ラウ・ホイトゥ
公園から歩き、途中、タクシーを拾って雪道を移動すること1時間。おれは一軒のアパートのまえに立った。ここに移動するまでのあいだ、タクシーの車内で見たスマホの画面には、おれの友人——キジマからのメッセージ通知が連続して表示されていた。
その内容は——
《助けてくれ! 殺される!》
《おい! みてる?》
《彼女、やばい!》
《このままだとクリスマスまで命がもたない!》
とまぁ、こんな具合に。ここにもクリスマスまで生きていられるかの崖っぷちに立っている男がひとりいた。
アパートのまえに立つと、頭の中にいるルミが話しかけてきた。
『ねぇ、大丈夫なの? 警察沙汰じゃないの?』
「まぁ……、どうなんだろ」
『このアパートにいるあなたの友人って最近、彼女が出来たんでしょ?』
「もう知ってるのかよ……。おれの記憶を丸ごと覗いているのか?」
『うーん、これはあなたの記憶からっていうよりは、サンタ界の情報ネットワークで仕入れた、って感じかな』
いま考えていることも、過去に覚えた記憶もすべてなにもかもルミに見透かされているような感覚がする。まるで透明なガラスケースの中に丸裸で投げ入れられた感覚だ。彼女がおれの頭の中にいるかぎり隠し事はできない——そう思って、あきらめていたほうがよさそうだ。
「キジマに彼女ができたのが、いまから2週間くらいまえだったか」
『いまが付き合いたての、一番楽しいときじゃない。なんで出来たてホヤホヤの彼女に殺されかけてるのよ』
「おれも詳しくは知らんけど、やつ曰く、とんでもないメンヘラだったと判明したとか、してないとか……」
『メンヘラ? ヤンデレとかも言うよね? どっち?』
「たしか、メンヘラは自分を中心に考えるタイプで……。ヤンデレは相手を中心に考えるタイプ……。だったか」
『もうすこし、わかりやすくお願い』
頭の中のルミは、生のピーマンを噛んだような苦い声を鳴らした。
「例えば、私にご飯を作ってくれないと死んでやる、っていうのがメンヘラで……。私が作ったご飯を食べてくれないと死んでやるって言うのが、ヤンデレだったと思う。わるい、そんなに詳しくないけど、ニュアンスはわかるだろ?」
『どっちにしても難しい性格ね……』
けっきょくどっちでもおなじようなものでしょ、と言っているようなルミのため息が頭の中に充満した。
『ま、とにかく? その、メンヘラの彼女? に悩んでいる友人を笑顔にしなければいかないから、とりあえず行きましょ』
「あ、あぁ……」
アパートの外階段を登るおれの足取りは重かった。
殺す殺さないの騒ぎは、いくら気心の知れた友人とはいえ非常に重い案件だ。おれではなく、弁護士の出番だろうに、と思うのが正直なところだ。
そのメンヘラ女子のルックスが良いことは知っている。付き合うまでは普通の女性だった、ということも知っている。
しかし今回ばかりは〝キジマを笑顔にしなければならない〟という絶対条件がある以上、なんとか仲直りをしてもらわないと困る。
困るというか、キジマの笑顔をもう一度見られないと、おれが死んでしまう。
おれは207号室のインターホンを鳴らした。新築の綺麗な二階建てアパートだ。
2週間前、キジマは「彼女との新しい愛の巣だよ〜」とノロケていた。が、いまとなっては、殺人現場になりかねない狂気の巣窟、と化している。おれは息を吸った。頭の中にいるルミの深呼吸音も聞こえた。緊張が伝わってくる。
「——から! ——んでやる!」
