植物栄養剤
「……さて、と。早速『月下美人』ことツホギン・ネエウクの花を育てようかな」
何から始めるべきか、と携帯端末の【異世界図書館】を起動する。
ツホギン・ネエウクの育て方については何度か目を通してはいるが、確認は大切だ。
「とはいえ、植物の育て方なんて、ほとんど『土に植えて水をやる』ってぐらいだしなぁ」
ツホギン・ネエウクの育て方については、当時でもざっくりとした物だったようだ。
現代の地球のように、種を植える最適な季節や気温、水遣りのコツといったものは何も記載されていない。
付け加えるのなら、アシュヴィトの用意した温室という土壌は特別な場所だ。
温度管理や栄養素の調整といった作業が必要になるかどうかも怪しい。
「……こういう時は、調合に頼ってみる?」
確か人間の栄養剤の他に、植物用の栄養剤の作り方があったはずだ。
植物栄養剤ということは、ツホギン・ネエウクを育てるのに使えなかったとしても、世界樹の治療の方に使えるかもしれない。
「そして何より効能をあげるのも、熟練度をあげるのも、わたしは好きだしね」
ついでにレベルまであがってお金にもなるのだから、素晴らしい。
レベル上げといえば、携帯端末は私用の魔力補助具だったはずなのだが、補助を受けながら調合をし続けたおかげか、少しだが携帯端末を介さなくとも魔力を扱えるようになってきた。
先日試しに携帯端末を使わずに調合してみたのだが、普段はほとんど一瞬で終わる作業に一日かかっている。
ここしばらくは失敗などなかった『傷薬』の調合も、三回に一度成功するかどうかという酷い結果だった。
普段どれだけ携帯端末に助けられているのか、が本当によく解ったとも言える。
こと『調合』においては、魔力を一定の力で出し続けることが重要になってくるらしい。
……アシュ様には本当に感謝しかないな。
ここには居ないアシュヴィトへと心の中でだけ感謝を捧げ、今日も携帯端末を操作する。
自分で魔力を操って作った方がいいのだろうが、それはまた暇な時にでもコツコツとやればいいことだ。
「あいかわらず『調合』はすごいね。アイコン一発だよ」
レベルが上がったおかげで、携帯端末を使えば調合の成功率も高い。
よほど難易度の高い物でもないかぎり、まず失敗ということがなかった。
どうやら植物栄養剤は人間の栄養剤の派生レシピでもあるようで、材料自体はすでに揃っている。
新しい物に挑戦する時のように、素材や道具探しから始める必要はなさそうだった。
本当に、携帯端末を操作するだけで『調合』が終わってしまう。
「というわけで『植物栄養剤』が出来たけど……どうしようか? 人間が飲んでも効果は判らないし……?」
いつものように材料が光に包まれたあと、目の前に現れたのは栄養剤とは少し形の違う瓶に詰まった金色の液体だった。
手の中で転がしてみると、キラキラと光を反射して綺麗でもある。
可愛らしい瓶と合わせて、ちょっとしたインテリアにもなりそうだ。
「ぼくのうまれたはな、つかってみる?」
「コットンの生まれた花?」
小瓶を観察しながら実験方法について考えていると、肩の上でコットンが動く。
普通の動物であればここまで静かにはしていられないと思うのだが、コットンは私の作業中には絶対邪魔をしてこない。
肩に乗って大人しく作業を見守ってくれるので、大助かりだ。
時々横から忠告もくれるのだが、これは私が無茶な調合に挑もうとする時だけである。
失敗知らずの『調合』で調子に乗った私へと、道具も揃っていないのに貴重な材料を使って博打を打つのはやめた方がいい、と。
……ゲームっぽくアシュヴィト様が整えてくれたみたいだけど、セーブもロードもないしね。
ゲームでやっていたような、成功率の低い行動は慎んだ方が良い。
知らないうちに熟練度があがっていようとも、失敗する時はやはり失敗することがあるのだ。
