
今度はうつむいてしまった。おれはこの瞬間、演技とか設定とかを一切除外した、天然のツンデレというものに初めて遭遇したような。そんな気がした。
さぁ、最後の話をしよう。
クリスマスイヴ——。
人生初のプロポーズの話だ。
その話を最後に。
この、3日間の非現実的なクリスマスの物語を終えよう。