アパートの中からなにか、声が聞こえる。なにを言っているのかは、わからない。しかし怒声であることはたしかだ。それも、女の怒声だ。
「待ってよ! カナエちゃん! ぼくにも考えが!」
いまのはキジマの声だ。
『ずっとこんなに怒鳴りあっているの? 隣の部屋の人とか通報してるんじゃない?』
脳内のルミが、おれに話しかける。
「このアパート、ほかの住民があまりいないのかも……」
おれはもう一度インターホンを鳴らした。さっきから室内から響いてくる物に当たり散らすような激しい音がいったん鳴り止んだ。
《はい》
インターホンが女の声を発した。
おれの肩は思わずびくりと震えた。
脳内のルミは『ギャっ!』と慄いた。
「あ、えと、キジマの友人です。おれ、って言ってもらえば、わかると思うんですけど……」
おれとルミは生唾を飲み、相手の返答を待った。怖いくらいに静かな間が数秒ほど流れた。かなり遠くで鳴っている救急車のサイレンが聞こえた。
《あー! 来てくれたんですね! よくお話は聞いています! どうぞ! いま、玄関を開けますね!》
なにかのスイッチがぱりちと切り替わったように、営業感あふれる女の声をインターホンが発した。ここでキジマの声も聞こえるはずだろう? しかし、その気配はない。するとポケットの中でスマホが震えた。すぐに確認する。キジマからのメッセージが入っていた。
《ダメだ! 彼女カッターを隠し持ってる!》
「は!?」
おれとルミ声が重なった。
《どうされました? おいしいお茶を淹れますから。早くお部屋においでください……。ふふふふ》
『こわっ! ちょっと! 危険すぎる! これじゃあなた、クリスマスとか関係なく死んでしまうわよ!』
「いや、あんたに一回、殺されてるでしょーが!」
『それは事故! これは事件になるわよ!』
急に玄関のドアが開いた。中から例の彼女、カナエが顔を出す。あまりの緊張におれの顔は硬直した。全身が動かない。背中に氷山をかついでいる気分だ。
「あら、どうかなさったんですか? 外は寒いですから、どうぞ中に——」
『も、もう、行くしかないわ……! ここで帰ったらキジマさんが殺されちゃうかも、た、助けるわよ……!』
ルミの声に押されるようにして玄関に入った。薔薇の芳香剤かなにかの、ドギツイ香りが鼻をついた。これは明らかにキジマの趣味ではない。
古くからの友人の部屋が、カナエの趣味に侵食されている。それを、この優雅すぎる薔薇の香りが物語っている。
キジマの心の叫びが聴こえる気がしてならない。
こんなはずじゃなかった……!
そう叫ぶ、キジマの心の大声が。
「どうぞ、うちのサトシがいつもお世話になってます……。ふふ……」
サトシはキジマの下の名前だ。
カナエの見た目は、綺麗。
目鼻立ちやスタイルも良い。
だが——なんか怖い! めっちゃ怖い!
雰囲気が怖い!
フランスかどこかの怪談話を身をもって体験している気分だ。
脳が薔薇の香りと恐怖で真っ赤に染まっていく。
「は、いえ、こちらこそ……。お邪魔します……」
おれは恐る恐る靴を脱いで揃えた。玄関に上がり、キジマの待つ部屋に向かう。さきに部屋へ戻ろうとするカナエのスキニージーンズ、その尻ポケットが不自然に膨らんでいることに気づいた。
『ねぇ、ちょっと、あのジーンズ……』
脳内のルミが声を震わせる。
「カッター……、入ってんのかよ……っ!」
おれは小声で返した。
カナエの背中を追う。