リセットボタンで失敗をなかったことにできない以上は、慎重にならざるを得ない時もある。
灰になった材料は、元の状態には戻らないのだ。
「……コットンの生まれた花って、たぶん何か特別な花だと思うんだけど……勝手に植物栄養剤なんてあげてもいいのかな?」
「だいじょうぶ。ぼく、このみのまりょくでめざめた、から。このみのまりょくでつくったえいようざい、ごはん」
「え? ホントに大丈夫? じゃあ、ちょっとだけ……」
コットンに促されて温室へと場所を移す。
コットンの生まれた花は、花びらはすべて『光華のミルク』に変えてしまったが、がくはまだ残っていた。
コットンが生まれたどう考えても普通ではない植物だったため、花が終わったからと土を返すのも躊躇っていたのだ。
「使い方は土にかけるだけ、と。簡単だね」
小瓶の蓋を開け、中の金色の液体を光華周辺の土へと振りかける。
金色の液体はすぐに土の中へと吸い込まれていったのだが、光華にはなんの変化も見られなかった。
光華に変化があったのは、翌日のことだ。
正確には、光華に変化があったのではなく、コットンに変化が現れた。
「おはよう、このみ。ちょっと大きくなったよ! これからは僕も調合を手伝ってあげられるからね!」
私の枕元に置いたコットン用のベッドの上で、元気良く飛び起きたコットンはその場でクルクルと回る。
猫が寝直す時の仕草に似ていたのだが、コットンはどうやら自分の体の変化を確認しようとしていたようだ。
ひとしきり回って満足したのか、コットンはすとんと腰を下ろして尻尾を揺らした。
まず判りやすい変化としては、長い尻尾が二本に増えている。
他には少し体が大きくなり、舌っ足らずなしゃべり方をしていたのが少し流暢になった。
そして最大の変化は、本人が言うように調合を手伝えるようになったことだろうか。
私が魔力を使って作る程度の速度なのだが、コットンも『調合』ができるようになっていた。
……あ、額に小さな角がある。
指で額を撫でている時に気が付いたのだが、コットンの額にはまだ毛の方が長くて目立たないのだが、小さな角が生えている。
猫に似ているとは思っていたが、やはり『似ている』だけだった。
尻尾の長さから猫ではないと判っていたが、角まで生えてくるとは、本気で違う生き物だったようだ。
……そのうち【異世界図書館】でコットンの種族でも調べてみよう。
「……というわけで、無事に『植物栄養剤』ができたんですけど」
これで世界樹を癒せないだろうか、と『太陽の香炉』を使って早速アシュヴィトのもとへと顔を出す。
植物栄養剤などアシュヴィトの元へ持ち込めるのだろうか、と少し心配だったのだが、あちらからツホギン・ネエウクの種を持ち帰れたように、持ち物として用意したものはこちらからも持ち込めるようだ。
用意するだけで持ち込めるのだから、私の腕では持ち上げることが不可能な大きさの物でも、ここへは持ち込めるかもしれない。
「とりあえず、このみちゃんがいいと思ったことはなんでもやってみよう」
「それじゃあ、植物栄養剤はお渡ししますので、アシュ様から世界樹に……」
「いや、それはこのみちゃんがあげてよ」
私が作った栄養剤なので、私が運ぶように、と言ってアシュヴィトは植物栄養剤を受け取ってくれない。
私はツホギン・ネエウクの花を咲かせない限りは世界樹と弟のアシュヴィトへと続く道を開けないのだが、その辺りはどうするつもりだ、と指摘する。
指摘されたアシュヴィトからの返答は、世界樹については今日明日にどうこうなるものでもないので、ツホギン・ネエウクの花が咲くまで待てばいい、という実にのん気なものだった。
「アシュ様って、結構まだ人間に怒ってます? 後回しでいい、だなんて」
「そういうわけじゃないけど……『こうしている間にも世界樹が!』ってぐらいには気を揉んでほしいと思っているかな?」
