プロローグ
「こんにちは、はじめまして。榊このみさん」
いつの間にか立っていた真っ白い空間で、金色の髪をふんわりと揺らして少女漫画の王子さまという表現がぴったりと当てはまりそうな美少年が私に微笑む。
本当に、少女漫画か絵本から抜け出てきた王子さまのような少年だ。
白を基調とした衣装にマントを纏い、額には太陽を象ったと思われるティアラをつけていた。
身長は丁度私の胸ぐらいで、年齢は十歳から十二歳の間ぐらいだろう。
じつに絶妙な年齢の美少年だ。
「えっと……はじめまして。これって、あれですか? 今流行りの異世界転生とか、転移とか」
礼儀正しく挨拶をしてくれた王子さまに、こちらも出来る限り礼儀正しく挨拶を返す。
礼儀正しくといっても、王子さまと遭遇したのはこれが初めてだ。
面接官や職場の上司、取引先の顧客、学校の教師といった、これまでの私の人生にはない種類の人物であったため、どの程度の礼儀が求められるのかがわからない。
そのため本当に姿勢だとか、言葉遣いを改めるだとか、思いつく程度の礼儀しか返せなかったのだが、これは無理のないことだと思う。
マニュアル頼りの日本人だったが、『突然王子さまと遭遇する』なんて不測の事態はそのマニュアルにない。
普通に考えて、ロイヤルな『王子さま』と遭遇する機会など想定できないし、機会などないはずなのだから遭遇時の対応についても礼儀作法など身につけている日本人はいないだろう。
いたとしても極少数の人間だ。
「え? どうしよう。交通事故にあった覚えなんてないんだけど……あ、心臓麻痺とか睡眠時無呼吸なんとかで知らないうちに死んだとか?」
定番といえば定番すぎる自分の置かれた状況に、次々と流行のライトノベルの序盤が思いだされる。
多くは不思議な空間で神を自称する存在と遭遇し、自分の死を突きつけられ、最終的には「異世界へ転生を」という流れになるものだ。
何故わざわざ異世界への転生なのか、この世界のお金持ちの子どもへの転生では駄目なのかとは思うが、そういうものなのだから仕方がない。
こういったものは突っ込んだら負けなのだ。
「そういう系統ではないので、安心してください。榊さんは死んでいませんし、夢でもありませんよ」
深夜アニメの続きが気になるだとか、あの漫画を完結まで見届けたかっただとか、ありとあらゆる無念が頭に浮かび始めたところで、王子さまから制止の声があがる。
死んだわけではないので、安心していいよ、と。
「……異世界転移の方ですか?」
異世界転移と転生は少し違う。
異世界へ行くことに変わりはないが、現地の人間として生まれ変わるのが『異世界転生』で、現在の姿のまま異世界へと行くのが『異世界転移』だ。
どちらにしても、せめてあとひと月は待ってほしい。
今期のアニメが、あとひと月で終わるのだ。
逆に言えば、今が一番の盛り上がり時とも言える。
こんな中途半端なところで異世界に転移などしたくはない。
「転生とも転移とも少し違います。でも良かった、榊さんを選んで。漫画やアニメに傾倒しているから、話が早くて助かります」
とりあえず椅子に座ってお話ししませんか? と王子さまに手招かれると、いつの間に現れたのか椅子とテーブルがあった。
席に着くと、これまたいつからいたのかメイド服の美女が紅茶とお茶菓子を用意してくれる。
「あらためまして、僕は地球とは違うネクベデーヴァという世界で神をしているアシュヴィトと言います。あ、紛らわしいので『アシュ』と呼んでください」
「紛らわしいから? 長いからじゃなくて、ですか?」
「僕には弟がいるのですが、彼の名前もアシュヴィトといいます」
「ああ、それで……」
それは確かに紛らわしそうだ。
兄と弟が同じ名前なのだから。
アシュヴィトと名乗る王子さまは、これまたお約束どおりに異世界の神様だったらしい。
不思議な空間で出会った神を自称する存在、となると異世界モノのお約束なのだが、死んで転生するわけでも、そのまま転移するわけでもないということは、単純に夢でも見ているのだろう。
私にだって、異世界モノに対する憧れぐらいある。
……あ、夢じゃないって、さっき言ってたっけ?