入った室内は右を見ても、左を見ても、
薔薇、薔薇、薔薇——。
玄関に入ったときに感じた香りは、芳香剤の香りなどではなかった。部屋を埋め尽くす薔薇の生花の香りだった。
『う、うそ。生の薔薇をこんなに!? ふ、普通じゃないよ! いざとなったら、わたしが……』
ルミは把握できないほどの声でなにかをつぶやいた。
「ん?」
なんだ、聞こえなかったぞ、とおれは脳内に念で訴えた。
『いいから! とにかくふたりの仲を修正して! 笑顔!』
「お、おう……」
おれは無理矢理にでもニコリと笑って見せた。なぜ、キジマではなくこっちがさきに笑顔になっているのだろう、と思った。カナエに作り笑いだとバレないことを祈った。バレた途端に薔薇屋敷殺人事件の被害者になってしまいそうだったから。
いま、キジマは部屋の中心に置かれたコタツに足を突っ込んで震えている。
「よ、よう、キジマ。元気してたか?」
視線が定まらないキジマに声をかけた。彼は首をぎこちなく動かしてこちらを見た。現時点では、カナエという殺人鬼に囚われている哀れな人質のようにしか見えない。いや、実際問題ほんとうにそうなのだ。
「よ、ありがとな……、来てくれて……」
2週間前の浮き足立っていたキジマはどこへ行ったんだ。薔薇だらけの部屋で過ごすだけでも相当、精神がやられるのは間違いないが……。いくらカナエが薔薇を愛する女だとしても、この量は異常だ。
よくテレビでゴミ屋敷などの特集が放送されたりするが、これはそのゴミを薔薇に置き換えたくらいのインパクトがある。
「どうぞ、座ってください。いま、ローズヒップティーをお持ちしますから……」
「は、はい、どうも」
『ローズヒップティーねぇ……』ルミは知っているような声で、『身体にはとても良いわよ。ビタミンCがすごいもの』
たしかに、カナエの肌は真珠のように白く滑らかだ。ビタミンCが効いているのだろうか。しかし病んだ心に効くビタミンは、どうも摂取していないらしい。そもそも、そんなビタミンなどあるのだろうか。あるのだとしたら、いますぐに摂取してほしいと切に願う。
「キジマ……」
カナエがキッチンに向かったのを見計らって、キジマに話しかけた。なるべく小声で。表情を大袈裟に作り、こちらの意図が伝わるように努める——。
「なんでこんなことになってんだよ……!」
「わ、わからない……」
「付き合うまえからわかるだろ! せめて、同棲するまえには知るべきだろ!」
「同棲しないと別れるって言われた……」
「まじで? いったいどうしてそんな話の流れになったんだよ……?」
おれが問うと、キジマは難しい顔で一呼吸を置いた。
「カナエ、両親を最近亡くしたんだ。ひとりになっていたんだ。だから、こんなぼくでも、あれほどの美人と付き合うチャンスがあった……。でも……」
突然、コタツのテーブルになにかが刺さる音がした。
ひっ! と、おれとキジマ、ルミもその音に怯んだ。
恐る恐る目線を左にずらす。
音が鳴った部分を見た。
テーブルに一本のフォークが刺さっている。
カナエが投げたのだろうか。
おれは眼球だけを動かしてキジマの顔を見た。その顔からは血の気という、血の気がすべて消え失せていた。顔面蒼白という言葉は、まさにいま、キジマのためにある表現だと思った。
「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃって」
手が滑っただけでフォークがテーブルに刺さるかよぉっ!