「世界樹が身近なものだった三千年前なら、気を揉むかもしれませんけど……」
今の世界樹はアシュヴィトによって隠され、人間には立ち入れない場所にあるらしい。
世界中の本から世界樹にまつわる記載が消され、今を生きる人間たちには世界樹など御伽噺のひとつだ。
世界樹が実在し、今もどこかで倒れそうになっているだなんて真実を、知っている人間などいないのではないか。
いたとしても、極少数の人間のはずだ。
そう不思議に思って聞いてみると、世界樹については古い歴史として残っているところには残っているのだそうだ。
ここ百年ほどの間にできた新しい国にはないが、歴史のある古い国や小さな民族などの間に細々と。
「だから反省を促すためにも、このみちゃんにはできるだけのんびりと弟を救出してほしい」
「……なんだか言っていることがチグハグなような気が?」
「チグハグじゃないよ、全然。僕が直接手を下すほどは怒っていないけど、考えなしの行動はちゃんと人間に反省してほしい。弟のためにこのみちゃんを連れて来たけど、あくまでこのみちゃんは弟のためにネクベデーヴァに来たんだから、このみちゃんがネクベデーヴァの人間のために粉骨砕身働く必要はない、とそう思っている」
ね、チグハグじゃないだろう? と首を傾げるアシュヴィトに、つられて私も首を傾げる。
繋げられれば筋が通っている気がしてくるのだが、世界樹を傷つけたのは三千年前の人間だ。
現代のネクベデーヴァに住む人間がまだ反省を促され続けているというのは、少々どころではなく怒っていると言えるだろう。
「ホントに怒ってないよ? 本当に怒っていたら、弟がツホギン・ネエウクの花を根絶やしにしたように、地上から人間を消せばいいんだから」
ただちょっとだけ、神の時間と人間の時間の感覚が違うだけだろう、と言われて納得もしてしまった。
人間にとって三千年は長いが、アシュヴィトにとっての三千年は少し面倒な条件を並べた存在を見つけ出す程度の時間だ。
時間に対する感覚と考え方が違うのだから、本当にアシュヴィトの発言どおりのことでしかないのだろう。
人間に対して怒っているのは反省を促す程度で、私が急いで弟のアシュヴィトを救う必要はないのだ。
「……そういえば『太陽の香炉』を作るのも三年はかかるだろう、って予想していたみたいですしね」
「そうそう。だから本当にこのみちゃんのペースで、ゆっくり、のんびり、まったりとやってくれていいんだからね?」
無理はしないように、と言いながらアシュヴィトの手が私の頭へと伸びてくる。
頭を撫でてくれる手つきはとても優しいのだが、これは私がネクベデーヴァの人間ではないからかもしれない。
ネクベデーヴァの人間であれば、アシュヴィトは頭など撫でないだろう。
もしかしなくとも、姿すら見せないのかもしれない。
「まずはのんびりとツホギン・ネエウクの花を育ててよ。急がなくていいから」
「急がなくていい、はお約束できないかもしれません」
極めプレイが好きな性質の日本人なので、と続けると、アシュヴィトは笑った。
その生真面目さも、自分が付けた条件である、と。
……つまり、ネクベデーヴァの人間には反省を促したいけど、弟のために私を急かしたくはない。でも本音としては弟を早く助けたい、ってことですね。
アシュヴィトという神は優しいくせに、少し天邪鬼な性格をしているらしい。
それから弟思いでもあるようだ。
……まずはツホギン・ネエウクの花を育てよう。
すべてはそれからだ。
私にできることもこれだけなので、丁度いい。
温室でツホギン・ネエウクの花を育てながら、工房として使っている物置部屋で植物栄養剤の効能を上げる研究に挑む。
道具などなくても『調合』は携帯端末で行えるのだが、道具があれば成功率や効能があがる。
そのため、見かけるたびに買い揃えてきた道具が、私室や温室に置いておくのがつらい量になってしまっていた。