とても現実とは思えない状況だったが、アシュヴィトの話を頭の中で整理しながら、目の前へと置かれた紅茶を口に運ぶ。
熱すぎず、かといって冷めているわけでもない紅茶は飲み頃だ。
……うん、温かい。温度を感じるってことは、夢じゃないっていうのも本当なんだ。
ふわりとしたベリー系の香りを鼻が拾い取り、これは夢ではないという確信が心にしみこんでくる。
ぬくもりを感じることもそうだが、匂いまであるとなれば、夢だとしても普通の夢ではないはずだ。
「僕やこの状況について受け入れてくれたようだから、早速話を進めさせてもらうよ。単刀直入に言うと、榊さんに弟を助けてほしいんだ」
「え? 神様のアシュヴィト様の弟と言うと、やっぱり神様で名前もアシュヴィト様……」
……うん、確かに紛らわしい。
これは確かに先を制して『紛らわしいから』とアシュヴィトが自分を『アシュ』と呼ぶようにと言うわけである。
兄だけ、あるいは弟だけが話題ならば良いのだろうが、二人が混在する会話においては呼びわけは必須だろう。
そうでもしなければ、どちらの話をしているのかすぐに判らなくなる。
「えっと、アシュ様と弟のアシュヴィト様?」
「弟のことは『ヴィー』とでも呼んでくれればいいよ」
「では、アシュ様とヴィー様とお呼びします。……それで、わたしに助けてほしいと言うのは、どういったお話でしょうか?」
とてもではないが、私に異世界の神様を助けることなどできるとは思わない。
私はどこにでもいる普通の一般人――オタクではないという意味ではない――でしかないので、神様を助けられるようなチート能力を持っているわけではなかった。
異世界の神様から『助けてほしい』と頼られるような心当たりはないのだ。
なぜ私なのか、という当然の疑問を口にすると、アシュヴィトは私に声をかけてきた理由を教えてくれた。
「正直色々な世界を探してみたよ。榊さんより強い人や、弟を助けられそうな能力をもった人も何人も見つけた。それでも僕は、榊さんが適任だと思ったんだ」
お願いできないかな、とアシュヴィトの金色の瞳にみつめられ、ぐらりと心が揺れる。
私にショタ属性などなかったはずだが、そこはなんというか『可愛いは正義』をモットーとする変態民族日本人だ。
美少年という拳無き圧倒的な力の前では、色々なものが揺さぶられた。
「あの、でも……知ってのとおり、わたしはアニメとか漫画が大好きな……オタク、ですし。異世界転生とか転移とか、困ります。突然いなくなったら家族も心配すると思いますし……」
なにより深夜アニメの続きが気になる。
ほかにもっと役立ちそうな人がいるのなら、そちらを当たってほしいというのが本音だ。
「そのあたりのことはちゃんと考えているよ。榊さんには僕の都合でお願いをしているんだから、これまでの生活や家族については心配しなくても大丈夫。ちゃんとフォローさせてもらうよ」
深夜アニメの続きどころか、来期のアニメの視聴も保障できるから、と追加された言葉に、私の心は完全に傾いたと言っていい。
少なくとも、話を最後まで聞いてもいいかという気にはなった。
「最初に言ったけど、榊さんにしてもらうのは異世界『転生』でも『転移』でもない。いうなれば……『転写』かな?」
「転写、ですか? 転写というと……つまりコピーとか複製のような?」
「そう、コピーだ。複製を作るということは、当然原本が残るわけだから、まずこちらの世界にいる榊さんの家族が『娘が行方不明になった』と心配することはない。原本の榊さんがいるわけだからね」
家族については、確かに心配なさそうだ。
原本の私がいるのなら、私が突然いなくなったと言って困る人もいないだろう。
それもそのはずで、私はどこへも行っていないのだから。
「それでは、複製された側のわたしはどうなるんですか? わたしはわたしですよね? 複製された方のわたしが家族に会いたくなっても、原本のわたしがいるから、家族には会えなくなるんじゃあ……」
「そこも考えているよ。複製の榊さんを地球に連れ帰る必要があるから、どうしても僕に声をかけてもらう必要はあるけど、中身だけ原本へ戻すのも、なんだったら原本と複製の榊さん二人が存在することこそが正常である、と必要な時だけ家族に思わせることもできる」