『い、生きてる?』
脳内のルミがおれに話しかけるが、応えられる状況ではない。するとカナエがキッチンから戻り、ティーカップをおれの目のまえに置いた。しかし、そのカップの中身は想像を絶していた。
「——え!」
『——うそ!』
おれもルミも目を疑った。カップの中には、薔薇の花がそのまま生けられていた。まるで小さな生け花の作品みたいだ。三輪の薔薇がカップの中を覆い隠している。液体があるのかどうかも判別できない。これは芸術品だ。とても飲ませる気があるとは思えない。明らかに観賞用だ。
しかしこれを、おれは、拒絶せずに飲まなければいけない。いったいなんの罪でなんの罰ゲームをさせられているのだろう。
「なにか、問題でも?」
カナエは悪びれる様子もなく、ニコリと笑った。
「あ、い、いや、おれが知っているローズヒップティーとは、一味も二味も、違うなぁと……。はっははは」
ひどく乾いた笑いだな、と自分でも思った。
「一味、二味? なぜ、一口も飲んでいないのに味がおわかりになるの?」
そう言ってカナエはお尻のポケットに手を当てた。
キジマの目が恐怖で白目になる。
「あ、いや、見た目からして、一味も二味も違うなーと……。これを飲んだら、三味は違うんじゃないかなー? ははは……」
『の、飲むの!? 絶対ダメだって!』
おれはティーカップを手に持った。そもそも、薔薇がカップの縁を隠しているから、口を当てるところが無い。どうしてもこの紅蓮の花をどかす必要がある。そうしないと、カップの中にあるのかもしれない液体は飲めない。おれはこの、人智を越えたローズヒップティーを手に持ったまま、話術でこの場を切り抜けようとした。気分は諸葛孔明だ。知をもって、地を制すだ……。
「あ、そ、そういえば、キジマとはどこで出会ったのですか?」
「友達の紹介です」
「そ、そうなんだ。キ、キジマー! やるじゃん! こんなすげー美人を捕まえちゃってさ! 一緒にゲーセン行ってたダチとは思えねぇよ!」
ルミが、その調子! と声援をくれた。
キジマからの反応はない。
その心臓は動いているだろうか。
「ゲーセン……?」
カナエが言う。
突然、空気が変わった。
殺気に近いものを感じる。
おれはキジマの方を見た。
——カナエの方を怖くて見れなかった、というべきか。
「キジマ? ど、どした? 大丈夫か?」
キジマの視線は、カナエの右手を見ている。
「いま、ゲームの話、したの?」
左からカナエの声。
同時にクリック音もした。
カッターが刃を突出させるときの、あの音だ。
「は、え、あー、昔、ゲーム友達だったんすよ……。その流れで、いまも仲が良くて……。はっははは」
おれもカナエの右手を見た。
その手には黄色と灰色の二色の棒。
角張った灰色の部分が、照明の光に反射した。
『ギャー!』
それは、おれの叫びだったのか。
キジマの叫びだったのか。
それともルミの叫びだったのか。
カナエはカッターを手に持ち、立ち上がり、目を見開く。
「わたしとゲーム。どっちが大事なの?」
カナエはキジマに斬りかかろうと腕を振り上げた。おれは慌てて立ち上がり、カナエの腕を抑えた。とっさのことで、弁慶の泣き所をテーブルにぶつけてしまった。ごん、と鈍い振動が足から伝わってきたが、不思議と痛みは感じなかった。火事場のなんとやら、だろうか。
「キジマ! 逃げろ!」
おれは叫んだ。
キジマは悲鳴をあげながら玄関へ逃げた。
カナエはおれの腹を蹴った。
かなり重い蹴りだった。
視界が揺れた。
息も吸えない。
みぞおちが潰れた感覚がする。
カナエはどこだ。
しまった、キジマを追っている。
瞬間、目のまえに閃光が走った。
その光は、すぐに人の形に変わった。
赤いサンタ娘の装束、陶器のような素肌が視界を占領した。
おれの頭の中からルミが飛び出てきたのだ。
キジマに斬りかかろうとするカナエの背中を指差し、ルミは呪文を唱えた。
「ラウ・ホイトゥ——!」
やたらと可愛らしい、地下アイドルみたいな声だった。すると、ルミの指さきから細い光の糸が伸びた。レーザー光線のように、まっすぐの光。