アシュヴィトは最初からこの事態を予想していたのかもしれない。
アシュヴィトが用意してくれた『成長する家』というのは、本当にありがたい仕様だった。
少し家が手狭になった、物置部屋が欲しいと思えば家が勝手に増築してくれるのだ。
片付けのスペースを気にせずに物が作れるというのは、物を作る人間には有難すぎる素敵仕様だった。
植物栄養剤のレシピは【異世界図書館】ですぐに調べられるのだが、効能を上げるためには熟練度が必要になるし、単純に材料へ少し手を加えるだけでも違うものができる。
アシュヴィトがのんびりで良いと言ってくれたことについては、効能上げという方向に脱線することで守っているつもりだ。
「脱線しつつも効能上げに走るとか、このみも変態大国日本の血を引いてるよね」
その体はアシュヴィトが作った物のはずなのに、と言ってコットンは『傷薬』の調合をしながら首を傾げた。
私はというと、コットンの言葉にこそ首を傾げる。
「今なにか……妙な引っ掛かりがあった気がするんだけど……?」
「このみの体をアシュ様が作った、って話?」
「それ、かな……? あれ……?」
日本人の血を引いている、という発言からの『アシュヴィトが作った体』という言葉だ。
この言葉だけを抜きだすと、アシュヴィトの作った体に日本人の血が流れていることは不自然なことだ、とでも言っているように聞こえる。
……や、違うな。そうだった。今の体って、本当にアシュヴィト様が作ったんだった。
よくよく思い返せば、私という存在は『榊このみ』という存在の複製だ。
原本の榊このみは日本人の両親の間から生まれた日本人だが、私はアシュヴィトが作った『榊このみの複製』である。
ネクベデーヴァの環境に適合するように、魔力が使えるように、とアシュヴィトが調整もしてくれていたので、本当に今の私はアシュヴィトによって作られた存在だ。
日本人の血がなせる変態性を今の私が持っている、というのは少しおかしなことの気がする。
「……コットンが作ると効能が高いね」
「このみよりは魔力を扱うのが上手いからね」
魔力操作の練習を兼ねて、携帯端末を使わずに『傷薬』を作ってみたのだが、同じ方法でコットンが作ったものと私が作ったものとを見比べると溜息しかでてこない。
携帯端末を使えば私も百発百中で効能の高い『傷薬』を作れるようになっているのだが、自分で魔力を操っての『調合』はまだまだ落第点だ。
効能の高いものはまだ一つも作れておらず、失敗の回数が少し減ったぐらいだった。
「まあ、駆け出しの魔法薬師としては『らしい』出来でいいのかな?」
ルズベリーの街の冒険者ギルドへ薬を売りに行くにしても、効能の高いものばかりでは値が上がってしまって冒険者に手が出しにくい値段になってしまう。
意図的に効能を下げるわけではないが、効能の低いものにだってそれなりの需要はあるのだ。
リナに貰ったマジックバッグへと詰められるだけ薬を詰める。
近頃は傷薬や栄養剤、睡眠導入剤、胃薬といった様々な薬の他に、異性を惹きつける香水やキスをしたくなる口紅といった化粧品も少し作っていた。
効能の高い傷薬を美容クリームとして販売して以来、一部の薬品に化粧品としての需要が生まれているようだ。
このままで行くと、いつか媚薬を作れないかと注文されるような気がする。
「……何が売れるかわからないし、植物栄養剤も持って行ってみる?」
「このみが作りすぎたから、いっぱいあるしね」
「植物栄養剤を材料に、より効果のある植物栄養剤が作れるんじゃないかな? とは思っているんだけどね」
「それにしても多すぎるから、売れるんなら売ってみようよ」
「そうだね」
メイに留守番を任せ、コットンとルズベリーの街近くの街道へと転移する。
この辺りの道はもう慣れたもので、それほど警戒することもない。
そろそろ顔なじみになってしまった門番に行商許可証のお金を払い、城門を抜ける。