とにかく、最低限の保証としてこれまでと同様の生活ができることは請け負ってくれるらしい。
深夜アニメの続きが見られるどころか、ネット通販や友人との連絡も取れるそうだ。
ざっくりとした理解になるのだが、複製された方の私は異世界に行って、異世界での生活拠点はアシュヴィトに与えられることになる。
アシュヴィトの世界には電気がまだ無いらしいのだが、魔力を電力に変換し、私が今使っているテレビやパソコンといった家電をそのまま使える環境を整えてくれるそうだ。
その延長として、深夜アニメの続きが見られるし、異世界に滞在する期間によっては来期のアニメもちゃんと見ることができる。
ネット通販も対応してくれるとのことで、漫画の続きも薄い本も購入が可能だ。
複製の私の生活でこれまでと変わることは、会社へ行って働いていた時間に異世界で活動することになる、といったところだろう。
正直なところ、かなり異世界転移ならぬ転写に興味がでてきた。
とくに、誰にも迷惑や心配をかけないというところが素敵だ。
「……これまでの生活が続けられる、ということはわかりました。それで、その……弟さんを助ける、というのは、具体的にはどういったお話なんですか?」
「弟は今、ある場所で石になっているんだ」
アシュヴィトの治める世界で、迷惑なことに破滅主義を謳う宗教が生まれてしまったらしい。
普通であれば人間が何を信仰しようがアシュヴィトは干渉せずに放置するのだが、あろうことかその怪しげな宗教は、世界の天井を支える世界樹を切り倒そうという発想にいたってしまったそうだ。
あとは説明されなくとも、なんとなくわかる。
昔日本でも、馬鹿な子どもが引き起こした事故としてニュースになったことがあるはずだ。
柱を失った家は潰れる。
アシュヴィトの世界も、世界樹を失って潰れたか、潰れかけたのだろう。
話の続きを聞いてみると、やはり世界樹は傷つけられ、倒れかけているらしい。
弟のアシュヴィトは世界樹を支えるために自ら石化し、そこから動けなくなってしまったそうだ。
「……石化した神様を助けるとか、出来る気がしないのですが」
「そこは大丈夫だよ。榊さんには素質があると思ったから、数ある世界の中から榊さんを選んだんだ」
「素質、ですか……?」
はて、私には何か他者より勝るものなどあっただろうか? と首を傾げる。
こう言ってはなんだが、学生時代の成績は平凡なものであったし、薄い本を読むどころか自分でも作るタイプのオタクだったが、絵や文が特別上手いということもない。
何かの素質が自分にあるとは、とてもではないが思えなかった。
「榊さんは、料理の隠し味って知っているかな?」
「……愛情とか、ベタなことを言います?」
「実はそれが正解に近いんだ」
どうやら私の愛情がアシュヴィトの求める弟を助ける素質らしい。
愛情だなんて形のないもの、私以外の誰にだって可能性はあると思うのだが、アシュヴィトは私を選んだのだと言う。
私が一番成功する可能性が高いのだ、と。
「念のために聞いておきたいのですが、途中で投げ出すことは……?」
「残念だけど、無理をお願いしているという自覚はある。その時は聞き入れるよ」
とにかくやるだけやってみてはくれないだろうか、というアシュヴィトに、不安は残るが不承不承頷く。
アシュヴィトが私の素質とやらを見込んでくれたのだし、これまでの生活は保障されている。
どうしてもだめだと思えば途中で投げ出すことまで認めてくれたのだから、挑戦ぐらいはしてもいい。
むしろするべきだと思った。
馬鹿な一部の人間のせいで世界樹が傷つけられ、それを倒すまいと一人で頑張っている神様がいるのだ。
私に助けられる可能性があるというのなら、少しぐらい挑戦してみるべきだろう。
なにより、これが夢であれ現実であれ、こんな話を聞いたあとで「でもそんなの私には関係ないことだし」と切り捨てることはできない。
ここでこの兄弟を見捨てれば、後々夢見が悪くなることは確実なのだ。
「駄目で元々ですからね? 精一杯やってみますけど、あまり期待しないでくださいね」
全13話の不定期更新です。