その光は、カッターを振りかぶるカナエの心臓部分に突き刺さった。すると、カナエは麻酔銃でも撃たれたように脱力し、膝から崩れ、床に倒れ込んだ。うつ伏せのまま、ゆっくりと意識を失ったカナエの奥には、腰を抜かして座り込み、玄関のドアに背中を押し付けて怯えるキジマの姿があった。彼の下半身と、玄関の冷たいタイルはすでに、恐怖による失禁で濡れていた。
*
「つまり……。同棲してもゲームばっかやってて、カナエちゃんをほったらかしてた、ってこと?」
おれはそう言って部屋のベッドに目をやった。すやすやと心地良さそうな寝息を立てて、カナエが眠っている。それはもうぐっすりだ。眠れる薔薇の森の美女とは、まさにこれだ。
「ぼく……、こんな美人と同棲ができてすごく安心したんだ。ほら、生活が満たされてさ。安心した状態で遊ぶゲームってさ。すごく楽しいだろ?」
まぁ、キジマの言っていることもわからないでもない。
「例えばさ、期末テストみたいなものが終わった後に遊ぶRPGとかさ。すごく楽しいじゃん。レベルあげ捗るじゃん」
体育座りをしながら言うキジマの声は情けなかった。
「それで、この薔薇の国の美女との優雅な同棲生活から来たる安堵感の中で、カナエさんのことほったらかしたの? どんくらいのあいだ、放置プレイしてたわけ?」
おれはコタツの対面に座るキジマの顔を半目で睨みながら訊いた。おれとキジマの間には、サンタ娘のルミが正座をして会話を聞いている。まるで、将棋の試合のときに秒読みを唱える記録係みたいな雰囲気を醸しだしている。静かに鎮座し、おれとキジマの会話を静聴している。
「同棲してから1週間が経ったときだった……。ぼくが仕事から帰ると、部屋が薔薇だらけになってて、ゲーム機はすべて、捨てられていた」
キジマの顔面はコタツの布団に沈んだ。おれはもう一度カナエの方を向いた。ちゃんと寝ているか確認をした。
ちなみに、ルミがカナエを眠らせるときに唱えた、ラウ・ホイトゥは、フィンランド語で、落ち着け、という意味だ。おれは続いてルミの方に目をやった。この薔薇だらけの部屋で、冴えない男がふたり、外国人と日本人の美女がふたり。なんともおかしな状況だ。
「それまでは普通だったんだろ? カナエさん」
「普通だった。かわいくてさ……。ご飯も作ってくれて……。おれ、ゲームしながら食べてた」
「そんなに、ずっとずっとゲームしてたのか?」
「あぁ……」
「その——なんだ、夜の営みとかは?」
「してない」
「寝るときもほっといたのか?」
「だって、オンラインゲームに、朝も夜も無いし……」
これは、どう考えてもキジマが悪いのではなかろうか。同棲したての一番楽しい時間を悉く破壊したのは、キジマ本人だったといえそうだ。
付き合ったばかりの彼氏がゲーム三昧。手料理を作っても、画面に向かってありがとう、美味しいよ、と言う男——。カナエはよく耐えたほうだと思う。そりゃ、カッターを振り回したくもなるだろう。合点がいった。ルミも般若のような顔つきでキジマを睨んでいる。女心をなんだと思っているんだ、と全身から闇のオーラを発している。
——あれ? ところで……。
「なぁ、きじま。左、向いてみてくれるか?」
「え?」
キジマの顔がルミの方を向く。
「——ん? どうした?」
キジマはとぼけた顔をしている。ルミが見えていないのか? するとルミは人差し指を唇に当てた。シー! のポーズだ。
なるほど。ルミはいま、おれの頭から飛び出してはいるが、おれ以外の人間にはその姿は見えていないらしい。なんと都合の良いサンタ娘だろう。これだから本物のサンタを実際に目撃した人がいないのだ。光学迷彩機能つきとは恐れ入った。
「い、いや、なんでもない」
慌てて訂正するおれに向かって、ルミが、それでいいのよ、と言いたげに頷きながら微笑んだ。
「あ、そうだ、おまえ、カナエになにしたんだ?」
思い出したように、キジマが訊いてきた。
「え?」
「ほら、おれが殺されそうになったとき、ラウ、なんとかあ、って裏声で叫んだだろ」