ルズベリーの街に来るのは十日に一度ぐらいの頻度だが、さすがにもう迷子にはならなかった。
半年以上通っているのだから、いい加減本当に道を覚えたのだと自分を信じてあげたい。
半分以上はコットンが道を覚えたおかげだというのは、公然の秘密だ。
「……植物用の栄養剤か」
「さすがに冒険者ギルドでは売れませんよね? 雑貨屋や庭師にでも売った方がいいでしょうか?」
「相変わらず効能は確かなんじゃが……たしかに冒険者には売れ難そうじゃな」
鑑定用の片眼鏡をかけて、鷲鼻の老人が植物栄養剤の入った小瓶を手の中で転がす。
傷薬や人間用の栄養剤とは違って、植物用の栄養剤では買い手がつきそうにないようだ。
植物用と頭についているからには、富裕層向けの化粧品に化けることもない。
「効果があるなら、俺が買う」
背後から声が聞こえて来たかと思うと、ぬっと腕が伸びてきて鷲鼻の老人の手から植物栄養剤が攫われる。
いったい誰が買い手として名乗りをあげたのか、と振り返ると、そこには栄養剤をまじまじと睨みつけているイサークの姿があった。
「えっと……イサークさん? それ、植物用の栄養剤だよ?」
人間用ではないのだけど、と注意をすると、イサークは首を振る。
用があるのは植物用で間違いないらしい。
「このみの魔法薬っていうんなら、効果は確かだろう。売ってくれ」
近頃妹が家の庭で花を育てているのだ、と続いた言葉にホッとする。
どうやら本当に植物用の栄養剤が欲しかったようだ。
「近所の庭師のオッサンにも聞いて育ててるみたいなんだが、どうにも勢いが悪くてな。このみの薬なら間違いないだろ」
「妹思いのお兄ちゃんだね、イサークさん」
「じゃが、適正価格での販売じゃぞ」
手心は加えてやらん、と言って鷲鼻の老人が植物栄養剤の適正価格を提示する。
イサークは僅かに引きつった顔をしていたが、まだ鷲鼻の老人へ植物栄養剤を売ってはいなかったので、これは所謂『卸価格』だ。
間に冒険者ギルドが挟まっていないぶんだけ安い。
植物栄養剤を一つ、イサークへと卸値で売り、買い手がいるようだからと残りは鷲鼻の老人が引き取ってくれた。
ルズベリーの街での私はなんとなく『時々薬を売りに来る駆け出しの魔法薬師』と認知され始めていたようなのだが、この植物栄養剤を持ち込んだおかげで微妙にずれて『なんでも屋』と認識されてしまったようだ。
ついでに、これは喜ぶべきことなのだが、植物栄養剤は収穫量が増えるということで地味に売れ筋商品として冒険者ギルドに並ぶこととなった。
「これは……やっぱ普通に『月下美人』だよね? どこからどう見ても」
温室で育てた効果か、植物栄養剤が効いたのか、そもそもそういう種なのか、ツホギン・ネエウクの花は植えてから四ヶ月ほどで美しい白い花を咲かせた。
なんとなく一つの株から一輪の花しか咲かないだろう、と思い込んでいたのだが、そんなことはなかったようだ。
いくつかの蕾が付き、それぞれが同じ夜に花開く。
必要なのは花だけだったのだが、今後『月下の香』がいくつ必要になるのかは判らない。
念のため、種を増やそうと一つだけ摘み取らずにおく。
摘み取った花は、しおれる前に『調合』をしてしまった方がいいだろう。
『月下の香』は、『レヲルフ・ヌスの香』よりも簡単に完成した。
というよりも、『月下の香』の材料がツホギン・ネエウク以外は共通しているため、予め材料が揃っていたと言った方が正しい。
順調に完成した『月下の香』と『夢渡りの香炉』を『調合』すると、『月の香炉』の完成である。
香と合わせることになる『夢渡りの香炉』あたりは香炉なのだから使いまわしもできそうなものなのだが、そこは材料の他に魔力を使っているためか、毎回使い捨ての道具らしい。
『調合』で作れる傷薬などの入れ物もそうなのだが、魔力を使って作られているためか、空になると容器そのものもどこかへと消えてしまう。