裏声——。
ルミは顔をそっぽに向けて肩を震わせた。
明らかに笑いを堪えている。
「あ、ああ。あれだよ、合気道の一種だよ」
ルミの笑い声が漏れそうになっている。
笑ってはいけないなにかみたいだ。年末感がある。
「合気道なんて習ったのか?」
「お、おう。最近な」
「それでこの、眠らせる技を会得したの?」
「そ、そう。ラウ、ネムネムって言う、奥義だよ——ははは」
「そ、それ、ぼくにも教えてくれ! どこのツボを突けばいいんだ!?」
「いや、無理だ。常人の技ではない」
ついにルミが、プフッ……、と吹いてしまった。
笑いの臨界点を突破してしまったようだ。
「おい、おならするなよ」
キジマが眉をひそめた。
「だ! してねぇから!」
「しただろ、いま。プフッって」
「ち、ちが!」
「おまえな、薔薇の香りでバレないかと思って……。音でバレるだろ……」
そう言って、キジマは笑った。
——笑ってくれた。
『あ!』
「キタ!」
「ん? キタ? おれキジマだろ。だれがキタジマだよ」
キジマは変わらず、とぼけ顔だ。しかし口角がさっきよりもゆるんでいる。
「いや、おまえ、笑ってくれた、と思って……」
おれは自分のセリフに照れた。
頭の後ろをポリポリ掻いてごまかす。
「おまえがおならしたからだろ……」
「なぁ、キジマ」
「うん?」
「カナエさん起きたら、ちゃんと話せよ?」
「——あぁ」
キジマは気まずそうにうなずいた。しかし意志は固まっている様子だった。
「両親を亡くしてしまった彼女の心の拠り所は、いまはキジマなんだ。おまえしか、いないんだよ」
言葉を選んだつもりだった。
言い方も不器用だったと思う。
でもキジマならわかってくれるはずだ。
高校時代からの親友なら。
わかってくれるはずだ。
「——あぁ。もう、大丈夫だ。ゲームしようにも、本体も根こそぎ捨てられたし」
キジマは笑った。
今度のは、間違いなく——
心からの笑顔だ。
「ゲームの本体、買いなおそうと思ってたんだ。そのお金で……、カナエにプレゼントを送るよ。ふたりで過ごす最初のクリスマスに。最高のプレゼントを買って送るよ」
部屋を飾る薔薇の花たちも、よく見ると綺麗にレイアウトされている。さすがに置きすぎだとは思うが……。
紅と白の薔薇が織りなす芸術は、カナエとキジマの門出を祝っているようでもあった。きっとこの後。仲直りしたキジマとカナエのふたりは、この部屋を狂気の巣窟ではなく、愛の巣に変えてくれるだろう。いまはそう思える。
ルミの表情もやわらかくなっていた。
ふたりで過ごす、最初のクリスマス——キジマが言ったこの言葉に、不本意ながら複雑な想いが込み上げた。だがそれはおれの問題。キジマにはなんの関係もない。
ゲームへの依存心をひとまず捨てて、いまはカナエのために時間とお金を使う——そんな心機一転をしたキジマの笑顔が見れたこと。おれはいまその嬉しさを心から噛み締めた。
「カナエ、起きたらまたぼくを殺そうとするかな……」
「どうだろう……」
おれはルミの顔色をうかがった。
その表情は、大丈夫よ、といっていた。
ルミが唱えた呪文には、心を癒すビタミンも含まれているのだろう。
「大丈夫よ、キジマ」
おれはちょっとふざけて言った。
「なんだよ、おかまのマネ? そういえば高校時代によくやってたよな、おまえ」
「だわ、覚えてる」
「懐かしいな」
「ほんとにな」あぐらをかいていたおれは、武士みたいに膝に手を当てて立ち上がった。「それじゃ、今日はいったん帰るよ」
「うん。カナエのことはぼくがなんとかする。迷惑かけて悪かった」
「いいって、気にすんな」
カナエの静かな寝息を背後に感じながら、おれは玄関に向かった。靴を履くときにアンモニア的な臭いを感じたが、いまそれに言及するのはさすがに無神経だと思った。
「なにかあったらすぐに連絡してくれ。親友だろ? 駆けつけるよ、すぐに」
「ありがとう。落ち着いたら、オンラインゲームやろうぜ」
「ああ。そんときはカッター、見えないところにしまっとけよ」