エコというのか、ゴミが溜まらなくて良いというのか、その辺は謎だ。
『月の香炉』が完成したので、と早速香炉を使って世界樹の状態を確認しに向かうことにする。
アシュヴィトの言うことには、三千年は放置されているそうなのだ。
どんな状態になっているのかは判らなかったので、マジックバッグへは詰められるだけいっぱいの植物栄養剤を詰め込む。
アシュヴィトは下手したら「十年計画で!」ぐらいのゆとりプランを組んでいるのかもしれないが、傷ついた樹があるというのだから、機会があるのなら植物栄養剤は持って行った方がいいだろう。
……淋しいところだなぁ。
マジックバッグを枕に、『月の香炉』を焚いて眠ると、すぐに知らない場所に立っていた。
第一印象としては、『白』だ。
地面は確かに『地面の色』をしているのだが、栄養が抜けきっているのか、水分がまるでないのか、白っぽくくすんで色がないように感じる。
一面がひび割れており、試しに土を摘んでみたら、軽い力で砕けて砂になってしまった。
土がこんな状態だからか、見渡す限りに下草といった植物らしいものはなにもない。
「世界樹のところに行く、ってアシュ様は言ってたはずなんだけど……?」
見渡せる範囲には、立ち木どころか下草もない。
鳥や野兎といった小動物の姿も見えないし、虫の一匹も飛んでいなかった。
死の世界とでも言うのか、物音一つしない淋しい場所だ。
何か様子がおかしい、と背後を振り返るとどこまでも続く白い壁がある。
壁にしか見えないのだが、私が来たのは『世界樹のある場所』のはずだ。
ということは、と予感を覚え、壁の先を確認するために空を見上げる。
白い壁は、見える範囲にどこまでも続いていた。
果ては見えないのだが、壁の先は大きく広がっているようだと気づき、予感が確信に変わる。
この白い巨大な壁にしか見えないものこそが、倒れかけているという世界樹なのだろう。
世界を支えるというだけあって、とんでもなく大きい。
昔何かのテレビ番組で見た、世界一の巨木でさえも相手にならない大きさだ。
もしかしなくとも、ルズベリーの街ぐらいなら幹の中に入ってしまうかもしれない。
「さすが世界樹。スケールが違いすぎて……って、あれ?」
これが世界樹か、とマジマジと見つめる壁の先に、何やら違和感を見つけて目を凝らす。
じっと見つめるうちになんとなく輪郭が判ってきたのだが、違和感の正体は世界樹の幹に添えられた指だ。
私のいる位置からは姿が見えないのだが、指の主こそがアシュヴィトの弟だろう。
「ってか、デカっ!? ヴィー様、大きすぎっ!?」
アシュヴィトの弟だと聞いていたので、せいぜいアシュヴィトと同じか、少し小さいぐらいの姿を想像していたのだが、まるで違う。
世界樹に添えられた手から察する弟のアシュヴィトの大きさは、巨人なんてものではない。
さすがは神とでも言うのか、小指の先だけで家の一軒や二軒は潰せそうだ。
「そうだよね。世界樹を支えられるぐらいだもん。ヴィー様だってそれなりに大きいはずだよね……」
本当に助けられるのだろうか、と急に不安がやって来る。
なんとなく石化を解除して、世界樹を回復させれば弟のアシュヴィトを助けられるのだろう、と考えていたのだが、なんとなくでなんとかなる大きさではない気がした。
アシュヴィトが大きすぎて、世界樹が大きすぎて、私が作る薬程度ではなんの効果も望めなさそうな気しかしてこないのだ。
「自信なくしてる場合なんかじゃないのに……」
あまりの大きさに、途方にくれるしかない。
途方にくれて自信をなくし、足踏みをして一歩も前に進めなくなってやがて立ち止まり、頭の中が真っ白になる。
こんなものを私にどうにかできるはずがない、という現実だけが頭を占めて、息をするのも忘れたあたりで頬にふわりと触れるものがあった。
ふわふわとした綿毛のような感触は、コットンの尻尾だ。
「アシュ様は、ゆとりプランでいいって言ってたよ」
「コットン……」
「駄目で元々。あまり期待しないで、ってアシュ様にも言ってあったでしょ?」
「確かに言ったけど……」
駄目で元々、あまり期待してくれるな、というのはアシュヴィトに初めて会った日に私が言った言葉だった。
弟を助けてほしいというアシュヴィトに、できる限りの挑戦はするが、絶対助けるだなんてことは言えない、と先に出来なかった時の言い訳をしたようなものでもある。
これに対してアシュヴィトは、その時は受け入れる、と私の逃げ道をちゃんと笑って用意してくれていた。
弟にも優しいが、私にも優しいアシュヴィトだ。
「……ゆとりプランって、十年、二十年で通じるかなぁ?」
弟の話を聞かせてくれた時のアシュヴィトの淋しそうな顔を思いだし、深く息を吐く。
柔らかなコットンの毛並みに癒されて、どこまでも落ち込んで行きそうな気分を無理矢理掴みとめた。
いますぐに気分を浮上させることはできないが、これ以上落ち込むこともない。
「やれることからやっていこうよ、このみ。植物栄養剤、いっぱい持って来たんでしょ?」
「そうだね。こんな量じゃ全然足りないかもしれないけど、ちゃんと効果はあるんだから、少しずつでも植物栄養剤を運んでこよう」
少し情けない気はするのだが、コットンに励まされて顔をあげる。
マジックバッグから植物栄養剤を取り出して、少しずつ地面に散布しながら世界樹に沿って移動した。
何時間歩いたのかは判らなかったが、ようやくアシュヴィトの足元にたどり着いた頃、マジックバッグの中身は空になる。
念のため、とかなりの数を持って来たはずなのだが、一本も残ってはいない。
「これは……本当に何度も通う必要があるね」
「マジックバッグも、もっといっぱい入るのをこのみが自分で作った方がいいかも」
「【異世界図書館】で、薬の効果を上げる魔法ってのを前に見かけた気がする」
「じゃあ、このみは魔力の扱いも練習しないとだね」
「……なんだか、やることが一気に増えた気がするな」
ついに世界樹に来ることができて、一歩目標に近づいたと思ったのだが、世界樹とアシュヴィトの予想外すぎる大きさに尻込みしてしまった。
コットンのおかげで少し冷静さを取り戻せはしたが、これからの予定を立てるとやるべきことが山積みだ。
……違うな。やるべき山積みになっていることが、ようやく見えてきた、って言うのかな?
これまでは闇雲に調合をして、できることを増やしていたのだが、これからは目標に向かってより効率的に動くことができるだろう。
そう考えれば、やはり実際に世界樹とアシュヴィトを見ることができたのは、いいことだったのだと思える気がする。
私の「このぐらいでなんとかなるだろう」という甘い見込みは、綺麗に消え去った。
「この程度ではどうにもならない」「自分の見通しは甘すぎた」と実情が判っただけでも僥倖だ。
「少しずつで、とても時間はかかると思いますけど、絶対に助けますから……」
待っていてくださいね、と壁にしか見えないアシュヴィトの足に手を添える。
見上げてもみるのだが、アシュヴィトの体もまた大きすぎて、顔を判別することはできなかった。
どんな顔をしているのか少しだけ興味があったが、きっと顔が見えたとしても大きすぎて判別はできなかっただろう。
アシュヴィトに似た美少年か、体の大きさに似合った美丈夫なのかは、石化を解いてからのお楽しみだ。
……アシュ様の弟っていうぐらいだから、不味い顔はしていないと思うんだよね。
そんな少しだけ不謹慎なことを考えながら、初めての邂逅を終えた。
神様なんだから、人間と同じサイズである必要はないかな、と……巨人サイズのアシュヴィト(弟)です。
実は兄の方も普段は大きい。
このみに会う時は、交流しやすいように小さくなっているだけだったりします。